雨のち晴れ。快晴ではなかったけれど優しい陽射し。
午後から孫達のダンス発表会があり
土佐清水市の水族館「SATOUMI」まで行っていた。
野外イベントだったので心地よく潮風に吹かれる。
その風がとても懐かしく思えた。
少女の頃の記憶だろうか。ふと胸に熱いものが込み上げて来る。
開演まで一時間程時間があったので
せっかく来たのだからと水族館に入館してみた。
入館料がとても高くて驚く。けっこう痛い出費となった。
けれどもゆったりと泳ぐ魚たちを見ていると
そんな痛みも何処へやら心がほっと癒されていた。
ふと魚になりたいなと思う。水の中で暮らしてみたくなる。
それは思っているよりもずっと厳しい世界なのかもしれないけれど。
午後2時を過ぎて孫達のダンスが始まった。
大勢の観客にどれほど緊張したことだろう。
それなのに二人ともけっこう堂々としていて頼もしい。
あやちゃんはちょっと恥ずかしそうにしていたけれど
めいちゃんは笑顔を見せるほどの余裕でさすがだなと思う。
控えめなあやちゃんに比べて目立ちたがり屋なのだろう。
センターに立って踊っている姿はとても誇らしく見えた。
帰り道の車中でじいちゃんが「比べたらいかんぞ」と。
確かにめいちゃんの方がずっと上手だったけれど
口が裂けてもそれを言ってはいけないと云うこと。
一時間程遅れて娘たちが帰宅しあやちゃんが「ふう」と言いつつ
茶の間に入って来てばたんきゅうと大の字になった。
じいちゃんと二人で労いの言葉をかけるとにっこりと微笑む。
いつもとは違ってとても素直なあやちゃんであった。
大勢の観客の前で精一杯に踊ったことを褒めて欲しかったのだと思う。
「えらかったね、よく頑張ったね」その言葉を待っていたのだ。
それを私達祖父母に求めてくれたのが何よりも嬉しかった。
「ダンスこれからも続けようね」と言うと「うん!」と応える。
どんな未来が待っているのだろう。
私達はなんとしてもそれを見届けなければいけない。
2021年10月30日(土) |
明日のことさえ分からない |
晴れのち曇り。今夜遅くには雨が降り出すかもしれない。
日中の気温は20℃を超えていたけれど陽射しがないと肌寒く感じる。
今夜は娘たちが外食に出掛けておりひっそりと静か。
じいちゃんも義妹宅に行っており家には私独りきりである。
なんとなく心細く寂しいけれどたまには良いかなと思っている。
この先いつかは独り暮らしになる時も来るのかもしれない。
それは私がじいちゃんよりも長生きをした場合のことで
「俺よりも先に死ぬなよ」と口癖のように言っているから。
生きてみないと分からない。明日のことさえ分からないのだもの。
午前中に図書館へ。とりあえず2週間分として4冊借りて来る。
東野圭吾の未読本と後は宮尾登美子の随筆集にした。
図書館には文庫本がなく単行本はずっしりと重い。
車の中に保管しておいて少しずつ読み進めて行こう。
図書館を後にしてカーブスへ。
開店と同時に行ったらなんと一番乗りだった。
やはり左足が痛むので今日も軽く筋トレをする。
私てしては激しく頑張りたいのだけれど
ついつい左足を庇ってしまうのだった。
それでも効き目があるのか最後には痛みが薄れていた。
今月いっぱいで辞めるコーチと最後のお別れ。
「今日は泣かないから」と言って手を握り合った。
はっとする程冷たい手をしていた。
手の冷たい人は心が温かいというのは本当の事だと思う。
午後はひたすら読書に耽る。
途中で洗濯物を畳んだだけで家事らしいことは一切せず
夕飯はコンビニで調達。おかげで食器洗いも免れる。
これを書いているうちに娘たちが帰って来た。
あやちゃんに「スシロー?」と聞いたら
「どこでもいいじゃん」となんとそっけないこと。
そうして雨が降り始めた。けっこう本降りのようだ。
このまま雨音を聴きながら眠くなるまでまた本を読もう。
いま、あやちゃんと娘が私の部屋に居て
娘が小学四年生の時の日記を声を出して読んでいる。
それは我が家の「宝箱」に入っていたのを
何を思ったのか娘が蓋を開けてしまって
いきなりタイムマシンに乗ってしまったようだ。
あやちゃんが抑揚をつけて面白おかしく読んでいるのを
傍らで娘が奇声をあげていてなんとも愉快な光景である。
それにしても30年も昔の日記帳をよく残しておいたものだ。
おそらく何度も断捨離をしながら「これだけは」と
捨てられずにいたのは他でもない母親の私だったのだろう
そもそもその「宝箱」はかなり年季の入った物で
スチール製の元は衣装ケースとして使っていたものだ。
記憶を辿ると私が独身時代に使っていた物だと思われる。
プラスチックと違い丈夫で錆びることもなく今もここに在る。
今夜まさか娘がその蓋を開けるなど思ってもいなかった。
「こんなものを取ってあったの」と叱られるかなと思ったけれど
意に反し感動した様子を見てほっと胸を撫で下ろしている。
捨てられずにいたことは捨ててはいけなかったことに等しい。
あやちゃんはどんな思いで読んでいるのだろう。
朝と日中の温度差が15℃程もあったようだ。
暖かな陽射しはほんとうにありがたいものである。
あと10日もすれば立冬。とても貴重な陽射しに思える。
今年の冬は例年よりも厳しい寒さになるのだそうだ。
いつもならもうとっくに海苔の種付けが終わっているのだけれど
今年はどうしたわけか海苔の胞子が出てこないらしい。
やきもきしながら待っているけれど今日も漁協から連絡なし。
とても順調とは思えず先行きが不安でならない。
仕事を終えて「しまむら」へ。お財布は相変わらずの寂しさ。
清水の舞台から飛び降りるような気持ちでATMで年金を引き出す。
11月分の支払いに残しておかなければいけないのだけれど
なんとかなるだろうと我ながら思い切ったことをした。
あやちゃんのパジャマを買い、めいちゃんのパジャマを買う。
そのついでに自分の服まで買ってしまって何という事でしょう。
おそるおそるレジに持って行ったら5千円でおつりがあった。
思わず「やったね」と声が出そうになる。さすが「しまむら」だ。
早く孫たちに見せたくてうきうきしながら家路につく。
あやちゃんもめいちゃんも喜んでくれてすごく嬉しい。
娘も「まあ、ありがとう」と言ってくれて私の顔もほころぶ。
やっぱり私は「パジャマ係」だったのだなと改めて思った。
冬用のパジャマなのでもう少し寒くなったら着てくれるだろう。
冬にはそんな楽しみもある。冬ばんざいの気持ちになる。
今日「しまむら」ではっと気づいた事なのだけれど
レディースのコーナーには私に似合いそうな服が見当たらない。
店内をうろうろしていて初めてミセスコーナーに行ってみた。
そうしたらあるはあるは。少し地味だけれど好きなのが見つかる。
そっか、と改めて自分の歳を思い知った。もうすぐ65歳なのだ。
年相応の服装を選ぶべきだったことに初めて気づく。
明日さっそく着てみようと思う。私の「ミセス」デビューだ。
最高気温が20℃を越すとほっとするような暖かさ。
小春日和と表現するにはまだ少し早いのだけれど
「秋桜」の歌のようについそう言ってしまいたくなる。
今朝は職場に着くまでの道のりで5人のお遍路さん。
ここ数日で一気に増えたような気がする。
コロナの感染者数が少し落ち着いてきたせいかもしれない。
予定を組んでいても躊躇っていた人がきっと沢山いたのだろう。
ちりんちりんと金剛杖の鈴の音。道端にはつわぶきの花が咲く。
仕事が忙しく一時間半ほど残業となる。
夕食のメニューを考えながら急いで帰路についた。
やはりどうしてもあやちゃんの好きな物をと思ってしまう。
