花曇のぼんやりとした空模様だったけれど 気温は高くなりぽかぽかと暖かな一日になった。
散り始めていた桜もしばし留まっている。 風まかせなのよと微笑みながらつぶやいているよう。
本日も多忙なり。早朝から夕方までまったく時間のゆとりがなかった。 気がつけばなんだか苛々としていてこれではいけないなと反省する。 夫もきっと同じだろうと思う。こんな時こそ労わり合わなければいけない。
毎日の日課だった散歩も行けない日が多くなってしまって。 今日も時間切れでクルマに飛び乗りお大師堂に向かおうとしていた。
あんずは寝ているとばかり思っていた。諦めていると思い込んでいた。 それなのにクルマに乗るとバックミラーに彼女の姿が映っているではないか。
「おかあさん・・今日も駄目なの」その顔はとても寂しそうな顔に見えた。
大急ぎでクルマをバックさせ引き返したのは言うまでもない。
「あんちゃん、今日は大急ぎだけど大丈夫?」
駆け足のあんずを見たのはほんとうに久しぶりだった。 ぐんぐんとリードを引っ張って私より先を歩こうと一生懸命がんばる。
つくしの坊やはいつのまにかスギナになっていたんだね。
白つめ草の花。野あざみの花。野ばらの花も咲いていたね。
あんずのおかげでまたたくさんの春に出会うことが出来たよ。
花冷えをそのままに少し冷たい雨の一日となる。
それはやはり花散らしの雨になってしまって お大師堂の石段にも桜の花びらがたくさん落ちていた。
顔なじみのお遍路さんと語り合いながら はらはらと散っていく桜の木を二人で見上げる。
「俺はさあ、もういつ死んでもいいんだ」
そのお遍路さんは会うたびにいつもそう言う。 その言葉を聞くたびになんともいえないせつなさが込み上げてくる。
「私はね。もっともっと生きたいの」そう言うとにっこりと微笑んでくれる。
出会った頃はとても無口で無愛想な人だと思っていた。 けれども何度が会っているうちに少しずつ語り合えるようになった。 何よりも嬉しいのは笑顔を見せてくれるようになったことだ。
名前も知らない。どこの出身なのかも知らない。 もちろんどうして職業遍路の道を選んだのかも聞くことは出来なかった。
「お地蔵さんのお遍路さん」とこころの中でそう呼んでいる。 そのお遍路さんは道端のどんな小さなお地蔵さんにもお経を唱えていると聞いていた。
どんなにかこころの優しいひとなのだと思う。ほっこりとあたたかくて。 けれどもいつも厳しい顔をしているのは、背負っているものが重過ぎる。
その重さを少しでも分かち合えたらと思うけれど何も出来ず ただ一瞬でも笑顔になってくれたら良いなといつも願っている。
「桜も終わりだな」って言ったけれど始まることがきっとある。
それぞれの生き方があるようにそれぞれの春がそこにあった。
追記:花風邪は峠を越えて今日はずいぶんと楽になった。
「花冷え」のおかげで桜はながく咲いてくれるのだそうだ。 満開の桜をそのままに冬の名残の北風が冷たかった。
先日からの花風邪が少し長引いている。 微熱のせいか足がだるくてしょうがなかった。 気力に体力がついていかなくてなんだか情けない。
無理をし過ぎないように川仕事を頑張っているのだけれど 弱音を吐けば夫に心配をかけてしまうのでそれは禁物。 「なんのこれしき」と思って出来る限りのことをしている。
朝を迎えるたびに夫が「大丈夫か?熱はないか?」と 気遣ってくれるのがとても嬉しかった。
だから満面の笑顔で「だいじょうぶよ」って応える。 そうしたら夫もほっとしたような笑顔になってくれるのがまた嬉しい。
やまない雨がないように治らない風邪もないのだと思う。 今はちょっと辛いけれどなんとしても乗り越えようと思っている。
昨日は行けなかったお大師堂。今日も満開の桜が迎えてくれる。 誰かがひと口羊羹をお供えしてくれていて、思わず手が出てしまった。 甘い物を食べるとほんとうに幸せな気持ちでいっぱいになる。 「ごちそうさまでした」お大師さんもにっこりと微笑んでいるよう。
