午後から雨が本降りになる。時おり激しい雨音。
微かに残っていた秋の名残りを押し流していくのだろう。
そうして霜月が終わる。明日からは師走だと思うと
なんだか一気に背中を押されているような緊迫感を感じる。
何処かに向かうべきなのだろうけれど少し戸惑ってしまうのだった。
月末の仕事をスムーズに終え定時で帰路に就く。
車のワイパーを全速にしても前が見えない程の雨だった。
いつものスーパーに寄ったら足元がびしょ濡れになる。
鰹は高くて買えない。相変わらずお財布は寂しい。
昨夜は自分なりに書きたかったことを書いたけれど
今夜はどうだろう。またつまらない日記になるのだろうか。
過去を綴るのはなんだか心地よく感じるのだけれど
所詮は昔話。恥さらしにもなり得るのだろう。
あとどれ位の人生なのか定かではないけれど
思い残すことがないように書き残せれば本望に思う。
「生き様」などと言う大それたことではない。
誰にだって歩んできた道がある。その道を記しておくことだ。
雷鳴がとどろく夜になった。初冬の雷も風情がある。
雷雲に覆われた空はすべてを受けとめていることだろう。
孫たちがそろそろお風呂に入る頃だ。
昨夜から私が買った冬物のパジャマを着てくれているのが嬉しい。
今朝は各地で今季一番の冷え込みだったらしい。
山里は平野部よりも冷え初霜が降りていたそうだ。
来客があるたびに「寒かったねえ」の声。
日中は嘘のように暖かくなり陽射しが降り注いでいた。
独り暮らしのお客さん。毎日3時に入浴するらしい。
5時には晩酌を始め9時には床に就くとのこと。
夜になるとやはり心細く飼い猫だけが話し相手なのだそう。
そんな話を聞いているとなんと私は恵まれていることだろうか。
私など独り暮らしは絶対に出来ないと思う。
21歳の頃だっただろうか。少しの間だったけれど
アパートで独り暮らしをしていた時があった。
いつまでも母達の世話になる訳にもいかず
就職を決め自分なりの独立を果たしたつもりだったけれど
まるで天井が落ちて来るのではないかと思うほど夜は心細かった。
当時つきあい始めたばかりの彼がいてすぐに同棲を始める。
同棲と言っても彼にも借りているアパートがあり
毎晩仕事が終わると通って来ると言う暮しであった。
料理を作るのが得意で趣味は釣り。週末はよく一緒に釣りに行った。
ほんとうに気の合う人で私は彼に救われていたのだと思う。
けれどもそんな幸せな暮しは長続きせず
「結婚」の話が出た頃には彼の母親から猛反対をされてしまったのだ。
毎日のように職場に電話があり「別れてくれ」と言われた。
彼の父親は他界しており大切な一人息子だったのだろう。
そうして彼の選んだのはやはり「別れ」しかなかったのだ。
身を裂かれるような思い。乗り越えられない大きな壁。
私の過去が大きな原因となりもう破局しか道はなかった。
私は思い出がいっぱい詰まったアパートを引き払い
また新しいアパートへ引っ越して行った。
そうしてまた独り暮らしが始まる。
幸いなことに職場の同僚の女性が同じアパートに住んでいて
風邪で寝込んだ時には温かいお味噌汁を運んでくれたりした。
彼女も週末に来てくれる彼を待っている身の上であった。
真冬のある日、飼っていた手のり文鳥が死んだ。
仕事から帰って来たらもう冷たくなっていて手遅れだった。
おいおいと声をあげて泣く。もうほんとうに独りぼっちだと思った。
「孤独」には付ける薬がない。
どれほどの優しさもどれほどの慰めも効きはしないと思う。
それは一時的な事で結局は孤独そのものに違いないのだった。
職場の同僚たちがこぞって私のカレーを食べに来てくれたことがある。
その中の一人に彼が居た。その人は一番美味しそうな顔をしていた。
でも人参が苦手らしい。お皿の隅に人参を残していて
子供みたいな人だなあと可笑しくてならなかった。
40年以上の歳月が流れたけれど
未だに彼はお皿の隅に人参を残し続けている。
朝は初冬らしい冷え込み。日中は小春日和となる。
我が家の玄関先にはまだ日日草が咲いていて
まるで夏の思い出のようにそっと佇んでいる。
そろそろ葉牡丹などを植えて冬らしくしようかなと思いつつ
日日草が咲いているうちはと躊躇ってしまうのだった。
殆ど水やりもしないというのに日日草のなんと逞しいこと。
きっと強い生命力のある花なのだろう。
大量の洗濯物を干しただけで家事らしいことはせず
日がな一日本ばかりを読んで過ごしていた。
娘夫婦が仕事だったので孫たちのこともあり
ドライブどころではなかったせいもあるけれど
やはり読書に集中できる休日がありがたかった。
本を読み始めると夢中になってしまって
お大師堂へも行かず仕舞い。少し後ろめたい気持ちもあった。
私はテレビの音など雑音があると本が読めない性質で
午後は車の中でひたすら本を読みふける。
陽射しさえあれば車の中はとても暖かく最適の環境であった。
吉村昭の「冬の鷹」を3分の2ほど読み進む。
しばらくは歴史小説にどっぷりと浸かりそうだ。
夕飯は「水炊き」鶏肉、牡蠣、それに伊勢海老も加わりけっこう豪華。
伊勢海老は昨日娘むこが素潜り漁で獲って来てくれていた。
買えば高価な物だけれど海の幸をありがたく頂く。
大相撲も千秋楽。笑点を見てちびまる子ちゃん。
食後の一服をする頃には窓から一番星が見えていた。
特に変わり映えのしない一日だったけれど
そんな平凡な暮しがいちばんの幸せに思える。
ありがとうございました。他にはどんな言葉も見つからない。
陽射しはたっぷりとあったけれど風が冷たい一日。
「北風と太陽」のお話をふと思い出していた。
どんなに強く北風が吹き荒れても
旅人の上着をはぎ取ることが出来なかったのだ。
いつものように午前四時に目覚めたけれど
今朝は短歌も詩も書けなかった。
頭の中が真っ白になって少し焦ってしまう。
限界とは思いたくないけれどそれが頭をかすめる。
「どんな時もあってよし」自分を宥めるのが精一杯だった。
朝食後、洗濯物を干し終えるなり本を読み始める。
吉村昭の「夜明けの雷鳴」を読了。
幕末から明治大正と実存した医師の物語でとても面白かった。
いや面白いと言うより興味深いと言うべきだろう。
読後感がとても良く深く感動した物語であった。
お昼前にカーブスへ行き午後から図書館へ走る。
検索では確かにあるはずの吉村昭の本が見当たらなかった。
係の女性に告げると裏の書庫に眠っているとのこと。
図書館にも表と裏があるのかと少し驚いてしまう。
しばらく待っていたら女性が探して持って来てくれた。
まさに「お蔵入り」の貴重な本に思えてならない。
今夜は四万十市花火大会があり娘たちが揃って出掛ける。
夕飯も要らないと言うので大いに助かった。
残りご飯でチャーハンを作り湯豆腐とローソンのチキン。
じいちゃんと大相撲を観ながらゆっくりと食べる。
今夜の花火は「コロナに打ち勝つ」という名目で