つんつんと機嫌が悪いのはなんとも悲しくてならない。
アスパラベーコンにした。おとな達には鰹のお刺身と豚バラ大根。
みんなが笑顔で食べてくれますようにそればかりを願う。
お風呂の時間になればあやちゃんのパジャマが気になる。
昨年私が買ったパジャマはもう小さくなっているのだけれど
金欠なものだから今年はまだ買ってあげられないでいる。
娘が見かねて買うだろうと思っていても未だ買っていないのだ。
どうやら私は「パジャマ係」らしい。なんとかしなければいけない。
金銭的な余裕のない事がなんだか情けなくて悔しくなる。
かと言って嘆いても何も変わらない。何事もケセラセラだのだ。
そうしていつだって明日はあしたの風が吹く。
もしかしたらパジャマを買って帰って来るかもしれない。
いま午後7時。室温が25℃もありずいぶんと暖かい。
日中のぽかぽか日和がその名残を残してくれたのだろう。
暑からず寒からずちょうど良い快適な夜になった。
昼間仕事で外に出たので星ヶ丘公園にちらっと寄り道。
リンドウが見頃だと聞いていたので楽しみにしていたけれど
生い茂った枯草に埋もれるように咲いていて少し残念に思う。
一眼レフの上等なカメラならマクロ撮影が出来るだろうけれど
ガラケーの携帯では枯草ばかり映ってしまいそうだった。
ここ数ヵ月まともな写真を一枚も撮っていない。
まあ素人の趣味なので特にこだわることもないのだろうけれど。
少し残業になり帰宅。じいちゃんが苦笑いをしながら言うには
今朝出掛けに準備していた喪服のスーツが合わなかったらしい。
同級生のお母さんが亡くなったので今日はお葬式があったのだ。
私の準備していたスーツはどうやら娘婿の物だったらしい。
困ったじいちゃんは慌ててクローゼットを探して
自分のスーツを見つけなんとかお葬式に間に合ったとのこと。
ドジで間抜けな妻の話である。笑い話になって良かったのか。
夕飯にあやちゃんの好きな南瓜を煮た。
北海道産の栗南瓜でほくほくと甘くとても美味しかったのだけれど
ひと口食べるなり「いつものかぼちゃとちがう」と文句を言う。
「どうして?北海道のよ」と言うとむすっとした顔をして
「北海道なら何でもおいしいと思っているの」と反撃してくる。
「嫌なら食べなくても良いよ」と娘が言うと
ご飯だけかき込んでつんつんしながら二階に上がって行った。
じゃが芋も人参も玉ねぎも全部北海道産なのだけれど
今さらそんなことを教えても何の説得にもならないだろうと思う。
遠く北海道から旅をして来た南瓜に何の罪があるのでしょう。
ぽつぽつだった雨がやがて本降りとなる。
気温も上がらず冷たい雨となった。
農作物には恵みの雨となったことだろう。
大根や白菜やほうれん草やと冬野菜に思いを馳せる。
職場に「ちーちーぱっぱ」のちーちゃんが遊びに来る。
話好きでよほど話し相手が欲しかったのだろう。
とにかく聞き上手に徹してあげるのが一番だった。
一時間程話してお昼になったので「ちーちゃんまたね」と言ったら
「うん、また話そうね」と機嫌よく笑顔で帰って行った。
少しも迷惑だとは思わない。私はなんとなくだけどちーちゃんが好き。
買物をして帰宅したらじいちゃんが「あやが昼飯を食わんかった」と。
今日は参観日の代休で学校がお休みだったのだ。
娘がカップヌードルを用意してくれていたので
お昼は大丈夫ねと安心して出掛けたのだけれど
そのヌードルが日清のではなかったので気に入らなかったよう。
どんなにかお腹が空いているだろうと心配になり
部屋をノックしてそっと声をかけたら「別に・・」と応える。
半分はやせ我慢。半分は不貞腐れているのかなと思った。
とにかく早めに晩ごはんにしましょう。
おとな達は鰹のひっつけ寿司。孫達はシーチキンの手巻き寿司。
どうかな?とあやちゃんの様子を見ていたら
よほどお腹が空いていたらしくすごい食欲であった。
ああ良かったとほっと胸を撫で下ろす。もちろん嬉しくてならない。
難しい年頃になったけれど笑顔はまだあどけない。
時々ふっと赤ちゃんだった時の面影が浮かぶ。
食後、父親と早くもクリスマスプレゼントの話をしていて
「なんか事情があるの?」などと問うていた。
めいちゃんはまだサンタさんを信じているけれど
あやちゃんはどうやらおとなの事情を感じているらしい。
風もなく穏やかな晴天。お天気は下り坂のようで
明日は雨になりそうだった。
一雨ごとに秋が深まっていくことだろう。
最低限の家事と買い物だけ済ませ一日中読書に耽る。
夢中になり過ぎて疎かにしていたこともあった。
毎朝の日課である父の仏壇にお線香もあげずにいて
日曜日恒例のお大師堂参りも行かず仕舞いとなってしまった。
さすがにこれではいけないだろうと反省をしながらも
まあたまには良いではないかと自分に甘くもなる。
父もお大師さんも「困ったものだな」と苦笑いをしていたことだろう。
これも熱するととことん熱くなる私の長所なのかもしれない。
お昼前に小学校へ資源ごみを持って行っていた。
アルミ缶や古新聞などいつでも持ち込めるのでとても助かっている。
校庭ではめいちゃんとあやちゃんが一輪車の練習をしていた。
めいちゃんは運動神経が良くもうすいすいと乗れるのだけれど
おっとりさんのあやちゃんはまだ上手く乗れず苦労している。
それでも妹に負けまいと一生懸命頑張っているのだった。
ちょうど私が行った時にあやちゃんが少しだけ乗れるようになった。
思わず手を叩き応援したのは言うまでもない。
何事も努力次第なのだ。「やれば出来る」「やってやれないことはない」
こつこつと頑張るタイプのあやちゃんに大切なことを教わる。
私が子供の頃はどちらかと言えばめいちゃんタイプだったので
運動は得意で何でも一番ということが多かった。
それが当たり前の事なのだと子供心に優越感に浸っていたように思う。
中学生になり高校生にもなるともう一番ではいられなくなる。
上には上が居ることを思い知った時代だったと言えよう。
負けず嫌いだった性格も次第に薄れていくようになり
ついには劣等感に苛まれるようになってしまった。
そのまま大人になり65歳を目前にした今などは
もう劣等感のかたまりのようになりなんとも情けない有り様である。
そのくせちっぽけなプライドに縋りついているものだから
ある意味とても見苦しい生き様だと言えよう。
もう遅いのかと自問する。努力をしても無駄なのかとも思う。
それは生き抜いてみなければ分からないことなのだろう。
あやちゃんの姿に自分を重ねながら
ほんの少し未来を信じささやかな勇気をもらった気がした。
二十四節気の「霜降」朝露が霜に変わる頃と言われている。
近畿地方では早くも木枯らし一号が吹いたそうだ。
高知県は穏やかな秋晴れとなり日中はとても暖かくなる。
朝の寒いうちに炬燵を出す。扇風機を片づけ温風ヒーターを出した。
それなりの冬支度。とにかく寒さに負けるわけにはいかない。
10時を過ぎてからカーブスへ。
数日前から足の痛みがありあまり無理は出来ず
一生懸命に出来ないのが少しもどかしい。
それでも身体が温まってくると足の痛みも少し薄れる。
6月の入会時からずっと親身になってくれていたコーチが
今月いっぱいで退職するのだそう。
なんだか寝耳に水のようなことでいささかショックであった。
後から詳しい事情を聞けば元々契約社員だったとのこと。
前々からやりたい仕事があったらしくその準備期間だったらしい。
沢山の人とふれあうことが良き経験になったと話してくれた。
私もそのコーチと出会わなければ始められなかったもしれない。