明日は雨の天気予報。花散らしの雨にならなければ良いのだけれど。
桜の季節に風邪をひくのを「花風邪」というらしい。 なんて誰もそんなことは言わないのだけれど 自分で勝手に名づけてみては体調の悪さを受けとめている。
昨夜一晩中下がらなかった熱が今朝になりやっと下がる。 川仕事が大忙しだというのに休んでなんかいられない。 「大丈夫、行くから」と夫を安心させようとしていた。
けれども夫はちっとも安心なんかしてくれなかった。 「頼むから寝ていてくれ」そう言って私を安心させようとする。
それが夫の優しさなのだなとつくづく感じた朝だった。
年を重ねるごとに「いたわる」という気持ちが大きくなる。 それが夫婦と言うものだろうか。なんとありがたいことだろう。
おかげでゆっくりと身体を休めることが出来た。 夕方にはリハビリと称して散歩にも出かけてみる。
お大師堂の満開の桜がとても綺麗で心を和ませてくれた。 そんな桜を見上げながら「桜貝」という名のお菓子をひとつ頂く。
若い頃のように無理のきかなくなったこのからだ。
のんびりと元気でいよう。そう自分に言い聞かせて明日に向いたい。
「春に三日の日和なし」と言うけれど 今朝の青空はつかの間で午後からぽつぽつと小雨が降り始める。
雨はすぐにやんだけれど、なんだか身体が重くて散歩を諦めた。 あんずの呼ぶ声も聞こえず、彼女もたまには休みたっかのかもしれない。
明日がある。あしたがあるさと歌うように思った。
どんな日もあってよし。気の向くままに流れていくのがいちばんだ。
夕方、郵便配達のおにいちゃんが来てくれて書留が一通。 それからお手紙もありますよと手渡してくれた。
まだ春遠い岩手盛岡から季節のたよりが届く。 「気持ちは春へむかっています」
この冬の厳しい寒さから希望の春が垣間見れた。 ふと昔テレビで見た「一本桜」の木が目に浮かんできた。 あの場所に立ってみたい。そうして岩手山を仰いでみたいものだ。
まだ一度も会った事のない盛岡の友。 儚ささえ感じるネット空間で今もこうして繋がっていられる奇蹟。
縁と言うものはほんとうにありがたいものだとつくづく思う。
私も春のたよりを届けたいなと思う。
そうして私と同じようにそのひとがほっと微笑んでくれたらいいな。
朝の肌寒さは「花冷え」だろうか。 桜が咲くと必ずと言っていいほど寒の戻りがあるものだ。
春彼岸も中日を過ぎ、向こう岸に冬が渡ろうとしている。 暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだと思う。
桜の花もすぐに満開を迎えそうだった。 儚い花だけれど心を尽くすように愛でてあげたいと思う。
庭の隅にずっとほったからしにしてあった紫陽花の木に いつの間にか若い緑の新芽が出てふっくらとしていた。 もうそんな頃なのかとびっくりと嬉しく思う。
確かなことは今まさに季節が移ろっているということ。 前へ前へと。ずっと留まることがなく明日へと向っているのだった。
一緒に歩んでいかなければ。命あることをありがたく受けとめながら。
孫の綾菜。昨夜も熱は出ず無事に朝を迎えることが出来た。 もう大丈夫。胸を撫で下ろしながら愛しさが込み上げてくる。 三日間の熱との闘い。ほんとうによく頑張ったと思う。 「えらかったね、あやちゃん」今日も会いたくてたまらなかった。
夕方、あんずと一緒にお大師堂まで散歩。 元気いっぱいの日もあればそうでない日もあるけれど 無理をさせないようになるべく少しでも歩かせてあげたいと思う。
帰り道の土手でお散歩仲間のワンちゃんに会って 飼い主さんが「がんばれ、がんばれ」と声をかけてくれた。
その声がとても嬉しかった。あんずも尻尾を振って嬉しそうな顔。
絹のようにやわらかな雨になる。 しっとりと潤う桜花も風情があって良いものだ。