夏に中止になっていた市民祭の代わりの行事らしかった。
ちょうどコロナも落ち着いていて良き計らいだと思う。
あと10分ほどで始まるので土手から観てみようと思っている。
冬の花火も風情があり良いものだ。
昼間の北風は収まっているけれど空はきっと感嘆の声をあげるだろう。
ほっとするような小春日和。
ずっとこんな日が続けばどんなに良いだろうか。
11月も残り少なくなり冬将軍がすぐ近くまで来ている。
職場の庭はすっかり荒れてしまったけれど
枯草に覆われるように山茶花の花が咲いている。
栴檀の木も可愛らしい実をつけ青空に映えている。
「まあこんなに荒らして」母が見たら嘆くかもしれないけれど
花や木はとても健気に季節を受けとめているようだ。
昨日は8匹のカマス。今日は8切れの豚ロース。
いつものスーパーでは6人分という「モノ」がない。
元々は業務用スーパーなのだろう。
それを承知の上で格安につられて買い物に行っている。
今夜は豚カツ。今朝あやちゃんと約束していたのだった。
娘の帰りが遅かったので一人で頑張ってみる。
やれば出来るのだ。こんがりと美味しそうに揚がった。
息子のお嫁さんのご実家から電話があり
けい君に自転車を買ってくれるそう。
来春からは自転車通学になるのでありがたいことだった。
それなのに息子ときたら「まだ要らない」と言う。
理由は「どうせ乗れないから」と。
自転車があれば練習も出来るだろうに何を考えているのやら。
娘に話したら「お兄ちゃんは親か!」と呆れ返っていた。
可能性を信じないで最初から諦めていてどうする。
とても不機嫌な声だったので疲れていたのかもしれない。
タイミングが悪かったのかなと思うことにした。
しばらく経てばまた朗報が舞い込むことだろう。
親だからと言って孫の事にあれこれ口出しを出来ない。
それはもう十分に思い知って来たことだった。
ただ願う気持ちは強く愛情ははかりきれないものがある。
確かなことは成長していること
親はどうしようもなく老いていくこと。
日中は小春日和。昨日よりもずいぶんと暖かく感じる。
冬の陽射しはほんとうにありがたいものだ。
お昼休みに車の中で本を読んでいたらいつのまにかうたた寝。
そうして貴重な時間を失ってしまうのも良しと思いたい。
拘ればきりがない。好きなようにすれば良いのだろう。
定時で仕事を終えられたのでゆっくりと買い物。
新鮮なカマスが安かったので8匹も買ってしまった。
一パックに4匹も入っていたので仕方ない。
独り暮らしの人には困るだろうなあと思った。
でも一パックで398円はとにかく安い。
カマスを塩焼きにして後はシチューと牛筋煮込み。
孫たちと娘はダンス教室から帰ってから食べるのだそう。
テーブルの上にはすっかり冷めたカマスが並んでいる。
お魚の眼というものはなんだか哀し気でせつないものだ。
今夜はなんだかいつものように書けなくて
すでに眠気も襲ってきているのかしんどくてならない。
まだ8時前だけれど早めに床に就こうかとも思う。
本を読む気力もない。おやすみなさい。
つまらない日記でごめんなさい。
朝の冷え込みが日毎に更新されているよう。
日中もあまり気温が上がらなかったけれど
時おり雲間から陽が射しほっと空を仰いでいた。
今朝も柚子農家さんがそれは沢山の柚子を届けてくれた。
すべて規格外の柚子でなんだか憐れでならない。
山里には柚子の加工場もあるのにどうしてだろうと思う。
柚子酢はもちろんだけれどジュースにも出来るものを。
農家さんの苦労が報われない。なんと理不尽な事だろう。
2時間程残業になりもう陽が傾き始めた頃に帰路に就く。
車には頂いた柚子を積んでおりほのかな香りが漂っていた。
我が家の柚子酢はもう十分にあるので従姉妹の家に届ける。
搾るのに手間がかかるけれど喜んで貰ってくれて良かった。
帰宅したらじいちゃんが洗濯物を取り入れてくれていたけれど
例のごとくで洗濯カゴの中にぎゅうぎゅうに押し込んであった。
またかと思ったけれどどうして文句が言えようか。
皺を伸ばしながら洗濯物をたたむ。もう日暮れが近い頃。
めいちゃんのお友達が遊びに来てくれていたのだけれど
めいちゃんはあやちゃんと学校へ一輪車の練習に行ったのだそう。
お友達は行きたがらずたった独りで遊んでいたようだった。
悪い事をしたなと思ったけれどお友達はけっこう楽しかった様子。
5時過ぎにおばあちゃんが迎えに来て機嫌よく帰って行った。
夕食は野菜たっぷりのチャンポン。私も食べたかったけれど我慢。
白菜キムチとノンアルビールだけでお腹がいっぱいになる。
ダイエットの影響だろうか胃がちいさくなっているようだ。
あと2キロ程で目標達成になる。もう少し頑張ってみよう。
孫たちがやっと冬物のパジャマを着てくれるようになった。
そろそろお風呂の時間。新しいパジャマを着てくれるかもしれない。
とりとめのないことばかり。つまらない日記になってしまった。
日常のささやかな事だけれど私にとってはどんな日も愛しい。
今朝は今季一番の冷え込み。日中も北風が強く冬らしい一日。
北海道からは雪の便りが。いよいよ本格的な冬になった。
午後、母を施設に迎えに行き美容院へ連れて行く。
先月ガラス越しに面会が叶った時には涙ぐんでしまったのに
今日は不思議とあっけらかんとしていた。
母もさほど感動した様子も見せずにいて
「なんでパーマ屋へ行かんといかんがや」と憎まれ口をたたく。
ぶつぶつ文句を言いながらなんとか車に乗ってくれた。
それでも美容院へ着くとすぐにお茶目ぶりを発揮し
「まだ生きちゅうよ」と言って美容師さんを笑わせていた。
鏡に向かいながらおどけて見せたり変な顔をして見せたり
母はこんなに愉快な人だったかしらと可笑しくてならない。
襟足を刈り上げにしてもらって母の言う「男前」になった。
なんと可愛らしいこと。惚れ惚れするような姿であった。
施設のある病院へ帰り着くとしきりに私に気を遣う。
「忙しいに済まんかったね」と「早うに帰りや」とか言ったり
おかげで別れを惜しむ間もなく追い出されるように病院を出た。
私に遠慮することなど何もないと言うのにどうしたことか。
母がなんだか憐れに思えてならなかった午後のこと。
もっと甘えてくれたらいい。もっと駄々をこねてくれたらいい。
帰り道に市の教育文化展を見に行っていた。
あやちゃんは絵がめいちゃんは硬筆が入選していた。
あやちゃんの絵を見てびっくりする。
とても活き活きと描かれていて素晴らしい絵に思えた。
きっとにこにこしながら描いた絵なのだろう。
描いているときの姿が目に見えるようだった。
あやちゃんあなたはすごい。
二十四節気の「小雪」寒さは和らいでいたけれど雨の一日となる。
雨遍路さんが5人程。雨合羽を着ていたけれど
足元はずぶ濡れだったのではないだろうか。
明日は晴れても靴はすぐには乾かないだろう。
幸い5人とも野宿ではなさそうだったのが救いだった。
