思いがけないほどに暖かな朝。 朝陽が射し始めると青空が広がっていく。 風もないのに雲はどこに流れていくのだろう。 そうしてゆっくりといちにちが始まっていった。
いつもの峠道を行けばつわぶきの花がそれはたくさん咲いていて。 山肌からこぼれるようにその愛らしい顔をのぞかせている。
太古の昔に初めて咲いた花は黄色だったと聞く。 山や野に咲く花はまるで歴史そのもののようにも思える。
あちらこちらにとその花を見つけては「おはよう」と声をかけた。 もちろん応えてはくれない。けれどもそっと耳を澄ませてみる。
花たちは確かに語らっている。あたりの緑もささやいている。
山全体が歓喜の声をあげているように私には感じられた。
そんな峠道を鈴の音を響かせながらお遍路さんが歩いて行く。
私も歩きたいなってすごく思った。もっともっと耳を澄ましてみたい。
朝のうちほんの少しだけ雨が降る。 静かにしっとりとあたりが潤っていく。 雨のにおいが好き。とても心が落ち着く。
あいかわらず何をするでもなく。 ひたすらのんびりと過ごす休日。 平凡で退屈な時間がまた愛しい。 午後はたっぷりと昼寝などする。
楽しみなのは散歩の時間だった。 雨のにおいが残る道を歩いて行く。
風のない日の川はまるで湖のよう。 ひたひたと水がかすかに歌っている。
のどかに釣り糸をたらす川船の老人。 こんにちはと声をかける散歩仲間達。
まるで時間が止まってしまったようなひと時。 とっくんとっくんと動いているのは私の心臓。
生きていることをもっともっと感じていたい。
2011年10月29日(土) |
お遍路さん(その6) |
雨が降りそうで降らず曇り日のまま日が暮れる。
里芋を煮た。また作り過ぎてしまってお鍋にいっぱい。 こんな日に息子が来てくれたら良いのになって思った。
夕方散歩に行く時にお米を少々持って行く。 実は水曜日に再会したお遍路さんがお大師堂に逗留していて。 昨日会った時に「お米持って来て下さいよ」と頼まれていたから。
でも正直言ってそれが少し不愉快でもあった。 お接待やお布施は確かに大切なことだけれど。 頼まれてすることではないのだと思っていたから。
どうしようかなと今日は朝から悩んでいたけれど。 ほんとうに困っているのなら助けてあげなくてはと思う。
少し後味が悪いような気もしたけれど。 その人が喜んでくれるのがいちばんだと思ったから。
でも今日も居るはずのその人がそこにいなかった。 お大師堂の掃除もしてくれたのか綺麗に片付いていた。
なんだかキツネにつままれたような気持ち。 予定を変更して今朝のうちに旅立ったようだった。
そうしてまたひたすら歩き続けるのだろう。 帰る家がないのかもしれない。終りのない旅なのかもしれない。
そう思うと。たとえ一瞬でも不愉快に思った事を心から詫びた。 お米をと言ったその人の笑顔がすべてを物語っているように思えた。
あの笑顔がその人のほんとうの姿なのだろう。
またきっと再会しましょう!