心配でならかなった綾菜。今朝も40度を越す高熱があった。 娘が出勤前に座薬を挿し、後は様子をみることにする。 昨夜も殆ど寝ていないということでぐずって泣いてばかり。
けれども座薬がすぐに効き始めて抱っこしているうちに眠り始める。 よほど眠かったのだろう。一時間ほどぐっすりと眠ってくれた。
汗をたくさんかいたのが良かったのか、熱が一気に下がっていた。 この三日間、平熱に戻ることがなかったのでとてもほっとする。
食欲もありお昼ごはんもたくさん食べる。デザートに大好きなみかん。 食後のミルクも飲み干し、さあ遊ぼうと玩具を引っ張り出して遊び出す。
ひとり遊びがとても上手になった。あうあうと声を出してよく遊ぶ。 何度か熱を測ってみたが、平熱が続いていてもう大丈夫かもしれない。
気がつけばお昼寝の時間をとっくに過ぎていて 綾菜の顔をのぞくと目はとろんとしたまま玩具を放さなかった。 「あやちゃん、ねんねは?」抱っこするなりすぐに眠り始めた。
眠いのも忘れるほど遊びに夢中になっていたようだ。 それだけ元気になった証拠だろうか、安堵しながら微笑んでいた。
午後四時、帰宅した娘もとてもほっとした様子。 もう一度熱を測ってみたけれど変わらず平熱のままだった。 今夜熱が出なければもうぜったいに大丈夫だと思う。 もしまた高熱が出たら明日ほかの病院へ連れて行くことに決める。
いつのまにか雨がやんでいた。 お大師堂にお参りに行き、雨に濡れた桜の花を見上げる。 泣いているのではないよ。微笑んでいるのだよとそれがつぶやく。
「ありがとうございました」手を合わせてちょっぴり涙ぐんだ。
ほっとした涙とうれしい涙はいくらでも流したいと思う。
2013年03月19日(火) |
桜は咲いてくれたけれど |
昨日の春の嵐がうそのように穏やかな晴天に恵まれる。 おかげで桜の花が一気に咲き始めてくれた。
お大師堂の桜も咲き始め川辺を彩ってくれている。 ゆったりと流れる大河とそれはなんとも絵になる光景だった。
昨日の早朝、薄っすらと夜が明け始めた頃だった。 ネットを通じて知り合ったお遍路さんが四万十に来てくれる。 お大師堂にも立ち寄ってくれて大急ぎで駆けつけて行った。 まだ寝巻き姿のまま顔もすっぴんだったけれど気にしない。 とにかく一目会わなくてはの一心で駆け出して行ったのだった。
初対面だと言うのに不思議な懐かしさを感じる。 「縁ある人」とはきっとそんな感じなのだろうと思った。 ほんとうにつかの間の事だったけれど感動で胸がいっぱいになった。
またいつかきっと再会出来ることだろう。 そう信じてこれからも四万十のほとりで待っていようと思う。
そんな嬉しい朝だったというのに、家に帰り着くなり娘から電話。 孫の綾菜がまた熱を出してしまったようでなんとも心配なこと。 お守りに駆けつけた時には食欲もあり元気そうに見えたけれど 午後から高熱になりひどくぐったりと弱ってしまったのだった。 娘の帰宅を待ち小児科へ行く。インフルでもRSウィルスでもなかった。 ただの風邪でこんなに高熱が出るものだろうか。不安でいっぱいになる。 二、三日様子を見るように言われたけれど気が気ではなかった。
今日はなんとか娘が仕事を休めたけれど、明日はまたお守りに行く予定。 明日もまだ高熱が続くようなら明後日には他の病院へ連れて行こうと思う。 どうか熱がさがりますように。そればかりを祈って一日が暮れていった。
嬉しいこともあれば不安なこともあるもの。 そんな日々を受けとめるように少しでも穏やかな気持ちでいたいなと思う。
2013年03月17日(日) |
ともに白髪のはえるまで |
お天気は下り坂。明日は春の嵐か、大荒れのお天気になりそうだ。
彼岸の入りだというのにお墓参りも行けずにいる。 忙しさのせいにしてついつい疎かにしてしまうのだった。 それなのに亡くなった義父はずっと私たち家族を見守ってくれている。 川仕事をしている時も「がんばれ、がんばれ」と声がきこえてくるのだ。