職場の近くの銀杏の木がすっかり葉を落としてしまい
二本あるうちの一本はもう骨のようになっていた。
黄金色の落ち葉に雨が降り注ぐのがとても切なく感じる。
やがて木枯らしが吹き落ち葉は冬の証のように飛んでいくだろう。
母の施設のケアマネさんから電話があり
明日母を美容院へ連れて行くことになった。
コロナが落ち着いている今しかないと話し合ってのこと。
母には知らせていないけれどきっと喜ぶことだろう。
施設には定期的に理容師さんが来てくれているのだけれど
母は頑として散髪を嫌がっており昔から行きつけの美容院へ。
施設側も母の気持ちを汲んでくれていわば特例でもあった。
いつが最後になってもおかしくない。いつもそう思ってしまう。
今夜はあやちゃんがすこぶるご機嫌が良い。
算数の授業で予習をしていたのを先生に褒められたのだそう。
金曜日に学校を休んだ理由は未だに分からないけれど
教科書を開いて自分なりに予習をしていたようだった。
あやちゃんが笑顔でいてくれるとほんとうに嬉しくて
私もついついテンションがあがってしまった夜だった。
暗い日記を書いてしまうこともあるけれど
今夜は「まあまあ」なのではないかなと我ながら思っている。
穏やかな日常ばかりとは限らない。
だからそれは「どんな時もあってよし」なのだ。
今夜も眠くなるまで本を読もう。
目覚めたらきっと「あたらしい朝」がやって来る。
曇り日。ほんの微かな陽射し。
大量の洗濯物がなんとか乾きほっとする。
朝のうちにお大師堂へ。なんと2週間ぶりであった。
ご無沙汰を詫びつつ花枝(しきび)を活け替えたり
お線香の補充をしたりして自分の役目を果たす。
手水鉢の水が少なくなっていたけれど
足が痛く川辺まで水を汲みに行けなかった。
今まで出来ていたことが出来なくなるのはなんだか辛い。
スーパーへ買物に行ったら昔の同僚K姉ちゃんに会う。
縫製工場に勤めていた頃の先輩でよく可愛がってもらった。
今はもう70歳を超えているはずだけれどまだとても若々しい。
マスク顔なのによく分かったねと「ありがとうね」と微笑んでくれた。
昔はよく夜な夜な電話をしたものだった。
K姉ちゃんは聞き上手で「そうか、そうか」といつも優しかった。
縫製工場に勤めたのはわずか2年足らずだったけれど
私にとっては良き人間関係を築けた貴重な年月だったと思う。
スーパーから帰り里芋を求めて従姉妹の「良心市」へ行く。
大根や葱などどれも百円。里芋も5個ほどで百円だった。
5個ではちょっと少ないけれど2袋買うと多過ぎる。
まあ良いかと家へ帰ったらちょうど散歩中の従姉妹に会った。
「いま、買ったよ」と里芋を見せてつい後2個欲しかったと言ったのだ。
そうしたら10分もしないうちに里芋を2個持って来てくれた。
お金など要らないあげるからと言ってなんとありがたいこと。
従姉妹の里芋はほくほくととても美味しかった。
「里芋」と書いたけれどここいらでは「メアカ」と呼んでいる。
漢字で書くと「芽赤」だろうか。きっと赤い芽が出るからだろう。
姑さんが健在だった頃にはたくさんメアカを作っていたけれど
決して勝手に畑を掘り起こしてはいけなかった。
メアカどころか葱の一本も無断で採ってはいけなかったのだ。
メアカは姑さんが大鍋で煮てそれを分けてもらっていた。
小鍋を提げて貰いに行くのが常であったのだ。
じいちゃん(夫)はその煮汁をご飯にかけて食べるのが大好きで
今夜も「汁はようけあるか」と楽しみにしていた。
姑さんが亡くなってからメアカは買わなくてはいけなくなったけれど
食べたい時に食べられる。それが私はありがたくてならない。
煮汁をいっぱいにして大きなお鍋で煮た。
※「ようけあるか」は「たくさんあるか」の意味。
穏やかな小春日和。夜明け前には西の空に満月を見る。
月は沈み始めると紅くなる。そうして夜が明けると白くなる。
朝のうちに同人誌へ送る短歌を選んだ。
2ページなので16首。掲載料は要るけれど載せて貰えるのはありがたい。
ちなみに2ページで8千円。少なからず家計に響くけれど
僅かながら年金を支給されているのでその中から捻出している。
65歳になると年金が満額支給となるのできっと楽になるだろう。
あと2週間で65歳になる。それが楽しみでならない。
詩は決して諦めてはおらず細々ながらSNSで発信している。
注目されることもなければ認められることもないかもしれない。
ただ自分の存在を残したい一心で毎日夜明け前に書き続けている。
もしも突然死んでしまってもきっと残るだろうと信じてやまない。
昨日から読み始めていた吉村昭の「白い道」を読了。
吉村さんはもう亡くなっているけれど父と同年代であった。
少年時代の戦時中の事、戦後の事などとても興味深く読む。
東京のように大空襲はなかったけれど父も戦争を体験している。
少年兵に志願しようとしていた矢先に終戦を迎えたと聞いたことがある。
もう読む本が無くなってしまって夕方になり図書館へ走った。
マスクを車に忘れたままでうっかり図書館へ入ってしまう。
足の痛さもあり引き返さずそのまま本を選んだ。
人目が気になり大急ぎで本を借り逃げるように帰って来る。
今夜は娘たちが夕食が要らないと言うのですっかり手抜き。
スーパーで握り寿司とお惣菜を買って来て済ます。
娘たちは外食かなと勝手に思い込んでいたけれど
そうではなくあれこれと買い出しをして来たようだった。
最近月に二回くらいそんな日があって私は楽をさせてもらっている。
娘たちも私の考えるメニューよりずっと良いのだろうと思う。
心配していたあやちゃんは今日はにこにこの笑顔。
おそるおそる話しかけても素直に応じてくれて嬉しかった。
思春期に差し掛かる前の微妙な年頃である。
やはり詮索をしないのがいちばんのことなのだろう。
平和な夜だ。ほろ酔ったところでこれからまた本を読む。
おおむね晴れ。今日も日中の気温が20℃を越す。
半袖姿のお遍路さんが颯爽と歩く道には
木々が色づき紅葉も真っ盛りのようだ。
今年は紅葉ドライブをすっかり諦めてしまって
近場の木々を仰ぎながらこころを和ませている。
それにしてもガソリンの高騰には困ったものである。
貧乏人はドライブも行けないご時世になった。
こんなことを書いてしまうとなんとしみったれたこと。
書かなければ良かったと思いつつもう書いてしまった。
今朝はあやちゃんが学校へ行きたがらず結局休む。
何か理由があるはずなのだけれど何もわからない。
はらはらと心配していたらじいちゃんから「詮索するな」の一言。
母親である娘は知っているらしいけれど教えてはくれない。
いくら祖母でも立ち入ってはいけないことなのだろう。
休んでも良いから勉強はするようにと娘が言い聞かしていた。
出勤前にそっと部屋を覗いたら「見ないで!」と怒鳴られる。
今は家族4人で夕食中でとても楽しそうに話し込んでいる。
あやちゃんも笑顔でどうやら私の取り越し苦労だったのか。