「大丈夫、きっと出来る」と背中を押してくれたのだった。
縁もあったのだろうし恩もある。思わず涙があふれていた。
そうしたらコーチが「今生の別れじゃないよ」と笑い飛ばしてくれる。
わずか5ヵ月足らずの短い間だったけれど
そのコーチの顔を見ただけでいつもほっとしていた。
「すごいじゃん」と褒めてもらえたらとても嬉しかった。
励ましよりももっと大切な勇気を頂いていたのだと思う。
強いようでいて弱くて脆い。そう思い知ることがよくある。
支えなど何も要らないと思っていたのだとしても
知らず知らずのうちに支えられて生きているのだろう。
目覚めた時には小雨が降っていたけれど
夜が明ける頃にはもうやんでいた。
日中は曇り空。それでも柔らかな陽射しが降り注ぐ。
気がつけば秋桜も盛りを過ぎてしまったようだ。
昔は職場の庭にたくさん咲いていたのだけれど
今はほんのわずかになりよけいに寂しくおもう。
いつだったか母が枯れ始めた秋桜を根こそぎ引き抜いたことがあり
その時は私と口論になり恨めしかった事をふと思い出す。
それでもきっと種が残ってくれると信じていたけれど
今になりやはり駄目だったのだなとまた母を恨むのだった。
嫌だった事ばかりどうして思い出してしまうのだろうか。
今日はあやちゃんが学校を休む。
右足の痛みを訴え歩くのもままならない様子で
とりあえず湿布を貼り安静にさせておくことにしたのだった。
どうやら昨夜のダンス教室で足の筋を痛めたのではないだろうか。
このところ体重の増加が著しく足に負担が掛かったのだと思う。
来週末にはダンスの発表会があるらしい。
それまでにはきっと治るだろう。あやちゃんも楽しみにしている。
仕事帰りに図書館に寄った。市役所の二階にあるのだけれど
今日は駐車場が満車で何処にも車を停められずいささか参る。
10分ほど待って守衛のおじさんが「空いたよ」と知らせてくれた。
やはり土日に来たほうが良さそう。今度からそうしようと思う。
東野圭吾の「幻夜」を返却。「白夜行」と「さまよう刃」を借りる。
そろそろミステリー離れをしたほうが良いのかもしれないけれど
とことん読み尽くしたい思いが強い。好きなようにすればいい。
帰宅して洗濯物をたたみ終わるとすぐに本を開いていた。
あやちゃんがだいぶ歩けるようになっており何より。
今夜は海老フライとシチューだったので喜んで食べてくれた。
娘はやっとコロナワクチン一回目の接種。
副反応が軽ければ良いのだけれど。
お昼前から雨がぽつぽつと降り始める。
気温は16℃ほど、ずいぶんと冷たい雨に感じた。
今夜はとうとう浴室暖房をつける。
おかげでゆったりと温まることができた。
電気代が家計に響くけれど仕方ないなと思う。
我慢して死ぬよりはずっとましなのではないだろうか。
大げさに聞こえるかもしれないけれど
私にとっては入浴イコール死に他ならない。
父方の伯母二人をヒートショックで亡くしているので尚更のこと。
親しかった友は入浴中にくも膜下出血になり亡くなっている。
今日は弟に5年ぶりに会えてとても嬉しかった。
衆院選の選挙カーの運転手として弟が山里に来たのだった。
候補者が街頭演説をしている合間のほんの数分だったけれど
血を分けた弟とはなんと愛しいものであろうか。
弟はしきりに母の事を案じていたけれど
つい先日母に会えたことを話すと安堵した様子。
弟もどんなにか母に会いたいことだろうと思う。
薄情な私と違って弟はとても母思いな息子であった。
52年前のあの日、私と同じく弟も泣かなかったけれど
どんなにか戸惑い辛かったことだろうと察する。
あの時のことを弟も決して忘れてはいないだろう。
けれどもそのことをおくびにも出さず今まで生きて来た。
結婚をし二人の娘に恵まれもうすぐ二人目の孫も生まれる。
今が幸せならば過ぎ去った日の事などもう封印されているのだろう。
弟は私が思っている以上に強いのではないだろうか。
「身体に気をつけて元気でおりよ」運転席の弟に声をかけた。
選挙カーはけたたましい程の声をあげて遠ざかって行った。
晴れのち曇り。最高気温が20℃に届かず肌寒い一日。
立冬までまだ2週間以上あるけれどもう初冬のように感じる。
早くもヒートショックの不安が襲って来てしまって
入浴がひたすら怖い。緊張してリラックス出来ない。
「大丈夫、だいじょうぶ」と呪文のように唱えながらの入浴になった。
とにかく寒さに慣れるのが第一。なんとしても克服しなければと思う。
朝の山道ではつわぶきの花があちらこちらに咲き始める。
小さな向日葵のような花でなんともこころが和む。
原始の時代、初めて咲いた花は黄色だったと聞いたことがある。
つわぶきの花がいったいいつ頃に生まれたのかは知る由もないけれど
太古の昔から咲いていたのだとしたらとても尊い命に感じる。
手折ることは容易いけれどそっと山影に咲かせてあげたい花だった。
今日はいつもより早めの帰宅。
孫たちも水曜日は学校が早く終わるので先に帰宅していた。
あやちゃんはピアノ教室へ。めいちゃんは一輪車の練習へ。
一輪車は学校にあり放課後の校庭で自由に乗れるようだ。
いつもならじいちゃんが連れて行くのだけれど
今日は娘が休みだったので連れて行ってくれた。
それがあたりが薄暗くなっても帰って来ない。
仕方なく一人で夕食の支度をしていたらやっと帰って来てくれた。
娘の手助けがあってこそで夕食が整うとなんともほっとする。
明日の朝はまたぐんと冷え込むようなので
あやちゃんに長袖のパジャマを着て欲しいのだけれど却下。
風邪を引いてしまいそうではらはらとするばかり。
子供にはまだ序の口の寒さなのだろう。
私はもうすっかり冬の気分になりちゃんちゃんこを羽織っている。
朝の肌寒さもつかの間すぐに暖かくなる。
25℃といえば夏日だけれど身体には優しい温度だと言えよう。
歳のせいでもあるけれど寒いとどうも緊張していけない。
確かに流れているはずの血が固まったように感じる。
まだまだこれからが冬だというのに困ったものである。
今日は従兄弟の一周忌と伯母の一三回忌の法要があった。
私は仕事があり欠席させてもらったけれど
出席していたじいちゃんが言うには「皆夫婦で来ていたぞ」と。
仕事を休んで行くべきだったのだろうかと複雑な気持ちになった。
それでも供養する気持ちは変わらない。天国に伝わっただろうか。
従兄弟は妹と二人暮らしだったので今はその従姉妹の独り暮らし。
ただ小型犬を飼っており寂しくはないのだと言う。
けれども67歳ともなれば不安な事も多いだろうと察する。
私などにはとうてい無理な話でどうして耐えられようかと思う。
跡取りも無い故いずれは絶えてしまう家を守ることも並大抵ではなく
果たして未来などあって無いものと考えずにいられないのではと案ずる。
けれども従姉妹はけっこうあっけらかんとして過ごしているようだ。
もう老犬の愛犬を看取るまではと気も張っている様子である。
人生それぞれ。好きで選んだ人生だとは限らないけれど
まるで宿命のように受け止めて生きることも人生だと思う。
「死んじゃったもんは仕方ないよ」一年前の今日
従姉妹が呟いた言葉を思い出している。
日毎に寒さの更新。昨日よりも今日と冷え込む。
とはいえ季節はまだ秋のこと
つい先日までの暑さがあったからこそだろう。
不安症なものだからなんとなく不調を感じるのだけれど
これは血圧に違いないと恐るおそる測ってみれば正常値。
なあんだ気のせいだったのかと思えば一気に気が楽になる。
病は気からとはよく言ったものである。
お舅さんの命日。もう39年の歳月が流れたようだ。