今度は頼まれなくてもお米を差し入れしますからね。
朝の寒さが少しゆるみほっとする。 どうやら雨が近づいているようだ。 それもまたよしと思いたいものだ。 冷たい雨になってしまうかもしれないけれど。
仕事中。母が庭の草引きを始めた。 それは母の気分転換でもあり止めもせずにいると。
枯れ始めたコスモスを根こそぎ引き始めてしまう。 それはとてもはらはらとする光景だった。 いくら枯れてしまったとしてもそっとそのままに。 そうでないと毎年咲いてくれる花が憐れでならない。
まして私の大好きな花。あんまりではないかと思った。 ついに耐えかねて少し母を咎める口調になってしまった。
「だって汚いでしょ!」それが母の言い分。
確かにそれはもう美しくはない。可愛くもないかもしれない。 けれどもどんな姿になっても愛しい気持ちを忘れたくはない。
ふとどうしてあげればコスモスは喜ぶのだろうと考える。 汚いと言われてまでもそこに在り続けることが幸せなのか。
答えは見つからないままだったけれど。 結局私も母を手伝うことになってしまった。
どうか来年もきっと咲いてくれますように。 引き抜いては種をなるべくたくさんふるい落とす。 種さえあればきっと大丈夫。やっとそう思えるようになった。
信じてあげなくては。それがいちばんのことなのではないか。
また巡り来るだろう秋にきっと再会出来ることだろう。
たくさん咲いてくれてありがとうね。供養のように手を合わした午後。
2011年10月27日(木) |
そうして息子は去って行く |
夏からずっとシャワーだったのを今夜からやめにする。 久しぶりに浸かるお湯のなんと心地よいことだろう。 肩まで浸かってくらげみたいにふにゃふにゃとしてみる。
寒くなればこんな楽しみが増える。お風呂が大好きになった。
入浴後。いつものように自室でくつろいでいたら。 今から帰るからと息子から電話がかかってきた。 とにかく何でも良いから食べさせてくれと言う。
残り物しかなくて。切干大根の煮たのとか。 大急ぎで温めていたらすぐに息子が帰って来た。
「すき屋」に牛丼を買いに行っていたらなんだかすごく むなしくなったのだと言う。気分まで悪くなってきたと。
そうかそうかと宥めながらも母は微笑むことを忘れない。 けれども内心は息子のことがとても憐れでならなかった。
今更ながら一人暮らしはもう無理なのではないかと気遣う。 けれども息子はそんな暮らしをやめるつもりはないと言う。
なるようになるのだろうか。このままでいいのだろうか。
あれこれと心配していたらきりがなくただ受けとめるしかない。
帰り際に私の部屋に乱入してきた息子は本棚をあさってみては。 これにしよう!と私の愛読書をさっさと奪って行った。
「ひろさちやの般若心経88講」である。私の宝物なのに。
でもそれがなんだか嬉しくなってきた。
それを読めばきっと変わる。今の泥沼から抜け出せる気がする。
かつての私がそうだったように。息子にも光が見えるかもしれない。
今朝はこの秋いちばんの冷え込みだったようだ。 血圧がぐんと高くなる。不安でならない朝でもあった。
重ね着などして暖をとる。大丈夫だいじょうぶと言い聞かす。 寒さはまだまだこれからだと言うのにこれでは先が思い遣られる。
もっとど〜んと構えていなければ冬に負けてしまうではないか。
と、自分に喝を入れる。強気がいちばん。立ち向かって行こう!
晴天に恵まれ日中は暖かくなりほっと空を仰いだ。 降りそそぐ陽射しがこんなにありがたいことはない。
仕事を終え帰宅すると今日も元気に散歩に出掛けた。 民家の近くを歩けば柿の実がたくさん実っている。 土手を歩けばススキや野菊が寄り添って微笑んでいる。
お大師堂に行けば顔見知りのお遍路さんと再会した。 歩くばかりの日々と言う。そうして月日が流れていく。 それでも笑顔を絶やさない人。その笑顔はとても貴重だった。
そうして川辺の道を歩く。振り向きながら夕陽を仰いだ。
生きているんだなってすごく感じる。とてもとても幸せなんだ。
曇り日。風が吹き抜け肌寒い一日だった。 昨日の暖かさがうそのよう。そうして冬の足音が忍び寄る。
たくさん咲いていたコスモスがすっかり枯れてしまった。 なんともさびしい。あたりの風景が一気に冬枯れていくよう。
しょんぼりとした気持ち。だからこそ心に種をまきたい。 どんな花を咲かせようか。楽しみながら日々を送りたいものだ。