それでも「家族ではない」と拒絶されたように感じる。
祖父母程うっとうしい存在はないのかもしれない。
ああ嫌だ嫌だ。どうしてこんなことを書いてしまうのだろう。
気分入れ替えなくちゃ。何もかもリセットしなくちゃ。
ふとあやちゃんもリセット出来たのかなと思う。
来週からまた元気に学校へ行ってくれますように。
焼酎の水割りをもう一杯飲んでこれからまた読書。
曇り時々晴れ。陽射しがあるとずいぶんと暖かい。
今週末頃から一気に冬らしくなるとのこと。
北国では雪の日が多くなることだろう。
南国高知とはいえ油断は出来ない。
かつて「小雪」の頃に雪がチラついたことがあった。
仕事で大切な書類作成を失念していて後始末に追われている。
決算後に必ず県に提出しなければいけない書類だった。
それも4年分もすっかり忘れていたでは済まないこと。
歳のせいで物忘れが酷くなってしまったのだろうか。
どうして忘れていたのか顛末書まで書かなければいけないのだそう。
頭を悩ませながら格闘している。明日には目途を立てたいところだ。
仕事は好きだけれどなんだか今週は気疲れしてしまった。
午後6時。じいちゃんと二人きりで夕食。
娘たちと一緒に食べることは殆どなくなった。
それにすっかり慣れてしまって寂しく思うこともない。
食後の食器洗いも楽でそれなりに助かっている。
今夜は孫たちのダンス教室があり帰宅してから食べるのだそう。
あやちゃんの好きな麻婆豆腐を作ってあるので食べてくれたら嬉しい。
私は7時前にはお風呂に入ってこうして日記を書いている。
もちろん寝酒の焼酎は欠かさずでほろ酔いつつのこと。
とりとめのないことばかり。今夜もつまらない日記になった。
いま7時40分。寝るまでに一時間は本が読めそう。
2021年11月17日(水) |
初冬ではないのですか |
今の季節を私は「初冬」だと思っているのだけれど
SNSなど見ていると「秋」という表現が多いのに戸惑っている。
今日は朝日新聞の記者さんが「晩秋」と表現していた。
新聞記者さんが間違えるはずがないと思えば
私が間違っていることになるのだけれどどうなのだろう。
11月も中旬を過ぎ二十四節気は「立冬」から「小雪」になろうとしている。
それでも初冬ではないのだろうか。ついつい考え込んでしまうのだった。
今朝は仕事で納車がありお客さんのお宅を訪ねたら
出荷出来なかった規格外の柚子と畑の大根をいただく。
「ちょっと待ちよってね」と言って畑まで走ってくれたのだ。
新鮮その物の大根のなんとありがたことだろう。
「葉っぱは要らんろ?」と訊かれたので「欲しいよ」と応えた。
鮮やかな緑の葉っぱ。茹でて油炒めにしたら美味しいのだ。
家族は誰も食べないけれど私は大好きだった。
柚子は規格外とは言えとても良い香り。搾れば立派な柚子酢になる。
規格はとても厳しいらしくなんだか柚子が可哀想になった。
農家さんの苦労も報われないのはとても理不尽な事だと思う。
スーパーでお刺身用のハマチが半額。迷わず籠に入れる。
ハマチは鰹と違って新鮮さの見分けがつかない。
黙っていれば分からないだろうと思ったのだけれど
家族にはちょっと不評。ずいぶんと残ってしまった。
その残ったお刺身に塩と酢をかませたら明日の朝に食べられる。
柚子も絞って入れたらきっと美味しいだろう。
もうすぐ午後8時。日記を書き終えたらほっとする。
床に就く9時まで本を読みたい。
連日の小春日和にほっこりと心が和む。
今夜も室温が20℃もありずいぶんと暖かい。
歩き遍路には最適の季節なのだろう。
今日も6人ほどのお遍路さんを見かけた。
印象的だったのは修業僧と思われる黒装束のお遍路さん。
まだ若く20歳くらいに見えた。とても凛とした姿。
足元は草鞋で颯爽と歩く姿が眩しい程だった。
ふと今は亡きKさんを思い出す。彼も修業僧だった。
何故死を選んだのかと思うと胸に熱いものが込み上げてくる。
職場に外国人のお客さんロージーがオイル交換に来てくれた。
日本語がずいぶんと上手になって会話が弾む。
それでもなるべく英語をと思い私も頑張ってみた。
お互いがカタコトでそれも愉快でならない。
彼女は近いうちに歩き遍路に挑戦するのだそう。
「オヘンロイクネ。ガンバルネ」と話してくれた。
そのために新しい靴を買ったのだそう。
今日はその靴を履いていて「ナイスシューズ」
きっと良き旅になるだろうと自分の事のように嬉しかった。
上手く伝わるかなと思いつつ私もお遍路に行きたい事を話す。
でも足が痛くて歩けそうにないことも話してみた。
ロージーは一瞬「オーノー」という顔をしたけれど
私の肩に手を置いて「ダイジョウブ」と励ましてくれた。
言葉は上手く伝わらなくても心はちゃんと伝わっているのだと思った。
それはとてもあたたかく心に沁みるふれあいであった。
ロージーの歩く姿に自分を重ねて私の夢がふくらむ。
決して夢をあきらめてはいけない。
日中の気温が20℃を超えぽかぽかと暖かい。
まさに小春日和とよぶのにふさわしい一日だった。
職場の近くの銀杏の木がすっかり黄金色になる。
今週いっぱいが見頃なのではないだろうか。
葉が散り始めたらそれはあっと言う間のこと。
はらはらと儚いそのさまが目に浮かぶようだ。
帰宅したら昨日の合評会で会ったEさんからメールが届いていた。
私の詩があまりにも罵倒されたものだから
他人事ではないと気遣ってくれたようでありがたいこと。
けれども私は打たれ強いのかめげてもおらず傷ついてもいない。
むしろ励まされたことを伝えなければいけないと思う。
長い返信になりそうなので取り急ぎ明日返信する旨だけを伝えた。
Eさんはまだ30代の若さで前途有望な詩人である。
詩を学ぼうとする姿勢が半端じゃない。
この先きっと高知をいや日本を代表するような詩人になると思う。
それだけの可能性を秘めており私には眩しいくらいの存在である。
若さを妬み老いを嘆く。そんな気持ちは少しもなかった。
私には与えられた道がきっとあるのだろうと信じてやまない。
それは生きてみないとわからない。私にも未来があるのだと思う。
ひとは打たれれば打たれるほど強くなる。
負けてたまるかと思えば不思議と勇気が湧いてくるものだ。
曇り日。薄陽が射してくれたおかげで日中は暖かくなる。
今日は何年ぶりだろうか列車で高知市へ行っていた。
お世話になっている同人誌の合評会に参加するためだった。
先日のDさんとのやり取りもあり一度は会ってみたい。
そんな気持ちもあり決心したのだけれど
まるで血統書付きの犬の品評会にのこのこと出掛ける
雑種の野良犬なのではないかと自分を見下す気持ちもあった。
けれどもなんと和気あいあいと楽しかったことだろう。
帰りの列車の時刻が迫り途中で抜ければならず残念であった。
Dさんが私の詩をとことんけなす理由も分かった気がする。
きっと可能性を信じてくれているのだろう。