お墓参りにも行けず仕舞いで仏壇にお線香もあげずにいて
この上なく不義理で薄情なものだと心苦しく思っている。
本来なら長男で跡取りの我が家にあるべき仏壇は
義理の妹の家にあり今日は留守にする旨の連絡があった。
今年は仕方ないとじいちゃん(夫)が言うものだから
留守宅に押し掛ける訳にもいかず諦めてしまったのだった。
お舅さんは私が嫁いで3年目に57歳の若さで亡くなった。
体調不良を訴えた時にはもう肺がんの末期で手の施しようもなく
わずか2ヵ月ほどの療養でほんとうにあっけなくこの世を去る。
初孫の息子をとても可愛がってくれていて死の直前まで
孫の名を呼び一目見るまではと最後の気力で耐えていたのだった。
当時の中村市から高知市まで5時間ほどの長道中だったか
危篤と聞いてからすぐに駆けつけたかいがあって
最後に孫に会わせてあげることが出来て何よりだったと思う。
お舅さんは息子の頬に触れ「じいちゃんはもう最後だぞ」と呟いた。
そうして抱き寄せるように両手を差し伸べながら死んでいった。
まだ3歳だった息子はその時の事を薄っすらと憶えているらしい。
秋が来るたびに思い出す。それが何よりの供養になる気がする。
今朝はこの秋いちばんの冷え込み。
夏蒲団では肌寒く蓑虫のようにして目覚める。
北海道からはもう初雪の便り。つかの間の秋だったことだろう。
気がつけば11日間もに渡り母のことを記していたようだ。
ひと山越えたような達成感はあるけれど
まだ書き足りない思いもありなんとなく落ち着かない。
おそらくもっともっと踏み込んでみたかったのだろう。
書いて良いものかと躊躇する気持ちもありそれが昇華出来ずにいる。
母の事に限らず自分の事も書きたかったのだろうと察する。
恥の上塗りになろうと「書くべきなのだ」という思いが強い。
生きて在るうちにそのすべてを書き終えてしまいたいものだ。
またある日突然に書き出してしまうかもしれない。
けれどもしばらくは穏やかな日常に浸ることにしよう。
一昨日には2ヵ月ぶりに母に会うことが出来た。
とはいえコロナ禍の事、正式な面会とはいかず
リハビリ室に居た母にガラス窓越しに会えたのだった。
母は真っ先にマスクを外し口元には零れんばかりの笑顔。
目は潤みつつ真っ直ぐに私の顔を見ていた。
窓に遮られお互いの言葉は殆ど伝わらなかったけれど
別れ際に手を振る母はまるで少女のようであった。
泣くまいと思っても涙が溢れてくる。
母に涙を見せまいと逃げるように踵を返したことだった。
せめて顔を見るだけでもと計らってくれた職員の方には感謝しかない。
今日は日なが一日読書に夢中になっており
夕方になり孫たちのお昼ご飯を忘れていたことを思い出す。
孫たちも「おなかがすいた」とは一言も言わなかったのだ。
日曜出勤から帰って来た娘にそのことを詫びれば
「かまん、かまん」と笑い飛ばしてくれてほっとする。
宮尾登美子の「仁淀川」を読了。
すぐに東野圭吾の「幻夜」を読み始めて三分の一ほど読み進む。
昨日から市立図書館に通うことに決めその蔵書の多さに興奮している。
インターネットで予約も出来るそうでまるで目から鱗だった。
書くことと読むこと。どちらも私には大切なことであり
残された人生があとどれくらいなのか知る由もないけれど
書き尽くし読み尽くせればもう思い残すことはないのかもしれない。
一番星を仰ぐ夕暮れ時にふっと明日のことに思いを馳せていた。
※方言注釈 「かまん、かまん」は「いいよ、いいよ」と言う意味。
2021年10月16日(土) |
追憶のなかの母 完(愛) |
記憶とは時に残酷なものなのだなと思う。
こうして書く場所を与えられ
遠い昔の記憶を辿りながら何度壁にぶつかったことだろう。
母を赦しているのかと問われてもはっきりと頷くことが出来ない。
自分も罪を犯しながら母の罪を責め続けようとする私がいた。
ひとはどうして幼い頃の記憶を失くしてしまうのだろう。
この世に生まれ確かに母に抱かれていただろうに
まるで神様に奪い取られたかのように記憶は消えている。
母の胸のぬくもり。乳房にも触れ乳を思う存分に口に含み
そのまますやすやと眠ったこともあっただろうに。
よちよちと歩き始めば手を叩いて喜ぶ母が居たはずなのだ。
愛情をいっぱいに注がれすくすくと成長していたことだろう。
そんな記憶をどうして残してくれなかったのだろう。
それさえあればと口惜しくてならない。
私が会いたくてならなかったのはきっとそんな母なのだと思う。
叶うはずもない事に苦しむ。とても愚かな事なのだと思い知る。
けれどももし母を失えばどれほどの悲しみが襲って来ることだろう。
私はそれが怖い。失って初めてきづく愛が怖いのだ。
母が選んだ道は間違っていたのかもしれないけれど
母には母の人生がありもはや運命としか言いようがない。
その運命の糸に操られるように私は私の人生を歩み続けて来た。
それが母あってこその道ならば感謝するべきだろう。
判っているけれどどうしても素直になれない自分がいる。
あの日母を頼るしかなかった時から45年の歳月が流れ
母はどうしようもなく老い私もその老いを追っている。
もう罪ほろぼしも終わったのだと母は思っていることだろう。
けれども私の中ではまだ終わっていない。
13歳の少女のままでいることが歯がゆくてならないのだ。
母を救うことが出来た時に私も救われるのだろうか。
心の底から赦すことが出来るのだろうか。
母が歩んだ道と私が歩んだ道が交差している場所にいて
未だ母の愛を求めようとしている私は「こども」に他ならない。
・・・・・・完・・・・・・・・
2021年10月15日(金) |
追憶のなかの母その10(逃避) |
私は自分の事を「おとな」だと思っていたけれど
もしかしたらまだ「こども」だったのかもしれない。
20歳の誕生日には夫が袋いっぱいの手羽先の唐揚げを買って来てくれた。
屋台で売っている物で揚げたての熱々は私の大好物であった。
「みかちゃん、これ好きやもんね」と笑顔で手渡してくれて
一気に10本くらい食べた記憶がある。とても美味しかった。
優しい人だったのだと思う。なんの落ち度もなかったはずなのだ。
夫は勤めていた会社を辞めわずかながらも退職金を手に入れ
すぐに新しい仕事を見つけ働き始めたばかりの頃だった。
借金取りはどうやらそのことを嗅ぎつけていたらしい。
ある夜突然やって来てその大切な退職金を奪い去って行ったのだった。
これにはさすがの夫も怒り私の父を散々に罵った。
父を庇いきれない。気がつけば私までもが父を恨み始めていた。
またどん底の暮しが始まる。その日の食費にも困る日々だった。
そのことがきっかけになってしまったのだろう。
夫は荒れる日が多くなり時には暴力も振るうようになる。
「こんなものが食べられるか!」と食事を投げつけることもあった。
すっかり追い詰められてしまった私は夫の親友に相談した。
すぐ近所に住んでいたのでほぼ毎晩のように様子を見に来てくれたのだ。
「大丈夫だから心配するな」その一言にどれほど救われたことだろう。
ある夜、もうかなり遅い時間だったと記憶している。
夫が包丁を振り回すほどの修羅場が訪れてしまい
私はとにかく逃げようと寝間着姿のまま路地を駆け抜けていた。
何処に行こう。何処にも行くあてなどない。
気がつけば夫の親友の家まで来ていたのだった。
彼はすぐに私をかくまってくれた。とにかく押入れの中へと。
ぶるぶる震えていたら夫が来て親友と言い争う声が聞こえる。
もう限界だと思った。けれどもその夜の事はよく憶えていない。