夕暮れ間近の散歩道。川辺にじっと佇んでいる人を見つける。 見知らぬ男性だった。岩に腰をおろし川ばかりを見つめている。 何か思いに耽っているようにも見えて声もかけられなかったけれど。
私にもかつてそんなことがあったなと遠い日のことを思い出した。 あの時は何を考えていたのだろう。いったい何を想っていたのだろう。
その人を横目に川辺の道を進んでいくと県外ナンバーの車が停まっていた。 誰も乗っておらずさっきのその人がそこから歩いて行ったのだと気づいた。
一人旅だろうか。いやもしかしたら仕事で出張してきたのかしれない。 そんなどうでも良いことを考えながらその人からどんどん遠ざかって行った。
そうして夕陽が川面を照らし始める。きらきらとそれは眩しく美しい。
あの人もきっと見ているだろうな。そう思うとすごく嬉しくなった。
二十四節気の「霜降」冷え込みを覚悟していたけれど。 思いがけずに気温が高くなり26℃の夏日となった。
もう今年最後の夏日かもしれない。 そう思うときらきらと光る陽射しが愛しくてならなかった。
散歩道を歩きながら川風に揺れるススキの穂を仰いだ。 ずいぶんと背高のっぽ。これ程に伸びるものかと驚く。 その穂に西日が射し眩しいほどに光り輝いていた。
すぐに帰ってしまうのがもったいないような気がして。 川端の道をしばらく歩き続けてみた。ずっとどこまでも。 行ける所まで行ってみたい衝動に駆られる。胸をはって。 何も考えずに。ひたすら歩き続けてみたいなと思った。
うっすらと汗が流れ始める。なんて心地よい散歩なのだろう。
今日よりも明日と少しずつ距離を伸ばしてみようかなと思う。
そうして今まで気づかなかった風景に出会ってみたいものだ。
きっと毎日が楽しくなる。散歩道はちょっと人生と似ている。
空は気持ちよく晴れ暖かく穏やかな祭り日和。
朝、高台の神社からお神輿が出て秋祭りが始まる。 どんどこどんどこ太鼓の音に誘われて祭りの広場へと出掛ける。
地区のちいさなお祭りだけれど毎年楽しみにしている。 太鼓の音はもちろんのこと太刀踊りがとても好きだった。
くるりくるりと太刀をまわしながら勇ましく踊る男の子たち。 古くからの伝統を今に受け継ぎ今年も新しい踊り子が加わった。
その一人には息子の同級生の子供もいて。 もうこんなに立派に成長したのかとおどろく。 小学四年生。まだあどけない顔のままとても上手に踊っていた。
息子にもこんな頃があったなと懐かしく思い出す。 上手に踊れるかしらとはらはらしながら見守ったことだった。
ずいぶんと歳月が流れてしまったけれど昨日のことのよう。 そうして少年は青年になりすっかり大人になってしまったけれど。 地元に住んでいれば今も青年団で活躍していたことだろう。
もう一度見てみたいなと無理なことをついつい願ってしまう。
母親ってみんなそうなのかもしれない。
どんなに成長しても子供の頃のあどけない笑顔が懐かしく愛しくてならない。
嵐のようだった昨夜がうそのように静かな朝を迎える。 どこからか鳩の鳴き声。ぽっぽうぽっぽうと可愛い声。
そうして平穏に一日が始まることがとてもありがたくてならない。
新聞の折込にピザ屋さんのチラシがあった。 「照り焼きチキンピザ」なんて美味しそうなのでしょう。 どうしても食べたくなって11時の開店を待ちかねて注文する。
まだかなまだかな。待っている間はそわそわと落ち着かない。 庭に出てうろうろしたり路地をのぞいたりしながら待っていた。
やっと来ました。嬉しくて子供みたいな顔になっていたかもしれない。 Lサイズのピザを二人で残さず平らげる。ついでのビールもまた旨し。 お腹がいっぱいになってなんとも幸せな気分になってしまった。 節約ばかりの毎日だけれど、たまにはささやかな贅沢をしたいなと思う。
午後はあんのじょう眠くなりソファーに埋もれるようにお昼寝をした。 食べて寝てほんとうにだらしないのは今に始まった事ではないけれど。 それも至福のひと時とひとり勝手にうなずいている自分であった。
よっこらしょと起き上がればもう散歩の時間も近い。 昨日は大雨で行けなかったから今日こそはと元気に出掛ける。 胸をはっておいちにっさんし。歩くということはほんとに気持ち良い。
帰り道。土手にはちいさな子供たちが数人集まって遊んでいた。 何気なく近寄って行くとひとりの女の子が大声で泣き出してしまう。 最初は転んだのかなと思ったけれど、そうではなくて犬が怖いのだそう。