夫が家業を継いでもう31年目。 30歳だった夫も今日で61歳の誕生日を迎えた。 義父が亡くなってからたくさん苦労したけれど そんな苦労のおかげで今の暮らしがあるのだと思う。
もう61歳。なんだか信じられないような気持ちになるけれど 「ともに白髪のはえるまで」自分たちもそんな夫婦になった。
夫の大好きな大相撲を観戦しながら、ささやかにお祝いをする。 ステーキとワイン。「やっぱ肉だよな」と大喜びの夫だった。
いつも応援している豊ノ島が横綱日馬富士を破った。 ふたりで盛大に拍手、家中に歓声がとどろいた瞬間だった。
もしかしたらなんでもないことなのかもしれない。
けれどもそんなささいなことがすごくすごく幸せに思える。
ふたりで笑ってふたりで喜ぶ。そうして元気に生きている。
「おとうさん、これからもいっぱい長生きしようね」
作業場の庭に「からすのえんどう」がいっぱい。 青々とした緑にれんげ色した小さな花がとても可愛かった。
海苔を干しながら、踏まないように踏まないようにと歩く。 それでもどうしても踏んでしまった時は「ごめんなさい」と頭をさげる。
どんな雑草にもちゃんと名前がある。そのことがとても嬉しかった。 そして何よりもその生命力の凄さ。命をいっぱいに花を咲かせている。
私もそんな雑草みたいに生きてみたいなとふと思う。
時には踏まれてみるのもいい。無残に引き抜かれてみるのもいい。
どんなに辛い目にあってもしっかりとしっかりと生きていきたい。
からすのえんどうは、花が終るとカラス色の実がなる。
その実のなかにはきっとたくさんの種がつまっているのだろう。
花が赤ちゃんを産むみたいにその種が土の中で育っていく。
どんなに固い土だってその種をしっかりと抱いてくれるのだ。
うん、いいな。それってやっぱりいいな。
明日の朝めざめたら「からすのえんどう」になっているといいな。
彼岸の入りも近くなり「寒の別れ」と言うのだろうか。 冬と春がせめぎあって冬がとうとう旅支度を始めたようだ。
けれども潔くは行けない冬は名残惜しそうに何度も振り向く。 なんだか引き裂かれているようでふっとせつなさを感じた。
冬はどこにいくのだろう。冬だって春が愛しいのではないだろうか。
昨夜のこと、パソコンの「お気に入り」を整理していて とあるページを何年ぶりかに開いてみてとても嬉しいことがあった。
「もう更新はしない、さようなら」あっけなく去っていったひと。 けれどもそのページを消すことはどうしても出来なかった。
私は親身になり過ぎていたのかもしれない。 すごくお節介をやき過ぎて不愉快な思いをさせていたかもしれない。
ある日突然の「拒絶」にずいぶんと心を痛めたことを憶えている。
そのひとの日記が更新されていた。つい先日の誕生日の日からだった。 元気でいてくれたことがわかってとてもとても嬉しかった。
「もう誰もここを見ているひとはいないだろう」そう綴られていたけれど。
「見ているよ」と大声で叫びたい気持ちになった。
けれども、もうそのことを伝えてはいけないのだと思う。 話したいことがどんなにあっても、何も語ってはいけないのだと思う。
せめて見守ることだけはゆるしてほしいと願っている。
縁あって出会えることの出来たひとだもの。
どんなにささやかな縁だとしても私にとっては大切な縁に他ならない。
帰って来てくれてありがとう。その日記に手を合わせて涙ぐんだ夜だった。
2013年03月14日(木) |
こころと時間のゆとり |
昨夜のうちに雨があがり爽やかな晴天に恵まれる。 ひんやりと冬の名残を感じる朝だったけれど 日中は降り注ぐ陽射しに春が微笑んでいるようだった。
このところ海苔の成育がすさまじく良くなり嬉しい悲鳴をあげている。 二人で力を合わせて一生懸命頑張っているのだけれど手が回らない。 しばらくは多忙な日々が続きそうだった。毎日が「勝負」になりそうだ。