ただ一つだけ憶えているのは親友が言ってくれた言葉だった。
「逃げられるのなら逃げきろ」確かそう言ってくれたのだ。
その時に私は決心する。母の処に行くしかないのだと思った。
翌朝には汽車に乗っていた。夫の親友が駅まで送ってくれる。
そのうえに汽車賃まで出してくれたのだった。
今思えばそれがどれほどの恩義だったことだろう。
夫と彼はもう親友ではいられなくなってしまったかもしれない。
私は大変な罪を犯したのだと思う。果たして逃げて済むことだったのか。
母はまるで修学旅行から帰った娘を迎えるかのように
にこにこしながら出迎えてくれた。
いったい何があったのかも訊きもせず終始笑顔であった。
父から二人の「こども」を取り返したつもりだったのかもしれない。
それでこそ母は救われたのだろうと思う。
母にとって私はまだ「こども」以外の何者でもなかったことだろう。
13歳の私を知らずその後の7年間も知る由もなかった。
私は罪の意識に苛まれていた。いったい何を犠牲にしたのか。
確かに傷ついていたけれど同時にたくさんの人を傷つけていたのだ。
2021年10月14日(木) |
追憶のなかの母その9(絆) |
19歳の春私は職場の同僚と結婚する。
猛反対だった父を説得してくれたのは弟だった。
「お姉ちゃんの好きなようにさせてやりなよ」と言ってくれたのだ。
しかし甘いはずの新婚生活はつかの間の事で
ひと月もしないうちに父が大変な事になってしまった。
当時父は再度の転勤で遠く香川県に住んでいたのだけれど
詐欺に遭いそれが汚職に繋がり懲戒免職になってしまったのだった。
当然のごとく官舎を追われしばらく行方不明になってしまう。
弟は父の職場の寮から高校に通っていたのだけれど
早急に出て行って欲しいと言われもはや住む家もないありさま。
今思えば私と夫が弟を引き取ってあげるべきだった。
けれども19歳と23歳の若い夫婦にそんな余裕はなく
最後の頼みで母に頼ることにしたのだった。
弟もそのほうが良いと言う。私達夫婦にも気を遣っていたのだろう。
母はM兄ちゃんと一緒に喜び勇んで駆けつけて来てくれた。
頼られたことがよほど嬉しかったのに違いない。
高校の近くにアパートを見つけ家具まで買い揃えてくれる。
私はこんなカタチで母とまた繋がるのがなんとなく嫌だった。
もう二度と会うまいと心に決めていただけに複雑な思いが募る。
けれども路頭に迷った弟を救うにはこうするしかなかったのだと思う。
父の消息はすぐに分かったけれど母の事を話すと
「そうか・・」と肩を落としていた。きっと悔しかったのだろう。
娘を嫁がせ息子を一人前にするまではと気負っていたのだと思う。
けれどもどうしようもなく落ちぶれてしまった事を自覚していた。
父が憐れでならなかった。母にだけは負けたくなかったのだと思う。
この世には「仕方ない」の一言で済まされることが多い。
どんなにあがいてもそれは仕方ない事なのだ。
ひとは何かに縋らなければ生きてなどいけないのだろう。
もう母ではないと思っていた人がまた母になることもある。
それは微かな絆だろうか。血の繋がりは切っても切れないのだ。
弟は独り暮らしを満喫しながら元気に高校に通っていた。
私達若夫婦の所には身に覚えのない借金取りが訪れるようになった。
まだ未成年だった私が父の保証人になっていたらしい。
だからと言って父を恨むこともせず精一杯の日々の暮らしだった。
きっと乗り越えられるとどれほど信じていたことだろう。
追い詰められる最後の最後まで私は希望を捨てずにいた。
もうすぐ私の20歳の誕生日なのだ。
2021年10月13日(水) |
追憶のなかの母その8(女) |
受験勉強を頑張ったかいがあって無事に志望校へ合格する。
高校生活に胸をふくらませ私は青春の真っ只中にいた。
ある日の朝それもいつ頃の事だったのかよく憶えていないのだけれど
父が新聞を叩きつけるように私の目の前に広げ
「これを見てみろ、やっぱり思った通りだったぞ」と言ったのだ。
そこにはかつて住んでいた山村での小さな事件が載っており
被害に遭ったのはM兄ちゃんとその妻として母の名前が書かれていた。
幸い二人に怪我はなかったようだけれど
一歩間違えれば傷害事件になるところだったようだ。
M兄ちゃんが犯人を取り押さえたと書いてあった。
父は怒りの心頭に達しとても機嫌が悪かったけれど
「思った通り」と言ったからには覚悟はしていたのだろう。
私だって同じだった。まだ若い母が独り身でいるわけはないのだ。
M兄ちゃんに頼るしか道がなかったのだろうと思う。
けれども母の再婚にはやはり複雑な気持ちが込み上げて来た。
もう完全に母親ではなくなったのだと思った。
「死んだと思え」と父は言っていたけれどまさにその通りだと思う。
母がひとりの「女」なのだという事実を思い知らされたような気がした。
もうどうでもいいやと思っていたような気がする。
私にはもう母はいない。そう思ったほうがどれほど救われるだろうか。
高校生活はとても楽しかったけれどせつなく哀しい恋もあった。
詩や短歌を書き始めそれがやがて心の拠り所になっていく。
おそらく心をぶつける唯一の救いだったのだろう。
それは少女がおとなの階段をのぼるきっかけにもなった。
私は17歳で「女」になった。
その恋を失った時には死が頭をよぎる程に辛かったけれど
気がつけばすくっと前を向いていた気がする。
そうしてほんの少しだけ母を想った。
2021年10月12日(火) |
追憶のなかの母その7(狂気) |
母の消息が分かったのはいつのことだったのだろう。
記憶がとても曖昧でその季節さえも思い出せない。
やはり県西部の町に居ることが分かり
父と弟と3人で会いに行ったのだった。
けれども私と弟は結局母には会えなかった。
街中の喫茶店で父に「ここで待っていなさい」と言われたのだ。
その時いかにも偶然のようにしてM兄ちゃんに会った。
気のせいかもしれないけれどM兄ちゃんは気まずそうな顔をしていた。
その証拠に一言も話すことさえなかったのだった。
しばらくして父が戻って来た時にはもうM兄ちゃんの姿はなく
父が「ちゃんと話をつけてきたからな」と言った。
それが離婚の事だと私は理解していたように思う。
「お母さんは?元気だった?」そう訊く私を振り払うように
父が言った。「子供達は狂っている」と母が言ったそうだ。
弟には聞かせたくなかった。どうして父は本当の事を言ったのだろう。
あの時狂っていたのは他でもない母だったのではないだろうか。
その時にはそう思わなかったことを今になり叫びたくなる。
だからあの「ひまわりおばさん」は母ではなかったのかもしれないのだ。
過去の記憶を辿るのは思いのほか辛く苦しいものだった。
けれどもこうして書き始めた以上は最後まで書き抜きたいと思う。
離婚が成立してからの父はすっかり吹っ切れた様子で
私と弟もいつまでもくよくよなどしなかった。
家族3人で肩を寄せ合って暮らした日々が宝物のように思える。
洗濯と掃除は父の仕事。買物と食事の支度は私と決めて
それが今思えばとても楽しかったのだ。
3人で力を合わせれば何だって乗り越えられる気がしていた。
やがて中学3年生になる。私は必死の思いで受験勉強をした。
母の事などこれっぽっちも考えてなどいなかった。
2021年10月11日(月) |
追憶のなかの母その6(青い鳥) |
また海辺の町での暮らしが始まった。
わずか3ヵ月ほどしか住んでいなかったのに不思議と懐かしい。
ただ母のいない現実を受けとめながら私は少し戸惑っていた。