同人の皆さんの励ましもとても心強く嬉しかった。
私は70歳よ。私なんか73歳よと女性陣はみな口々に言う。
私も諦めるつもりはない。命がけで立ち向かっていきたい。
いつかきっと辿り着く場所があるのに違いないのだ。
合評会が始まる前に一時間程時間があったので
弟に連絡し亡き父の遺骨に会いに行っていた。
明日が命日。もう18年の歳月が流れたことになる。
未だにお墓は作ってあげられずにいるけれど
父の魂は安らかに眠っているのだと信じてやまない。
ひ孫も4歳になり可愛い盛り。明日あたり二人目のひ孫も誕生する。
賑やかな弟の家で父もきっと微笑んでいることだろう。
今日はとても佳き日でした。ありがとうございました。
朝の寒さが更新されまた今季一番の冷え込み。
ぬくぬくのお布団が名残惜しいこと。
えいやあと起き出しすぐにちゃんちゃんこを羽織る。
朝のうちに頂き物の直七と柚子を絞る。
台所だけでなく家中にその香りが漂っていた。
手や身体にも移り香を残しなんとも清々しい気持ち。
柑橘系の香というものは癒しの効果もあるようだった。
高知の「田舎寿司」には必ず柚子酢が使われていてとても美味しい。
昔の山間部では新鮮な魚が手に入らなかったこともあり
椎茸や蒟蒻、リュウキュウや筍のお寿司が作られていた。
それは今でも食べることが出来て山間部の道の駅などで売られている。
私は特にリュウキュウと筍のお寿司が大好物である。
食べるたびに懐かしさを感じるのは子供の頃の記憶だろうか。
それも曖昧な記憶でいったい誰が作ってくれたのか憶えていない。
母だったのかもしれないし父方の祖母だったような気もする。
父方の祖母の家では柚子を栽培していたような記憶があるのだった。
柚子で有名な馬路村の近くだったからそれはあり得る話でもある。
見よう見真似で田舎寿司を作ることも出来ないではないだろうが
未だ一度も挑戦したことなどない私であった。
その代わり「鰹のひっつけ寿司」はよく作る。
これは嫁いでから姑さんに教わったもので云わば我が家のお寿司だった。
山間部とは違って新鮮な鰹が手に入りやすいこともある。
鰹だけではなく鰤のひっつけ寿司もなかなかに美味しいものである。
なんだ今夜は寿司日記かと苦笑いしておられる方もいるだろう。
つまらない日記に毎晩つきあって頂き感謝しかない。
あやちゃんとめいちゃんがお風呂から出たようだ。
新しいパジャマにはまだ一度も袖を通してくれない。
朝の最低気温が一桁の日が続いている。
やがては真冬並みの寒さが襲って来ることだろう。
少しずつ慣れていかなければいけない。
それにしてもいつからこんなに冬が苦手になってしまったのか。
子供の頃編み物が得意だった母が毛糸の帽子を編んでくれたことがある。
山間部の冬は平野部よりもずっと寒さが厳しくて
その帽子が嬉しく霜柱を踏みながら学校へ通ったものだった。
弟はまだ保育園児だったのではなかっただろうか。
確か白い帽子だった。尻尾のように長い帽子でぼんぼりが付いていた。
ある日の帰り道友達がふざけて弟の帽子を引っ張ったら
ぼんぼりが千切れてしまって弟が大泣きになったことがある。
私はそのぼんぼりを手のひらに包み込むようにして家に帰った。
その夜、母がぼんぼりを付け直してくれたことを憶えている。
弟の白い帽子。私の帽子は何色だったのだろう。
それがどうしても思い出せない。なぜ忘れてしまったのだろう。
母もきっと忘れていることだろう。もしかしたら編んだことさえも。
子供の頃の記憶はとても曖昧で断片的でもある。
よほど印象深い事ではない限り憶えていない事の方が多い。
今は孫たちとふれあいながらの日々にあって
些細なことなどあっても忘れられてしまうかなと思うと
ふっとせつなさが込み上げて来る時がある。
小春日和にほっとしていたけれど午後3時頃突然の時雨。
大気がよほど不安定だったのだろう。
これから真冬になると時雨が雪に変わることもある。
もうそんな季節になったのかとつくづくと冬を感じた。
帰宅するとじいちゃんが「銀行から電話があったぞ」と言う。
それは昨日で住宅ローンが完済になった知らせだった。
30年もの長い間のことで大変だったけれどやっと肩の荷が下りた。
「よく頑張ったよね」と二人で頷きあいながら労い合う。
30年前。蓄えなど全くなく頭金も無いまま建てた家だった。
母屋の老朽が酷く雨漏りがするので瓦を吹き替えたいと
姑さんがその資金を用意するようにと言って来たのだった。
まるでそれが長男の務めだと言わんばかりの口ぶりであった。
貧乏のどん底で家族4人がやっと食べていけるような暮し。
百万円と言われても借金をするしか術が無かったのは言うまでもない。
散々悩んだあげくどうせ借金をするのならと決めたのは
古い母屋を取り壊し新築の家を建てることだった。
それにしても銀行が易々とお金を貸してくれるだろうか。
それは危惧に終わり住宅ローンの手続きはあっという間に整う。
土地と家を担保にすれば簡単に貸してくれたのだった。
その時には後のローン地獄の事など考えてもいなかった。
「なんとかなるだろう」私も夫もまだ若かったせいもある。
母屋から姑さんと義妹を追い出すわけにもいかず
同居を提案したのは他ならず私であった。
新居の設計図には姑さんの部屋と義妹の部屋がしっかりとあった。
私が浅はかだったのはローンの手助けを期待していたこと。
少しぐらいは助けてくれるだろうと安気に考えていたのだった。
しかし現実はそれに反し全く援助はなかったのだ。
おまけに家族は6人となりたちまち生活費に困るようになる。
長男だから親を養うのは当たり前のことだったのだろう。
義妹はさすがに気を遣ったのか食費として月々2万円をくれた。
新築の家は住み心地は良かったけれど家族間の摩擦も多く
決して快適な暮しとは言えなかったと思う。
私も日に日に募るストレスに押しつぶされそうだった。
姑さん達もきっと同じ気持ちだったのだろう。
結局また別居を言い出してくれた時は正直ほっとしたものだった。
それでもローン地獄は続くばかり。
幸い青さ海苔の収入があったのでなんとかなったけれど
それが無かったら土地も家も失っていたことだろう。
やっと解放されたのか。今夜は感慨深い夜になった。
もう苦しまなくていい。もう嘆かなくてもいい。
今朝は今季いちばんの冷え込みとなる。
まだまだ序の口の寒さだろうけれど老いた身には堪えた。
職場で電気系統のトラブルがありしばし停電。
エアコンはもちろんのこと事務所の電灯も点かず
仕方なく2時間程車中に籠り待機していた。
おかげで本を読むことが出来て良かったのかもしれない。
帰宅後、お世話になっている同人誌から返礼集が届いていた。
その中に代表者のDさんからの一筆箋の手紙が入っていて
「詩はやめて短歌だけにしませんか」と書いてあった。
覚悟はしていたけれどしっかりと話し合いたくてすぐに電話する。
Dさんいわく。私の詩はもはや詩とは呼べないのだそう。