ごめんね。ごめんねと謝りながら大急ぎで他の道へと急いだ。 たまにはこんな事もあるのだけれど、ちょっと寂しい気分になった。
ずいぶんと遠回りをしてやっと我が家が近くなって来たと思ったら。 またさっきの子供たちと遭遇する。困ったな・・と戸惑っていたら。
なんと泣いていたはずの女の子が手を振っているではないか。 そばにはお母さんらしき女性が一緒に居てくれてほっとする。
ワンちゃんは怖くないよっておしえてくれたのかもしれない。
「ばいばい!」私も手を振り返してすごく嬉しい気持ちになった。
2011年10月21日(金) |
生きているということ |
朝からどしゃ降りの雨。 夕方から風も強くなりまるで嵐のような夜になった。
雨は嫌いではないのだけれど降り過ぎるとやはり怖くなる。 ちょうど良いくらいの雨というのもなかなか難しいものだ。
やまない雨はないという。そっとその時を待つしかなさそう。
朝の職場に思いがけない訃報が届く。 常連のお客さんが突然亡くなったという。 三日目前に来てくれたばかりだというのに。 なんということだろうとひどくショックを受けた。
いつも朗らかでにこにことした笑顔のひとだった。 ひとはこんなにもあっけなく逝ってしまうものなのか。 それは今まで何度も思い知らされてきた事だったけれど。 どうしてもすんなりとは受けとめられない事でもあった。
さびしいね・・・。うん、寂しいねと母とつぶやきあう。
明日は我が身かもしれないと思うと生きている事が奇蹟にも思える。 それは若い頃には思いもしなかった今だからこそ言えることである。
ねえ新しい本を買ったの。お昼休みに読んでみない? 母から手渡されたのは100歳の詩人柴田トヨさんの第二詩集であった。
読みながら涙があとからあとからあふれてくる。
生きているということはこんなにも優しくなれるということ。
生きているということはこんなにもあたたかくなれるということ。
そうしてたくさんの勇気を人々にとどけられるということ。
秋晴れの日が続いていたけれど今日は曇り日。 明日は雨になるのだろうか夜風が少し湿っぽい。
朝の山道を行けば毎年楽しみにしている銀杏の木が。 ほんの少しだけ色づき始めていた。緑を透かすような。 淡い黄金色。まるで光の粒子が踊り始めたように見える。
日に日にそれは変わっていくことだろう。 朝の道の楽しみがひとつ増えたようで嬉しい。
仕事を終えての帰り道。四万十大橋を渡っていたら。 歩道に人がたくさんいて何事かとスピードを落とす。 するとびっくり。そこに純白のドレスを着た花嫁さんがいた。 まるでフランス人形のように可愛くて美しい娘さんだった。
写真撮影をしていたようで青空だったらどんなにか映えるだろうに。 けれどもきっと良い記念になり素晴らしい晴れの日になった事だろう。
思いがけない光景に私のこころも弾むようだった。 帰宅するなり彼に報告したのは言うまでもない。 見せてあげたかったなとつくづく思ったことだった。
そうしていつもの散歩道。風に吹かれながら土手を歩く。
なにも考えることがなかった。とても平和な時間に思える。
お大師堂で手を合わす。ありがとうございましたと手を合わす。
あちらこちらにセイタカアワダチ草が咲いて。 その鮮やかな黄色に目をうばわれるこの頃だった。
花粉症の原因になるらしく嫌う人も多いけれど。 私には嫌う理由もなくむしろ好きだなと思ったりもする。
こんなことを言ったら花粉症の彼に怒られてしまうから。 これはここだけの話。どうかないしょにしておいて下さい。
さて。今日も散歩から帰ったら庭に息子のクルマが。 メールをしてくる時もあれば突然に帰って来る時もある。 それで良いのだなと思った。そんな気まぐれが嬉しくもある。
先日はおでんがたくさんあったけれど、今日はご飯さえ足りない。 お急ぎコースでご飯を炊いて、おかずは質素な物ばかりだった。
こんな物しかなくてごめんねって言うと。 ご馳走じゃないか!と言ってくれる息子。 なんでも美味しいと言ってくれて母はとても嬉しかった。
仕事で疲れているだろうに今日は愚痴もこぼさず。 父親と冗談を言い合っていたり母もにっこりと笑った。
ほんとうに嵐のような子で、今日も食べ終わるなりすぐに帰って行く。 気をつけてね!追いかけるように玄関まで行き息子を見送った。
その後がちょっと愉快。 犬小屋に晩ご飯を持って行った私は「あんちゃんご飯よ」って言うべきところ。