特に母の働いていた魚屋さんに行くのが怖かった。
母の事を訊かれたら何と応えれば良いのだろう。
父はまた転勤願を出していたようだけど
春までは単身赴任を強いられていたようで
父方の祖母がしばらく一緒に暮らしてくれることになった。
祖母は足が悪く家事もままならない様子。
それでも私達に不自由な思いをさせまいと精を尽くしてくれた。
困ったのは生理用品が必要になった時。
仕方なくスーパーに買いに行ったけれど目から火が出るように恥ずかしい。
ブラジャーも必要になり近くの洋品店に買いに行ったけれど
お店のおばさんがなんだかじろじろと私を見てとても嫌だった。
私はもう子供ではいられないと心に誓うようになっていた。
祖母に頼らず出来る家事は自分でしようと思い始める。
春になりやっと父と暮らせるようになり
私も中学2年生。弟は小学5年生になっていた。
その頃学校ではラジオを聴くのが流行り始めていて
NHKの「FMリクエストアワー」という番組が大人気だった。
土曜日の午後の事で公開放送もあり父にせがんで連れて行ってもらった。
その頃の高知放送局にはあの松平定友アナウンサーがいて
私が毎週のように行くものだからすっかり仲良しになる。
私は「青い鳥」というラジオネームだった。
そうしたら生放送中にいきなり松平さんが
「今日はスタジオに青い鳥さんが来てくれています」と言って
私は手招きをされ松平さんと向かい合って座ることになった。
生まれて初めてのマイクにどきどきしながら私はしゃべった。
確かその翌週の事だっと思う。「青い鳥さんへ」と
番組に私宛のお便りが届いたのだった。
その人は高知県西部に住んでいる「ひまわりおばさん」だと言った。
どんな内容だったのか今では思い出せないけれど
優しさであふれている内容だったと思う。とにかく嬉しかった。
私は直感でそれは母ではないかと思ったのだ。
私の声をラジオで聴いて「青い鳥」が私だと分かったのだと。
ずっとそう信じていた。それは昨日まで。
今日になりすっかり自信がなくなってしまったのだ。
記憶を辿っているうちに欠けていたとても辛い事を思い出してしまった。
今さら母には訊けない。今までも確かめたことがないのだから。
ただあの時の「ひまわりおばさん」が母だったなら
どれほど私は救われることだろうと思う。
チルチルミチルは青い鳥を探しに行ったけれど
その童話のラストを私は忘れてしまっている。
2021年10月10日(日) |
追憶のなかの母その5(罪) |
母は置手紙も残さずに消えた。
そうしてそのまま行方不明となってしまった。
もし離婚届でも置いて行けば父も覚悟を決めたろうにと今になって思う。
だから私は「家出」とは書かず「失踪」と書いた。
その日のうちに父はすぐ駆けつけて来たけれど
いったいどう対処したのか私の記憶は欠落している。
その日だけに限らず明くる日の事も全く思い出せないのだった。
学校には行ったのだろうか。食事はどうしていたのだろう。
まるでその後の記憶が破られ燃やされてしまったように感じる。
ただすぐに海辺の町に帰ることはなかった。
ひとつだけよく憶えているのは大晦日の日暮れ時のことで
父が「正月くらいはしようや」と言ってくれたことだった。
父の車で高知市の台所「大橋通り」に買物に行った。
お寿司とお餅を買ったことをよく憶えている。
その時に塾帰りの友達に会ったのだ。
自分がとても惨めに思えて逃げるようにその場を去った。
父には父の考えがあり転校の手続きをしてくれていたのだと思う。
冬休みが終わればまた海辺の町の学校へ通えるようだった。
また慌ただしい引っ越しとなり級友達に別れを告げる暇もなかった。
母の消息はまったく掴めず途方に暮れていたけれど
「死んだと思え」と父はすっかり諦めた口調でそう告げていた。
私はどうして私の誕生日でなければいけなかったのだろうと思う。
それは未だに納得のいかない大きな疑問であった。
今さら母を問い詰めることがどうしてできようか。
母にとって娘の誕生日よりも大切なことだったのだろうか。
その日でなければいけない理由があったのだとしても
私は赦せなかった。それが未だに尾を引いている。
その日の事をすっかり忘れている母に私は仕打ちをしている。
いくらでも孤独になれば良いのだと突き放すように。
いったい罪とはなんだろう。
その後母には母の人生があり私には私の人生が待ち受けていた。
2021年10月09日(土) |
追憶のなかの母その4(失踪) |
海辺の町に移り住み2ヵ月が過ぎた頃だったろうか。
友達も出来てやっと学校にも慣れて来た頃だった。
夏休みに入ったある夜のこと
母から寝耳に水のようなことを聞かされる。
この町では十分な教育が受けられないから
高知市内の学校へ転校しようと言うのだった。
それは父と母の別居を示していることに違いなかった。
おそらく母が言い出したことで
父は子供達が納得すればと応えたのだろう。
私も弟もどうして逆らうことが出来ようか。
両親が決めたことに従うしかなかった。
転校にはもう慣れている。引っ越しにも慣れている。
けれどもとても複雑な気持ちだったことは記憶している。
高知市内には母の叔母が住んでおりその近所の借家だった。
電車通りに面しており家のすぐ前には電停があった。
ずいぶんと都会的だなとなんだかわくわくしたような気がする。
母はまた早速に仕事を見つけて来ていた。
今度はタオル工場でギフト用の箱詰めなどをする仕事らしい。
電車で通勤していたけれどその会社が何処にあるのかは知らない。
残業はなかったのか午後6時頃には必ず帰って来ていた。
たまには父に会いたかったけれど殆ど叶わず
別居とはそういう事だとはあまり理解が出来ずにいたのだと思う。
新学期が始まりすぐに友達も出来て学校生活は楽しかった。
朝一でパンの注文が出来てお昼にはふかふかのパンが届く。
母に「今日はお弁当要らない」と言う日も多くなった。
高知市内に住むようになり3ヵ月が過ぎた頃だったろうか。
母がもうすぐ私の誕生日だからとレコードを買って来てくれた。
当時大流行していた「黒猫のタンゴ」であった。
嬉しくてならず何度も繰り返し聴いたことだった。
誕生日の朝はその冬いちばんの冷え込みでとても寒い朝だった。
確か日曜日だったと思う。少し寝坊をして目覚めた記憶がある。
母も仕事が休みのはず。「おかあさん」と呼びかけた気がする。
それなのに母が居るはずの部屋に母の姿がなかったのだ。
ストーブも点いていないそこにはただ寒々とした空気が漂っていた。
まだ寝ていた弟を起こして母を探した。
とは言え探す場所など限られている。母は何処にもいなかった。
とにかく父に知らさなくてはいけない。他に何が出来よう。
弟の手を引いて母の叔母の家に向かった。
霜柱を踏みしめながら歩く。その距離がとても遠く感じた。
私も弟も泣いてはいなかった。唇を噛みしめ歯を食いしばっていた。
いったい何が起こったのかその時にはまだよく分からなかったのだ。
13歳の誕生日の朝のことである。
2021年10月08日(金) |
追憶のなかの母その3(海鳴り) |
山村での暮らしも3年が経ち私は村の中学校へ通うようになった。
まだまだ子供だったけれど少しだけおとなになったような気がする。
確か5月の中旬頃だったと記憶している。
父からいきなり転勤の話を聞いたのだった。
月末には引っ越しだぞと言われてどれほど戸惑ったことだろう。
そこは村からはとてつもなく遠い県東部の海辺の町だと言う。
後から知ったことだけれど父は転勤願を出していたのだそうだ。