特に今号の詩はあきれるほどの愚作だったらしい。
散々に罵倒されたけれどもなぜかそれがとても心地よかったのだ。
元々自信などない。それこそが真実だったのだと思い知る。
一から詩を学び直すようにと言われた。
他人の書いた詩をもっともっと読むようにと強く勧められる。
もうすぐ65歳だと告げてもまだ遅くないと言う。
70歳になっても80歳になっても詩は書けるのだそう。
かくして私は大きな壁にぶち当たった。
傷だらけになってもあがきながら詩を見つめ直さなければいけない。
自己満足で終るのは自慰行為に等しい。
それは他人様に決して晒してはいけない行為なのだ。
Dさんとの会話から大きな課題を頂いたように思う。
私にとっては命がけの命題なのかもしれないけれど
「この世に生きて来た証を残す必要はない」とDさんは言う。
死んだらすべてお終い。死後の事など知るすべもないと。
この日記もそう。私の死後も永遠に残るはずなどないと思う。
限りの無い事などこの世には皆無なのだ。
生きることに執着するのはもうよそう。
ただ私は最後まであがく。どれほど無様でも生き抜いて見せよう。
最高気温が16℃ほど。陽射しも少なく肌寒い一日。
職場の近くの銀杏の木がずいぶんと色づく。
渓谷などの紅葉もそろそろ見頃なのではないだろうか。
毎年の事だけれどまたぶらりと行ってみたいものだ。
定時で仕事が終えられたので市立図書館へ寄っていた。
4冊返却してまた4冊借りる。
訊けば文庫本のコーナーもちゃんとあった。
大勢の人が読んだのだろうかなり傷んだ本が目立つ。
それでも未読の本を見つけると手に取らずにはいられない。
市立図書館は今は市役所の二階にあるのだけれど
新庁舎になる前は市役所とは別棟にひっそりと建っていた。
昔、かれこれ30年近く前になるだろうか
その図書館にYさんという司書の人がいて懇意にしていた。
詩の同人誌を紹介してくれたのもYさんでとても親身になってくれた。
土佐は「遠流の地」その同人誌は「ONL」と言った。
最初はわずか3人で始めた詩誌だったけれど次第にメンバーが増え
私はなんとなく居づらくなり辞めることを選んだのだった。
その時の辞め方はまるで後ろ足で砂をかけるような有り様。
もう二度と戻れはしないと覚悟の上での事であった。
Yさんはその時も親身になってくれてとにかく諦めてはいけないと
詩を書き続けるようにと言ってくれてどんなに救われた事だろう。
私はその後「潮流詩派」「SPCAE」を経て今に至る。
Yさんが定年退職を迎え実家のある高知市に帰る事になった。
年の離れた兄のようでもあり父親のようにも思っていただけに
その別れのなんと辛かったことだろう。
けれどもその後は手紙のやり取りが出来るようになり
いつも長い手紙が届き私も長い手紙を書いた。
10年位そんな文通が続いただろうか
ある日の手紙に「もう二度と手紙を出してくれるな」と
まるで寝耳に水のような事が書き記されていたのだった。
理由はもう高齢であるはずの奥様が誤解しているらしいとあった。
男だとか女だとか思ったことなど一度もなかったはずなのに。
悋気とはなんと残酷な仕打ちをするのだろうと悲しかった。
それ以来音信不通になる。今は健在なのかも分からなくなった。
「詩を諦めるなよ」その言葉だけが今も私の胸を打ち続けている。
曇り時々雨の予報だったけれど思いがけずに荒天となる。
風が強く時おりまるで嵐のように強い雨が降った。
冬が押し寄せて来ているのかもしれない。
それはとても激しく手加減などしそうにもなかった。
今夜は暖かいけれどお湯で食器を洗う。
蛇口を捻るだけでお湯が出る。なんと便利になったことか。
昔はガスの瞬間湯沸かし器が主流だったけれど
贅沢品でもあり何処の家にもあるとは限らなかったと思う。
私が子供の頃もそれはなく母はいつも冷たい水で洗っていた。
それが当たり前の時代だったのだ。
高校一年生の初冬だったと記憶している。
父が「毎日冷たいだろう」と言って瞬間湯沸かし器を買ってくれた。
台所にそれが備わった時のなんと嬉しかったことだろう。
試験運転だと言って何度もお湯を出してみたことを憶えている。
食器を洗うのが楽しくてならない。そしてひたすら父に感謝する。
ある夜のこと思いがけない悲劇が起きた。
湯沸かし器のスイッチを入れるなり悲鳴のような声が聴こえたのだ。
最初はいったい何が起きたのか分からなかった。
すると湯沸かし器の上部からすでに焼け焦げた鼠が飛び出して来たのだ。
私は元々鼠が苦手だったけれどこの時にはさすがにショックで
台所にうずくまっておいおいと声をあげて泣いたことを憶えている。
私が泣き叫ぶのを聞いて父が駆けつけて来た。
「大丈夫、死んじゃいない」と言ってくれたけれど
私は殺したと思った。大変な罪を犯したのだと思ったのだった。
その夜は眠れず「魂に捧ぐ」そんな詩を書いたような気がする。
そんな事があると嬉しいはずの湯沸かし器も怖くなり
スイッチを入れるたびにしばらくは臆病にならずにいられなかった。
今思えば笑い話のような事だけれど
思春期の感受性の強い年頃だったのだろう。
「ネズミヲコロシタ」としばらくその罪に苛まれていた。
遠い昔のことだ。今は誰も責めようとはしない。
晴れのち曇り。夕方から雨がぽつぽつと降り始める。
立冬にしては暖かい一日だったけれど
この雨が上がれば一気に初冬らしくなりそうだ。
午前中に市の津波避難訓練があり参加していた。
けたたましいサイレンの音。「大津波です」と叫ぶ声。
訓練だと分かっていても緊張が走る。
高台の避難所をめがけて歩くのだけれど
困ったことに足が酷く痛みとても難儀だった。
実際に津波が襲ってきたら逃げ遅れてしまうかもしれない。
それとも火事場の馬鹿力で走ることが出来るのだろうか。
股関節の痛みはどうやら遺伝のようで
父方の祖母が足の悪いひとだった。
私が物心ついた頃から杖を突いていたと記憶している。
父の妹にあたる叔母も同じで杖が欠かせないよう。
もう何年も会ってはいないけれど祖母の姿が重なるのではないだろうか。
私もいずれは杖に頼らねばならないのだろう。
今日でさえ杖が欲しいと思ったくらいだった。
まだまだ先の事とは思うけれど覚悟をしておいた方が良いだろう。
来月で65歳になる。後10年が勝負なのではないかと思う。
勝つか負けるか生きるか死ぬか。出来れば勝ちたいそして生きたい。
ここ数日、日常の事から離れ回想記のようなものを書いて来た。
まだまだ書き足らない気持ちがあるけれど今夜は小休止としよう。
自分が生きて来た歴史と言うには大げさになるけれど
ささやかな軌跡になればと願ってやまない。
今こうして自分が在るのは過去があってこその事と思うし
それこそがこれからの糧にもなり得るのではないだろうか。
ひとは死ぬために生まれて来るのだそう。
ならばいかにして生きて来たかをこの世に残しておかねばならない。