「しんちゃんご飯よ」って思わず息子の名前を呼んでしまったのだ。
可笑しくってひとり笑った。笑いすぎてちょっと涙が出ちゃった。
散歩道の河川敷を歩けば 栴檀の木に可愛い緑の実がたくさんなっていた。 もうそんな季節になったのかと感慨深く見上げる。
川面は夕陽を間近にきらきらと眩しい。 さらさらと流れる水の音も耳に心地よかった。
俯き加減に歩いていたけれどすくっと胸をはる。 自然の恵みがこんなにあふれているのだから。
今日は午前中病院へ行ったり。 パソコンショップへ行ったりと慌しく過ごす。 病院は定期的なもので特に変わったこともなし。 血液検査があって自分の血を見た時どきどきしたくらい。
パソコンショップへ持って行った愛機はというと。 これも異常なく、なんとマウスが壊れているだけだった。 お店の人と大笑いをして新しいマウスを買って帰る。 昨夜は心配ではらはらとしてしまったけれど。 今夜はこうして無事に日記を綴る事が出来る。 少々ネット中毒気味なので良い薬になったかもしれない。
日が暮れてから姑さんの家の仏壇にお線香をあげに行く。 今日は彼の父親の命日であった。もう30年が経ったのか。 なんとながい歳月が流れてしまったことだろう。
57歳で逝ってしまった義父。生きていればとその歳を思う。
ながいこと私たち家族を見守ってくれてありがとう。
おかげで今日もみんなが平穏無事でいられました。
今朝はなんともなかった愛機が突然動かなくなりました(汗)明日修理に持って行きます。早く直ると良いのですが、まともに日記書けなくてごめんなさい(涙)ケイタイからお知らせでした。
素晴らしくよく晴れてさわやかに心地よく風が吹く。 家に閉じこもってばかりいるのがもったいないような一日だった。
先日友人達と出掛けてから一週間が経ったことになる。 そのことがもう懐かしく思えてくる。夢ではなかったかと。 そう思えるほど自分にとってはとても貴重な一日だったのだろう。
午後少しだけ川仕事。川船で風に吹かれるのがとても気持ちよい。 海苔網を張りながらどうか順調にと祈りつつの作業だった。 毎年のことだけれどふと不安になることも多い。 博打みたいなものだよと彼は言うけれど、もっと気楽にいたいものだ。
いつもの散歩道。お大師堂では白いお髭のお遍路さんと出会った。 もう何度も巡礼をしている様子。日焼けした顔と髭が印象的だった。 ほんの少し話しただけで別れたけれど、またきっと会えることだろう。
そうして今日も暮れて行った。平凡であり平穏な一日である。
そんな一日に感謝をしながら眠りにつきたいと思う。
追記:小学生時代からのペンフレンドが最近ブログを始めました。 今はもう手紙のやり取りをすることもなくなったけれど。 こうしてネットを通じてふれあうことが出来て嬉しいです。 毎朝ブログを読ませてもらって、すごく身近に感じています。
まだ一度も会った事のない彼女と毎朝会っている私です。
もし良かったら是非みなさんも読んであげて下さいね。
http://ameblo.jp/wish-coming88/
玉子を早目に茹でておいてお昼におでんを仕込んだ。 二人分だと言うのに土鍋からあふれるほどのおでん。
弱火でことことと一時間くらい煮てあとは滲みこましておく。 これで晩ご飯の支度をもうしなくても良い。楽チンの気分だ。
家中におでんの匂いが漂う。なんとも美味しそうな匂い。 そんな匂いを楽しみながら茶の間でうたた寝をしていたら。 息子から「晩飯食べさせてくれよ」とメールが届いた。
「もう出来てるよ」と返信しながらくすくすと可笑しくなる。 たくさんのおでん。二人より三人のほうがずっと美味しそうだ。
そうして楽しく三人でおでんを食べる。 いつも疲れている息子が今日は元気そうでほっとした。
どんな日もあるものだ。はらはらと心配をしてみたり。 そうかと思えば今日のように笑顔でいてくれたりする。
どんな日があっても父と母は決して変わらない。 いつだって包み込んであげたい気持ちでいつもいるのだから。
じゃあね。またおいでね。今日も手を振って息子を見送った。
すっかり暗くなった路地をクルマのテールランプが見えなくなるまで。
朝からの雨が降りやまず時折りどしゃ降りの雨。
峠道で追い越したお遍路さんのことが気にかかっていた。 若い女性だった。雨の日の歩きはどんなにか辛い事だろう。