おそらく一日も早く村から遠ざかりたかったのだろう。
3月ならともかく5月の転勤は異例のことだったと思う。
まるで逃げるような引っ越しだったけれど
大勢の人に見送られて別れを惜しんだことだった。
母はいったいどんな気持ちだったのだろう。
もしかしたら悔しくてたまらなかったのかもしれない。
かと言って父の決めた事には逆らえなかったのだ。
7時間ほどの遠路だった。潮の香がする穏やかな町に着く。
今度の家も一軒家でとても庭の広い家だった。
けれどもその庭はかつて官舎のあった跡地だったらしく
コンクリートの基礎だけが残った殺風景な庭だった。
父の事務所は山奥にあるらしく単身赴任になるとのこと。
そんな悪条件を呑んでこそ叶った転勤だったのだろう。
しかし母にとってはそれが救いだったのかもしれない。
なんだか生き生きとして見えたのは気のせいだったろうか。
私と弟の転校手続きが終りそれぞれが新しい学校に通い始めた。
そんなある日母はまた次の仕事を見つけて来る。
それがなんとすぐ近所の魚屋さんだったのでびっくりした。
おそらく父には相談もせずに決めたのだろうと思う。
思い立ったらすぐ行動に移すのが母の長所でもあり短所でもあった。
化粧品の匂いなど何処へやら。母はすぐに魚臭いひとになった。
驚いたのは短期間で調理師免許まで取得していたのだった。
週末には父が帰って来たけれど言い争うこともなかった。
父はあくまでも寛大な人だったのだと思う。
けれどもそれは私が気づかなかっただけなのかもしれない。
新しい学校生活に慣れようと私も必死だったのだ。
嵐が近づいてくると海が荒れ海鳴りが轟く。
それは轟々と怖ろしく私のこころを不安にさせるのだった。
2021年10月07日(木) |
追憶のなかの母その2 |
父の転勤で私達一家はまた新たな山村に移り住むことになった。
同じ郡内であってもずいぶんと遠く感じたのは不思議である。
それまでは長屋のような官舎住いだったけれど
今度の家は一軒家で車も停められるほどの広い庭があった。
事務所兼住居と言ったところだろう。電話も2台あっておどろく。
子供心に父が出世したのだなと思ったことだった。
父は早速に「主任さん」と呼ばれていた。
母は主任さんの奥さん、きっと誇らしかったことだろう。
父の部下になる作業員の人達がたくさん手伝いに来てくれて
転居一日目の夜は確か酒盛りをしたのではなかったろうか。
みんな優しくて気さくな人達ばかりで前途が明るかった。
村では狩猟が盛んに行われていて父もすぐに免許を取ったようだ。
狩猟犬を飼うことになり洋犬のセッターが家族に加わる。
確か雄だったと思うのだけれど名前は「ゆう」と付ける。
その頃村一番の美人に「ゆうこ」という女性がいて
母が少しやきもちを焼いていたような記憶もある。
日曜日ともなると仲間たちと狩猟に出掛ける父。
兎を仕留めて帰って来た時は可哀想で涙が出た。
なんて野蛮な事をするのだろうと父が別人になったように思う。
暮し向きは楽だったはずだけれど
母は専業主婦になる気がまったくなかったのか
ある日突然に化粧品のセールスをするようになった。
確か資生堂だったけれどずいぶんと高価な品だったと思う。
まずは自分からとお化粧も濃くなり次第に派手になっていく。
交友関係も広くなり夜も出掛けることが多くなった。
そんなある夜、狩猟仲間のM兄ちゃんが遊びに来ていて
何がきっかけなのか分からなかったけれど父が母に暴力を振るい始めた。
それはこれまでに見たこともないまさに修羅場のようであった。
私は母が殺されると思って父の鉄砲をしっかりと抱きしめると
弟とふたりで押入れに隠れた。怖くてぶるぶると震えながら泣いていた。
押入れの隙間から覗いたらM兄ちゃんが必死になって母を庇っていた。
今思えばそれが悲劇の始まりだったのだろう。
翌朝には平穏が戻って来ていたように感じたけれど
そんな平穏はいつまでも続かなくなっていた。
夜の家事が終わると母がまた出掛けて行く。
父はどうして止めなかったのだろう。
言っても無駄だと諦めていたのだろうか。
父が憐れでなりながら母を守ってあげなければと思う。
家族の歯車がどこかで狂ってしまっていたのだ。
もう幾日真夏日が続いたのだろう。
連日10月とは思えない暑さが続いている。
けれども草花はちゃんと季節を知っていて
秋桜などはまるで秋を演じるように咲き誇っている。
仕事を終えて帰宅すると「純ちゃんの応援歌」を見るのが日課になった。
ずいぶんと昔34年程前のNHKの朝ドラ再放送である。
ヒロインの山口智子のなんと初々しいこと。
鶴瓶さんなどまだ青年の面影を残しながら脇役を演じている。
ヒロイン純子の母親が小学校の用務員をしているのを見て
ふと昔の母のことを思い出した。実は母も用務員だったのだ。
記憶は定かではないが確か私が一年生から三年生の間だったと思う。
もしかしたら保育園の頃から勤めていたのかもしれないけれど
幼い頃の記憶はあいまいでよく憶えていないのだった。
学校へ行けば母が居る。子供心に気恥ずかしかったような気がする。
母は自転車で通勤しており私が登校するともう仕事をしていて
掃除をしたり先生方にお茶を淹れたりしていたのだろうか。
母が仕事をしているのをはっきりと見たのは炊事室での姿だった。
当時はまだ給食はなかったけれどお昼には必ずミルクが出て
それは牛乳ではなく脱脂粉乳という粉ミルクのようなものだった。
白い三角巾を被った母が大きな鉄鍋でミルクを煮ているのを見た。
脱脂粉乳はちょっと癖のある味で決して美味しくはなかったけれど
残せば先生に叱られ何よりも母に申し訳なく思ったことだった。
昼食時、アルマイトのお弁当箱の蓋が開かず困る事が度々あり
お弁当箱を抱えて職員室へ行くこともよくあった。
「おかあさん」と呼んだのろうか。それもよく憶えていない。
担任の先生も居ただろうに蓋を開けてくれるのはいつも母だった。
授業が終わってからもすぐには帰らず校庭で遊ぶことが多かった。
毎日は無理だったけれど母と一緒に帰りたかったのだと思う。
母は自転車を押しながらゆっくりの歩調で私につきあってくれた。
楽しみだったのは夕食の買物をする時だった。
いつも寄る魚屋さんには揚げ物も売っていて私はコロッケが大好きだった。
食べたいと言えば叱りもせずに母はいつも買ってくれたのだ。
そのコロッケを食べながら帰る。私にとっては至福の帰り道だった。
四年生になる前の春休みに父の転勤が決まり引っ越すことになる。
母も当然のように用務員を辞めなくてはいけなくなった。
三年生の時の集合写真には母の姿がちいさく映っている。
新しい土地での暮らしに家族の誰もが胸をふくらませていたことだろう。
いずれ訪れるであろう悲劇など考えることもなかったと思う。
今思えば母にとっては人生の大きな転機だったのだろう。
母はまだ27歳の若さであった。
日が暮れるのがずいぶんと早くなった。
一番星を仰ぎながらこれを記し始める。
ふうと大きなため息。その理由が自分でもよくわからない。
いったい何を書こうとしているのだろう。
きっとつまらないことなのに違いない。
宮尾登美子は「もう一つの出会い」というエッセイ本のなかに
「書くことの浄化作用」なる文章を書いている。
たとえば苦しいこと辛いことがあっても書けばそれが浄化されるのだそう。
幸いと言って良いのか私は平穏な日々を過ごしており
浄化させなければいけないことなど何一つなかった。
あるのは平凡で変わり映えのしない日常のことばかり。
ある意味それが一番の幸せであることは言うまでもない。