自然は時には厳しいけれど、こうしてたくさんの恵みを授けてくれる。 ほんとうにありがたい事だと思う。その恩に報えるような仕事がしたい。
午後の作業を終えてやっと一息つく。 今日はお昼寝の時間もなくそのまま散歩の時間になってしまった。
独りでお大師堂に行こうと庭先に出ると、あんずが珍しく犬小屋から出ていた。 そうして「行くよ」って顔をして私の目を澄んだ瞳で見つめているではないか。
「大丈夫?ほんとに行くの?」とても心配だったけれど連れて行くことにした。 途中で歩けなくなったら引き返して来れば良いではないかと思った。 抱っこすることだって出来る。あんずの意志に任せてみようと思う。
それはとてもゆっくりとのんびりとした散歩になった。
「母さんはね、最近いつも急いでいるから駄目なんだ」
あんずがそうつぶやいているように感じた。母さんハンセイの巻である。
毎日は無理かもしれない。でもあんずが行きたがっている時はそうしよう。
こころと時間のゆとりって大切なことなんだね。
あんずにその大切さをおしえてもらった今日の散歩道だった。
何日ぶりの雨だろうか。久しぶりに聞く雨音。 南風が強く春の嵐を思わすような雨であった。
芽吹き始めた木々が喜んでいるように雨に打たれている。 田畑も潤いきっと恵みの雨になったことだろう。
川仕事を終え、作業場で昼食をとる。 今日はコンビニで買った「爆弾おにぎり」だった。 空きっ腹に滲みるとはこのこと。むさぼるようにかぶりつく。 ゆっくりと味わっている暇はないけれど、こんな昼食が幸せであった。 くいしん坊の私はもう明日の昼食の事を考えている。 たこ焼きもいいなとか。お稲荷さんもいいなとか楽しみでならない。
作業を終え帰宅するなりばたんきゅうと横になる。 自覚はあまりないけれど疲れがたまっているのだろうか。 うたた寝のつもりが爆睡になってしまってすっかり夢のなか。
最近、寝ても寝ても眠いのだ。これが春眠と言うものだろうか。 暇さえあれば寝ている。今日の雨音は子守唄のようだった。
寝起きの気だるさと雨のせいにしてクルマでお大師堂に行く。
桜の蕾も雨を喜んでいるようだった。 毎日見上げて声をかけようと思う。待っているよって囁くように。
ただただ平穏な一日に感謝するばかり。
目を閉じて手を合わすと家族の顔が灯りのように目に浮かんでくる。
朝の寒さもすぐに和らぎ、日中は風もなくぽかぽかと暖かい。
岩つつじの花が咲き始め山々を彩ってくれる。 のどかな風景にこころがほっと和むのを感じた。
お大師堂の桜、ソメイヨシノもふっくらと蕾をつける。 なんとも楽しみなこと。もう少しあと少しで桜の季節。
今まではあんずと一緒に歩いていた散歩道。 数日前から独りぼっちになってしまった。 やはり長い距離を歩かせるのは無理のようだった。
「よういどん」をして駆け出していた頃が懐かしい。 そうして楽しかった散歩があんずのおかげだったのだとあらためて気づく。
今までありがとうね。母さんはちょっぴり寂しくなったけれど。 あんずが教えてくれた草のにおい。土手を吹き抜ける風のことを忘れない。
お大師堂から帰宅してからあんずをおしっこに連れて行く。 とても散歩とは言えない距離だけれど、あんずはとても嬉しそうだった。
土手の石段を一生懸命に上がると「わぉー」と言ってるような顔をする。 目がきらきらしているのだ。好奇心いっぱいみたいな顔をして見せる。
老いることはどうしようもないこと。 わかっているけれどそれはとてもせつないことだった。
生きようねあんず。いっぱいいっぱい生きようね。
ほんの少し冬が振り向く。 けれども背中を押されたかのようにまた前を向いた。
冬がいてくれたおかげの春だものと私は思う。 誰もうらみはしない。むしろありがたい冬だったのではないか。