最近そのことばかりに拘っている自分がいる。
今日を生きた。明日のことなど誰に分かるのだろうか。
曇り日。薄陽が射すこともなく肌寒い一日だった。
漁協からやっと連絡があり少しだけ種付けが出来たとのこと。
朝のうちに漁場に種網を張りに行っていた。
今後海苔の胞子が出る可能性は極めて低く
15日までに出なければもう中止にするのだそうだ。
仕方ない事だけれどやはり戸惑う気持ちが大きい。
昔は「地種」と言って網さえ張っておけば天然の胞子が付いた。
愛媛の岩松町の種が良質で長いことお世話になっていたけれど
それも自然相手の事で今は絶滅と聞いている。
四万十川もそうだけれど水質の変化が原因だろうと思う。
姑さんから青さ海苔漁を一切任されたのはいつ頃だったろうか。
子供達はもう小学生になっていたように記憶している。
家計の苦しさに耐え兼ね夫は再就職をしていた。
私も近くの縫製工場に勤めるようになっていたのだった。
それでは青さ海苔の収穫など手の回らないのが当然のこと。
私はほんの一年半ほどで退職しなければならなかった。
姑さんの手など絶対に借りるものかと意地になっていたようにも思う。
日曜日には夫が助けてくれたけれど平日は一人で頑張る。
もちろん川船には乗れないから軽トラックで漁場に行っていた。
河川敷から大きな盥を引っ張ってせっせと収穫をする。
盥がいっぱいになったら沈めないように気をつけながら
また河川敷まで行き籠に移すのだった。
その籠を軽トラックに積み込むのが最も辛い仕事だった。
けれども若さのせいもあったのだろうそれを難なくやり遂げる。
作業場まで戻ったら海苔の洗浄。洗い機はミキサーのような機械で
当時長い髪だった私はうっかりそのミキサーに髪を巻き込んだのだ。
思わず悲鳴をあげるほどの痛み。やっとの思いで洗い機の電源を切った。
その日の事はそれ以上の記憶がないのだけれど
天日干しまでの作業を最後までやり遂げていたようだった。
記憶が前後し曖昧なところもあるのだけれど
姑さんと二人で青さ海苔漁に行ったことも確かにあった。
雪が降っていたのでよく憶えている。
あまりの雪に姑さんが「もうやめて帰ろうよ」と言ったのだった。
その時私は「まだまだやるよ」と強気な発言をした。
その時一瞬だけれど姑さんに勝ったような優越感を感じたのだった。
どんなに頑張っても家計は楽にならなかった。
今こそブランド品だけれど当時はまだブランド化されておらず
驚くような安値で取引されていたのだった。
それでも無いよりはまし。身を粉にして働くしかないと思っていた。
家業を捨てる訳にはいかない。その思いだけは今も残っている。
連日穏やかな秋晴れの日が続いている。
立冬も目前となり身構えるような気持ちになるけれど
冬ならではの楽しみもきっとあることだろう。
くよくよと不安がらずに立ち向かって行きたいものだ。
今は焚火をすることもなくなったけれど
昔は落ち葉焚きなどよくしたものだった。
それは子供の頃の話でずいぶんと遠い日のこと。
おとなになり嫁いでからは河川敷でよく焚火をした。
冬の青海苔漁で冷たくかじかんだ手や足をその火で温めたものだ。
アルミホイルで包んださつま芋を入れておくとほくほくの焼き芋に。
幼い子供達はそれが好きでとても楽しみにしていた。
寒いからと家で遊ばす訳にはいかない。
まさに「家族総出」で小雪の舞う日も河川敷で遊んでいたのだった。
今思えば親の苦労を子供心に感じていたのであろう。
「おうちへかえりたい」とは一言も言わなかったのだ。
昭和57年の10月にお舅さんが癌で亡くなり
夫は30歳で勤めていた会社を辞め家業を継ぐことになった。
正確には亡くなる数ヵ月前にすでに辞めており
お舅さんが「おらにも跡取りが出来たけん死ぬかもしれんな」と
その時は笑い話でほんの冗談だったのだけれど
まさかその数ヶ月後に本当に亡くなるなどと誰が思ったことだろう。
跡取りとしての修業なども十分ではなかったはずだけれど
夫は見よう見真似でもほんとうによく頑張ったと思う。
冬の青海苔漁も母親と一緒に川船に乗り大漁の日も多かった。
青海苔は船に取り付けた大きな籠で川の水で洗うのだけれど
姑の手捌きは熟練しておりそれは見事だった。
ゆっさゆっさと緑の青海苔がまるで人の髪のように水面に揺れる。
それを夫が河川敷まで運び込み私は綱に掛けて干すのが仕事だった。
3歳の息子は走り回っていたけれど娘は背中におんぶしており
まだ布おむつの頃で尿漏れがすれば背中はしっとりと濡れる。
とにかく大急ぎで干さねばならなくておむつを替える時間もなかった。
焚火で娘のお尻を温めたこともある。おむつかぶれで真っ赤になっていた。
私もまだ若い母親だったので何の因果でこんなことをと
ついつい嘆きそうになる時もあったけれど
それはすべて「食べていくため」の試練だったのだと今は思う。
毎月決まった収入が途絶えたからには身を粉にして働くしかない。
しかし青海苔漁の収入は姑さんと折半で半分しか手に入らなかった。
そのおかげで貧乏に慣れたのだからありがたいことだったのだろう。
思い出すのはあの暖かな焚火。河川敷にはいくらでも燃やせる
流木や木屑がそれはたくさんあったのだ。
息子も拾って来た。「おかあさんぬくいね」その声が懐かしい。
最高気温が22℃ほど。まさに適温と言うべきだろう
一年中こんな気温ならどんなに過ごしやすいことか。
けれども冬の寒さあってこそ春の喜びがあるのだと思う。
春夏秋冬。日本の四季はなくてはならないものなのだ。
川漁師の家に嫁いで42年目の秋が終わろうとしている。
初冬から真冬にかけては天然の青海苔漁。
今ではもう幻となってしまった青海苔がそれは沢山獲れた。
猫の手も借りたいほどの忙しさで私も手伝ったけれど
すでに長男を身籠っておりおまけに慣れない仕事とあって
嫁という立場がこれほど恨めしく思ったことはなかった。
けれども逃げ出すわけにはいかない。郷に入れば郷に従え。
姑の手解きを受けながら次第に慣れて来たように思う。
春の兆しが見え始めれば今度は青さ海苔漁。
舅と姑が収穫して来た青さ海苔を天日干しにしなければならない。
当時は竹で編んだ「えびら」という四角い枠に干していた。
まだ乾燥機は無く雨が降り続いたりしたら忽ち腐ってしまう。
仕方なく捨ててしまったこともあったように記憶している。
無事に天日干しが完了した海苔の異物を取り除く作業もあった。
異物の多いものほど私に任されてなんと根気の要る作業だったか。
臨月も近くなれば立ち仕事も辛くお腹が張り痛む時もあった。
6月無事に長男を出産。とにかくひと月は安静にと言ってもらえる。
姑いわく。出産後の嫁を働かすのは家の恥になるのだそう。
幸い夏場は漁閑期で舅は柴漬け漁で川海老や鰻を獲っていた。
川海老と胡瓜の煮たのなど生まれて初めて食べる美味であった。