せめて声をかけてあげれば良かったといつも後から悔やまれる。 かといって雨がやむわけもなくなんの力にもなれないのだけれど。
いつも元気をいただくばかり。恩返しをしたいものだとつくづく思う。
仕事は今日も来客が多く慌しく時間が流れる。 いつもより少し遅く帰宅。たまにはそんな日もある。
散歩の時間になっても雨は小降りにはならず。 仕方なく今日の散歩は諦めてしまった。
犬小屋に晩ご飯を持って行くと。 あんずがめんどくさそうに顔を出した。 彼女は雨に濡れるのをとてもいやがる。 顔だけ出してドックフードを食べる仕草がまた愉快。
「おしっこ大丈夫?」訊いても返事があるわけもなく。 お腹が空いていたのかわき目も振らずがつがつと食べた。
そうして今日も暮れていく。あっという間にあたりが暗くなる。
特に変わったこともない平凡な一日だった。 それがとてもありがたいことなのだと最近よく思う。
夜が来れば焼酎のお湯割をちびりちびり。 平穏を肴に飲めることもまたありがたいことだった。
ぽつねんとしていてちっぽけな自分だなと思うけれど。
今日をここに記す。生きている限りそんな自分でありたい。
朝のうちほんの少しだけ雨が降る。 しっとりと潤った空気がなんともいえず好きだ。
山里へと向かう道。団体の歩き遍路さんと遭遇する。 バスツァーだろうか。少しの距離だけ歩くのらしい。 そういうのも良いなって思った。それなら私も行けるかも。 単独ではなかなか思い立てないで今に至っているけれど。 いつかはきっと叶えたい。私もお遍路さんになりたかった。
いつか。その言葉は若い頃とはずいぶんと違ってきこえる。 いつかいつかと言いながらどんどんと歳を重ねてしまうから。
そうして諦めてしまうのはあまりにもくやしい。 だからどんなに歳をとっても「いつかきっと」と言い続けたい。
ついつい焦ってしまったり弱気になることが多いこの頃。 物事を前向きに考えるのが少し苦手になった事に気づく。
でもそれではいけない。それではすべてがお終いになってしまう。
そんな人生にしてたまるものか。もっともっと勇気を出さなくては。
肌寒さもなくぽかぽかと暖かい日。
午前中に川仕事を済ませ午後はのんびりと過ごす。
昼下がり。今日が通院日だったサチコが顔を見せてくれた。 悪阻のせいか少しやつれたように見えたけれど。 懐かしいような笑顔がとても嬉しかった。
お腹の赤ちゃんはとても順調だと言うことでほっとする。 その写真とビデオを見せてもらったのだけど。 なんとも感動して胸がいっぱいになった。
ちゃんと頭がある。手らしきものも写っていた。 ビデオではすごく元気に動いている心臓もわかった。
ちっちゃな命。懸命に生きている命をこの目で確かめる。 それはなんとも神秘的で奇蹟のようなことに思えてならない。
「めっちゃ可愛いよね」を連発するサチコも微笑ましく。 この娘はもう母親なのだと信じられないような気持ちで私もうなずく。
出産予定日は来年の5月11日だと言うこと。
なんとしても無事にその日を迎えなければいけない。
見守ることしか出来ないけれど母は毎日祈っているよ。
がんばろうねサチコ。お腹の赤ちゃんも頑張っているよ。
金木犀が散り始めその香りが少しずつ薄れていく。 そうして秋が深まり季節は冬へと巡っていくのだろう。
毎日があっという間に過ぎていく。 いつもいつも背中を押されているように感じてならない。
だからこそ一日を大切にと思うばかりで。 あっけなく過ぎていく時を見送ってばかりいるようだ。
連休明けの仕事は少し多忙。忙しいのはとても好き。 心配していた母の体調も落ち着いているようでほっとする。 商売繁盛で平穏無事というのがいちばん嬉しいことである。
帰宅していつもの散歩。あんずは今日も元気いっぱい。 相変わらず草と戯れるのが好きで道草ばかりしていた。
私はちょっと急いでいる。だからはっと気づくことが多い。
もっともっとのんびりと歩けば良いのだなといつも思う。
たまには川辺に佇んでゆったりと流れる川を眺めてみたり。
秋らしく物思いに耽ったりする時間も必要ではないだろうか。
あんずが一緒でなかったら道草をすることも忘れているだろう。
ありがとうねあんず。母さんも今日はいっぱい道草をしたよ。
散歩道のススキと野菊が好きだ。 なんとも秋らしい風景に心が和む。
そうしてゆったりと流れる大河。 もしも何かに拘っているのだとしたら。 この川に流そう。そんな気持ちになる。