あの大震災の日から二年が経った。 とても複雑な気持ちのまま今日を迎える。
正直言ってうまく言葉に出来ない。 何を言っても綺麗ごとではないかと躊躇している。 言葉にする事は容易いことなのかもしれないけれど 平穏無事な我が身を思うとやはり心苦しさが込み上げてくる。
テレビのインタビューで被災者の方が語っていた。 「平凡な暮らしがとても懐かしい」と。
その平凡こそが幸せだったのだとどんなにか感じていることだろう。
その言葉を聞くなり涙がとめどなく溢れ出した。
申し訳ない・・・と思った。それ以外の言葉が見つからない。
祈ること。それが自分に出来る唯一のことだと思ってきた。
どうか光をどうか希望をと祈り続けてきた二年間であったけれど。
無力な我が身にほかに何が出来るというのだろうか。
今日も平穏無事に感謝する。それは決して当たり前のことではなかった。
自分がどれほど恵まれているかを思い知った日。
この先どんなに歳月が流れようと祈り続ける気持ちを大切にしたいと思う。
最高気温が24℃。暖かさを通り越して汗ばむほどの陽気となる。 そんな春らしさも明日までのようだ。まさに三寒四温である。
夫の体調もすっかり良くなり今日も川仕事に精を出す。 どうかこのまま順調であって欲しいと二人で語り合う。 平穏無事が決して当たり前のことではないのだとつくづく感じる。
午後からも作業がありすっかり汗をかいてしまった。 冷たい物が食べたくなってバニラアイスを美味しくいただく。 疲れた身体にそれが沁みこむとなんとも幸せな気分になった。
今日の散歩道では雪柳の花を見つける。 民家の庭先からこぼれるように咲いていてその純白に心が和む。 ふと山里の雪柳が目に浮かぶ。きっと可憐に咲いていることだろう。
このところあんずの歩みがとてもゆっくりになった。 出掛ける時は元気いっぱいなのだけれど、帰り道はよろよろしている。 土手の階段を踏み外して転ぶことも多くなってちょっと心配だった。
夫にそのことを話すと、もう長距離は無理なのではないかと言う。 「がんばれ、がんばれ」と毎日声をかけながら歩いているけれど 無理をさせているのだとしたらもっとあんずの身になってあげなければ。 しばらく様子を見てあんずとの散歩を考え直そうと思っている。
お大師堂はひっそりと静か。耳を澄ますとひたひたと水の音が聞こえる。
川面には地元の高校生だろうか。ボート部の練習をしているようだった。 スイスイと水を切るようにボートが何艘か横切って行った。 どんなにか気持ち良いことだろう。とても爽やかな気持ちになれた。
「今日と言う日をありがとうございました」
手を合わすといつもいつも清々しい気分になる。
昨日に引き続き今日もとても暖かくなる。 北風が南風に変わった。もう春風と呼んでいいのかもしれない。
そんなことを思いながらも三寒四温が頭をよぎる。 冬がいつ振り向いても良いように身構えている自分がいた。
早朝、夫が突然体調不良を訴える。 昨夜まで元気だったのにいったいどうしたことだろう。 嘔吐と熱。川仕事の疲れが出たのかもしれない。 とにかく安静にしていなければと今日は「寝の日」になった。
海苔漁は最盛期。私一人でも頑張ろうと思ったけれど、 無理をするなと夫に言われて私も休養日をいただく。
かと言ってごろごろしているわけにもいかず、姑さんの畑に行く。 ほうれん草と新玉葱を収穫した。また地場産市場へ持って行く。 先日から義妹と力を合わせたかいがあってほうれん草はずいぶんと売れた。 今度は玉葱が待っている。毎日少しずつだけれど収穫したいなと思う。
夕方、夫の熱が少し下がる。 吐き気もおさまり晩ご飯も少しだけ食べることが出来た。 シジミのお味噌汁を飲んだ時「美味いな」って言ってくれた。 それがすごく嬉しかった。そうしてすごくほっとした。
「明日のことはあしたのことよ」そう告げる。
身体が資本だもの。健康が何よりも大切なこと。