過去を辿ればきりがない。もうそれは終わったことなのだ。
いつまでも引き摺っているようでいて吹っ切れているのだろう。
ただ母に対する愛情は?と問われると未だに素直になれずにいる。
それだけ大きな傷を負ったのだろう。その傷口がまだ残っている。
かさぶたを剥がせば血が出る。それが怖くてたまらないのだ。
宮尾登美子のエッセイ本は高知県立図書館の廃棄本だったようだ。
巡り巡って山里の図書室で息をし続けている。
その本を手に取り確かに救われた私がいた。
10月になっても連日の真夏日が続いている。
いま午後7時。室温はまだ30℃もある。
窓を開け広げ扇風機のお世話になりながらこれを記し始めた。
朝の山道で久しぶりにお遍路さんを見かける。
60歳位だろうかそれにしても若々しく
短パンから出た足は日に焼けてとても逞しく見えた。
荷物が少なかったので野宿ではなさそう。
おそらく夜明け前に宿を出たのだろう。
タイミングもあるけれど声を掛け易いお遍路さんと
そうではないお遍路さんがいて今朝のお遍路さんは後者だった。
横顔に会釈をして追い越して行く。
せめて気づいてくれたらと思うけれどそれさえも叶わず。
よほどご縁がなかったのだなとなんだか少し寂しかった。
10月とはいえ炎天下のお遍路は辛かったことだろう。
今頃は宿でゆっくりと寛いでいてくれたら良いなと思う。
夕方、めいちゃんが久しぶりのかん虫。
ちょうど娘と夕食の支度をしている時だったので
娘が相手にしなかったらついに大泣き大暴れとなった。
どうやら宿題が出来なくてかんしゃくを起こしたよう。
静かになったので様子を見にいったらあやちゃんが教えていた。
さすがお姉ちゃんだなと感心する。めいちゃんも素直だった。
じいちゃんと二人で先に夕食を食べる。
これはもう我が家の日課になった。
特に寂しさも感じずもう慣れてしまったのだろう。
娘たちも家族四人で食べるのがとても楽しそうだった。
私はさっさとお風呂に入り焼酎タイム。
この日記を書くのにほぼ一時間かかるのだけれど
焼酎の水割り3杯がちょうど良いようだ。
そうしてすぐに眠くなる。9時まで起きていることはめったにない。
2021年10月03日(日) |
バッテンもあれば花丸もある |
今朝はぐんと気温が下がり肌寒いほどだった。
日中は今日も真夏日。朝との気温差には驚くばかり。
あちらこちらに薄の若い穂。陽射しを浴びてきらきらと輝く。
その傍らにはセイタカアワダチソウが三角の黄色い帽子。
ふたりはまるでコンビであるかのように秋の景色を彩っている。
川仕事に行く前にお大師堂へ。
今朝は一番乗りだったようで日捲りの暦を今日にする。
花枝(シキビ)が少し葉を落とし始めていて気になった。
新しく活け替える時間がなく来週こそはと決めて帰って来る。
自分に出来ることをと思っていても疎かになることもあるものだ。
8時前には川仕事へ。一時間程ですべての杭を打ち終える。
私は胴長を履いていたけれどじいちゃんは磯足袋のまま。
潮はほぼ引いていたけれど今朝は水が冷たかったろうと思う。
気遣えば「気持ちいいぞ」と笑い飛ばしていた。
「ご苦労さま、やっと終わったね」心地よい達成感だった。
午後はまた読書に夢中になる。一気に読み進み残りわずかになる。
明日のお昼休みには読了するだろう。
そうしたらまた宮尾登美子のエッセイ本を読もうと思う。
なんだか「つなぎ」のようで宮尾先生に申し訳ないけれど。
東野作品にはまだ未読の本がありなんとしても全作品を読みたい。
夕飯は和風ハンバーグ。あやちゃんが二個も食べてくれて嬉しかった。
よほど美味しかったのかご飯もおかわりをしてくれる。
にこにこと笑顔で食べてくれるとなんだか救われたような気持ち。
毎日のメニューに頭を悩ませているけれど今夜は花丸のようだった。
バッテンの日もいっぱいあって落ち込むこともあるけれど
私はわたしなりの出来ることを頑張っているのだと思う。
明日のことはまたあした考えればよいことだ。
夜風がずいぶんと涼しくなった。今夜もぐっすりと眠れそう。
雲ひとつない快晴。気温は今日も高く真夏日となる。
夏はいったい何を忘れてしまったのだろう。
それが分かればそっと置くこともできるだろうに。
秋は少し戸惑っているようだ。声をかけることも出来ない。
早朝より川仕事。今日は無理をせず少しだけ。
明日にはすべての杭を打ち終わることだろう。
漁場の準備が整えば種網を張る作業が待っている。
それにしても水温が高すぎるのがとても気になる。
過酷な環境で海苔が育つのか不安がればきりがなかった。
9時には帰宅しており少し休んでからカーブスへ。
今日は月初めの測定があり体重2キロ減、ウエスト2センチ減。
毎月少しずつだけれど筋トレの効果が出ているようだ。
この調子で頑張ろうと思う。なんとしてもあと5キロは痩せたい。
週に三回が理想だけれどなかなか思うようにはいかないものだ。
午後は少しお昼寝をしてからの読書。
昨日届いた本を三分の一ほど読む。
やはりミステリーは面白い。読み出したら止まらなくなる。
まあちゃんが遊びに来ていて猫を飼い始めたとのこと。
どうやら例の子猫を保護してくれたようだった。
あやちゃんはもちろんのこと私もほっと肩の荷を下ろす。
もうお腹を空かせて鳴くこともないだろう。
心を鬼にしていたけれど救われてほんとうに良かったと思う。
自分達にはそれが出来なかったことが申し訳なくもあった。
特にあやちゃんは心を痛めていてどんなにか辛かったことか。
まあちゃんの報告を聞きながら心から微笑んでいるようだった。
捨てる神あれば拾う神ありだろうか。
もちろん私達は捨てる神だったのだろう。
2021年10月01日(金) |
いかにして恥をさらすか |
今日から10月だというのに30℃を超える真夏日となる。
夏の名残りというよりもやはり異常気象なのだろう。
なんだか大きな地震でも起きるのではないかとふと不安になった。
それでも日が暮れると心地よい涼風が吹きほっと秋の気配を感じる。
仕事が忙しく2時間弱の残業となる。
それが少しも苦にはならず程よく疲れて帰って来た。
ネットで注文していた中古本が届いていて嬉しい。
これで週末は途方に暮れなくて済みそうだ。
9月は結局11冊の本を読了したことになる。
すべて東野圭吾のミステリーばかりであった。
山里の図書室にはもう未読の東野作品が無くなってしまって
新刊は予約制だと言われいつ読めるのかまだ未定だった。
順番が来たら連絡してくれるのだそう。もう待ちきれない思い。
それにしても小さな山里にどれほどの東野ファンがいるのだろう。
今日はお昼休みに読む本が無く宮尾登美子のエッセイ本を借りて来た。
自叙伝風のエッセイでなかなか興味深い内容であった。
最初の結婚から離婚。そうして再婚とまるで誰かさんのよう。
読んでいたら無性に書きたくなってムズムズとして来る。
ある意味恥さらしでもあるけれどその恥を曝け出すのだ。
それが文学になる。宮尾文学はとても奥が深い。
私などはとても足元にも及ばず計画性もまるでないものだから
ある日突然に衝動的に書いてしまうかもしれない。
今までもそうして来たしこれからもきっとそうなのに違いない。
昨日の事は忘れても昔の事はよく憶えているそんな歳になった。
走馬灯のように目に浮かぶというけれど
その走馬灯なるものを私は見たことがない。
とにかく生きているうちに恥を晒しておこうと思っている。
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