鰻は市場に出していたらしくとても貴重な財源だったらしい。
秋になればツガニ漁。これは私の出番がなく
ひたすら育児に専念出来たのだった。
ツガニはモクズ蟹とも呼ばれ上海蟹の味とよく似ているのだそう。
上海蟹などもちろん食べたことなどなかったけれど
ツガニを初めて食べた時の感動は未だに忘れられない。
特に美味しかったのは姑の作る「ふわふわ汁」であった。
石臼でツガニを細かく砕いて醤油味の汁に仕立てるのだけれど
蟹の身が寄せ集まってまさにふわふわの食感であった。
青海苔のふりかけ。青さ海苔のかき揚げ。川海老にツガニ。
春夏秋冬の川の恵みにどれほど舌鼓を打ったことだろう。
辛い事もたくさんあったけれど今思えば些細なこと。
それよりも縁あって嫁げたことが何よりの幸せだったと思う。
四万十川の上流で生まれた私は下流まで流れついて来た。
きっとそれは生まれながらの運命だったのだろうと今は思う。
風もなく穏やかな晴天。つい小春日和と言ってしまいたくなるけれど
それは立冬を過ぎてからの言葉なのでまだ使うわけにはいかない。
日本語はむつかしく時に戸惑ってしまう時もあるものだ。
我が家のすぐ裏側の古い家屋が先日から解体されていて
祭日である今日も重機の音が賑やかであった。
持ち主は老人施設に入居しておりもう帰ることもないのだろう。
大きな地震でもくれば潰れてしまいそうな古い家で
解体も致し方なかったのだろうと察せられる。
今日はとうとう庭にそびえていた大きな柿の木が伐採される。
今年は柿の裏年らしく殆ど実をつけてはいなかったけれど
春から夏にかけてそれは鮮やかな葉の緑がとても美しかった。
柿の実がなれば我が家の二階から手を伸ばしたくなるほど
まるで我が家の柿の木のように思っていつも眺めていたものだった。
そんな愛着のあった木があっという間に無くなってしまったのだ。
寂しさは勿論のことだけれどいささかショックな一日となる。
柿の木だけは残して欲しかったと言える筋合いではないのだけれど。
我が家も築30年となり昔の母屋を解体し新築した家だけれど
その古い母屋があった頃から裏の柿の木があったと記憶している。
家を新築する時に裏の土地を買ってくれないかと話があったけれど
とてもそんな予算はなく諦めざるを得なかった事情がある。
あの時に無理をしてでも手に入れていれば良かったと悔やまれる。
そうすれば柿の木は我が家の木となり守ってあげられた事だろう。
私は木を伐るという行為そのものにかなりの抵抗感があるらしく
邪魔だから伐るというのにはどうしても納得がいかない。
まして美味しい実をつける木になんの罪があるのだろうと思う。
木にも命がある。おそらく百年近く生きていたのではないだろうか。
残念ながら我が家の柿の木ではなかったけれど
我が家の歴史をそっと見守ってくれていた木ではなかったろうか。
おおむね晴れ。夏日に近い気温になりぽかぽかと暖かい一日だった。
金木犀の花が満開になりそよ吹く風の中にその香りが漂う。
職場の庭の片隅にその木があったことをすっかり忘れていて
今日になり思い出す。ずっと昔に母が植えていたのだろう。
まるで「ここにいますよ」とおしえてくれたようだった。
大根の間引き菜。里芋。さつま芋。季節ならではの旬の物を
ご近所さんが届けてくれてありがたく頂いているこの頃。
さつま芋には少し苦い思い出があった。
さっさと忘れてしまえば良いのにいつまでも忘れられない。
確か40年ほど前の初冬の頃ではなかっただろうか。
私達家族が住んでいた離れにも新しい台所が出来て
もう母屋での食事の支度からは解放されていたのだった。
それでも貰い風呂をするからにはお風呂焚きをしなければならず
いつものように4時頃母屋に行った時だったと思う。
姑さんの自転車の籠にそれは沢山のさつま芋を見つけたのだった。
その時「今夜はお芋の天ぷらをしよう」と思ったのだ。
姑さんは留守だったので黙ってその一個を頂いてしまった。
その夜のこと貰い風呂に行ったら姑さんの機嫌が頗る悪く
私に向かって「芋を取ったのはおまえか!」と言うのだった。
正直に頷くと「欲しかったらどうして言わない!」と大きな声で怒鳴る。
まるで私のことを芋泥棒のように言うのであった。
私は一個ぐらいと一瞬思ったのだけれど返す言葉も見つからない。
気がつけば泣きながら謝っていた。それでなんとか赦してもらう。
そのさつま芋は種芋にするのに地区の農家から分けてもらったのだそう。
その時しっかりと数をよんでいたらしい。
だから一個足りない事にすぐに気づいたようだった。
その一個をなんとかして返したいとしばらく悩んでいたけれど
地区に多くある農家を訪ねることも不可能で諦めるしかなかった。
姑さんにとっては「たかが芋」ではなかったのだろう。
もしかしたら一個何円かで分けてもっらていたのかもしれない。
そんな大切な芋を嫁に盗まれるとは思ってもいなかっただろう。
勝ち気で気性の荒い人だった。それ以外には思いつかない。
けれどもなんとなく懐かしい。今はもう亡き人のことだった。
午後7時。室温が24℃もありずいぶんと暖かい夜。
入浴の恐怖心もすっかり薄れ今夜は髪も洗った。
今は給湯ボタンを押すだけで浴槽にお湯が溜まるけれど
私が嫁いだ頃は五右衛門風呂で薪で焚かねばならなかった。
姑さんからその役を任されていたので
毎日4時頃になると慣れない手つきで火を点けるのだけれど
私はそれが苦手で思うようには燃えてくれないのだった。
新聞紙をくしゃくしゃにしてまず最初に小枝を燃やす。
小枝という表現はふさわしくないかもしれない。
それは主にお舅さんが河川敷から拾って来た木の屑であった。
それがやっと燃え始めると徐々に薪を入れていくのだけれど
いきなり大きな薪を入れると一気に炎が弱くなる。
だからなるべく小さな薪から入れて火の様子を見るのだった。
薪が勢いよく燃え始めるとなんともほっとするもので
お舅さんの一番風呂に間に合うだろうと肩の荷を下ろす。
その火は終い風呂まで決して絶やしてはならず
最後には大きな薪を入れてゆっくりと燃やすのだった。
お舅さんは初孫である息子と入浴するのが日課で
まだ一歳にもならないうちから抱いて一緒に入浴していた。
ある日のこと息子がウンチを漏らしてしまった時は大騒ぎ。
お湯を全部抜いてまた一から焚き直したこともある。
それもすぐに笑い話となり今では忘れられない思い出となった。
苦手だったお風呂焚きも慣れて来ると楽しくもあった。
時々ふっと薪を燃やしてしまいたい衝動に駆られる時もある。
今となってはそれも叶わぬ夢となり果てたのだろう。
終い風呂はいつも嫁である私であった。
大きな薪が今にも燃え尽きそうな焚口に
義妹が消えないようにと一本の薪を入れ添えてくれていた。
それがどんなにか有り難かったことだろうか。
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