どうかお父さんを守ってください。手を合わせて今日も暮れていった。
日中の最高気温が20℃にもなりとても暖かな一日だった。 すっかり春を思わす陽気に心がほっと息をしているのを感じる。
あと二週間もすれば春分の日。冬の名残も消えていくことだろう。 ゆっくりゆっくりと春はささやくようにすぐ近くまで来ている。
友人のお母様が亡くなり、昨夜はお通夜に参列してきた。 憔悴しきっている友人の横顔を見ながら声もかけられず帰って来る。 どんなに覚悟はしていても親を亡くすのはほんとうに辛いことである。
もしも母が死んでしまったら。昨夜からそればかり考えている。 「縁起でもないこと言わないで」母が知ったらきっと笑い飛ばすだろう。
長生きをしてほしい。ずっとずっと元気で笑顔でいてほしい。 祈り続ける日々が永遠にあればどんなによいだろうかと思う。
夕暮れ間近の散歩。おひさまは明日を約束するように微笑んでいる。
土手のつくしの坊やたちもすっかり大きくなって。 もうすぐ一年生みたいにすごくたくましくなった。 みんなが背比べしている姿も微笑ましくてならない。
ふっと坊やたちのお母さんになりたいなって思った。
薄っすらと霜の朝。そんな寒い朝もあまり気にならなくなった。 日中の陽射しはどんなに風が冷たくても春を感じるようになる。
もう少しあと少し。希望をもって春への道を歩んで行きたいと思う。
北国からの悲しいニュースが流れ心を痛めている。 雪が人の命を奪う。そんな悲劇があって良いものか。 そんな現実を受け止めながら心苦しさが込み上げてくる。
春を身近に感じているこの頃、自分はどれほど恵まれているか思い知る。 どんなに感謝しても感謝しきれないほどの日々を頂いているのだと思う。
北国にもきっと春は来る。手を合わせ祈ることしか出来ない自分がいた。
川仕事を終え作業場で仕事をしている時に、弟一家が訪ねて来てくれた。 ほぼ10ヶ月ぶりの再会。作業の手を休めてしばし語り合う。
弟というものはいくらおじさんになっても可愛いもの。 幼い頃はいつも私にくっついて甘えん坊の弟だった。
その甘えん坊はいまも変わらない。 お隣の地場産市場で海苔の佃煮や苺などをお土産に買ってあげた。
「おねえサンキュー」みんなが笑顔で手を振って帰って行く。
忙しい時だったけれど、嬉しさが勝り私も「ありがとう」って叫んだ。
昨夜は両家の家族でささやかな小宴。 にこにこ笑顔の綾菜をかこんで楽しい夜となった。
どうかこれからもすくすくと元気に成長してくれますように。
三月三日。おひな祭り。今日で生後10ヶ月になりました。
弥生三月。そう聞いただけでなんだかわくわくとしてくる。 一日いちにちが春への歩み。すくっと前を向いて歩いて行きたいものだ。
曇りのち雨。降り出した雨は風をともないまるで嵐のようだった。 散歩にも行けず雨音を子守唄のように聴きながらうたた寝の午後。
山里の母から仕事の事で電話あり。 一気に心苦しさが込み上げてきて「ごめんね、ごめんね」を繰り返す。 母の口調から少しパニック状態になっていることを感じた。 少しでも助けてあげたいけれど今はどうすることも出来なかった。
自分が優先すべきこと。いつもいつもそれを考えている。 そのために疎かになってしまうことがあっても仕方ないのだと。 ひとつきりの身体でどれほどのことを成すことが出来ようか。
母の声を聞いてからなんだかざわざわと心が落ち着かなくなり。 気分転換を兼ねてお大師堂にお参りに行って来た。 そうだ、今日はお大師さんと一緒にお菓子をいただこう。 おせんべいをぽりぽり食べた。にこにこしながら食べた。
感謝の気持ちとたくさんの願いごと。
手を合わせば自然とこころがまるくなる。
そのまあるいこころをそっと抱くように家路についた。
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