散歩から帰ると庭に息子のクルマがあった。
「今夜はお寿司だけど良い?」
「おぅ!それは良いな」
鰹でひっつけ寿司を作った。 高知の郷土料理で普通の握り寿司と違うのは。 鰹の切り身を酢に浸してから酢飯にひっつけるのである。 ワサビを効かしてちょこっとお醤油をつけて食べる。
息子は少し疲れ気味でため息をついていたけれど。 握ったばかりのお寿司を美味いなと言って食べてくれた。
元気な時もあればそうでない日もある。 けれども我が家に帰るのが気分転換になっているようだ。 そうして少しでも癒されるのならと父も母も願っている。
食べ終わるなりすぐに帰ると言う息子を庭に出て見送る。 いつもは玄関先で見送るのだけれど、今日は特別だった。
クルマに向かって手を振ると息子も照れくさそうに手をあげた。
どんな時もあるよね。しんどい時もいっぱいあるよね。
またいつでも帰ってきなさい。父も母も待っているから。
高校時代の親友達と久しぶりの再会。 別名『B型同盟』の四人組であった。
四人が揃うのはいつかの同窓会以来のこと。 そのいつかもいつの事だったか忘れてしまうほど。
10年一昔というけれどそれはほんとうにあっという間の事だった。 それぞれに年を重ねてほんの少し老いてしまったけれど。 会えば一瞬にして学生時代に戻れるのがとても嬉しかった。
四万十町窪川の道の駅で待ち合わせをして。 最近出来たばかりのホビー館へと向かう。
とても辺鄙な場所にあるフィギアを展示している施設だけれど。 なかなかの人気らしく県内外からの観光客も多いと聞いた。 思った通り狭い道にたくさんのクルマが押し寄せていた。
やっとのことで到着。わくわくしながら入場券を買う。 中に入れば見渡す限りたくさんのフィギアの数々だった。
みんな童心に帰ったような気持ちになりゆっくりと眺める。 ついつい足を止めてしまうのはやはり可愛い女の娘のフィギア。
楽しい時間はあっという間に過ぎてしまって。 けれどもとても充実した一日となった。
今度はいつ会えるのだろう。わからないけれど。
私たちはずっとずっと仲良しの親友である。
鉢植えの菊の花を買う。
黄色のとピンクのとふたつ。
なんだかすごくぜいたくをしたような。
けれども嬉しさのほうがそれにまさる。
花を買ったのはほんとに久しぶりだった。
うきうきとこころがおどるようなきもち。
そうしてちょっぴり誇らしいようなきもち。
なによりもこんなにこころが和むことはない。
つぼみがたくさんついた菊の花だった。
毎日すこしずつそのつぼみが開くことだろう。
それをわくわくしながら待つのも楽しみだった。
みんな見に来てくださいようって叫びたくなる。
おかしいね。なんだか子供みたいに誰かを待っている。
気温が25度を超え10月とは思えない夏日となる。 すっかり行ってしまったと思っていた夏が。 忘れ物を取りに帰ってきたのかもしれなかった。
それはいったいなんだろう。 一緒にさがしたくなって眩しい青空をあおいだ。
仕事は今日も少し多忙。あっという間に時間が過ぎる。 すっかり元気になっていた母の体調が気になっていた。 また足の痛みが再発したらしい。いったいどうしたことか。 気丈な母のこと顔には出さないけれど辛いだろうと気遣う。
みんなが無事にと毎日祈っているけれど思うようにはいかない。 心配事は絶えないけれどあきらめずに祈り続けたいと思う。
帰宅していつもの散歩道。 家を出てすぐにひとりのお遍路さんに出会った。 お大師堂に向かっているとのことで案内がてら一緒に歩く。 その歩調のなんと逞しいこと。あんずも顔負けの歩きぶりだった。
今朝六時に佐賀町を出てやっと四万十に辿り着いたとのこと。 クルマだとわずか30分ほどの距離が一日がかりなのだ。 民宿などには泊まらずずっと野宿をしているということ。 雨の日もありどんなにか辛いことだろうと思われた。
けれどもそれを少しも苦にしていない様子にほっとする。 毎日が挑戦であるかのようにそれを楽しんでいる様子だった。
一昨日のお遍路さんとその姿が重なる。彼も頑張っていることだろう。
決してひとりではない。そう伝えたい気持ちでいっぱいになった。
昨夜のうちに雨がやみ今朝は抜けるような青空。 日中の気温も高くなり昨日の寒さが嘘のようだった。
昨日はかなり興奮気味だったけれど。 今日はまた平々凡々と過ごすことになった。 そうそうサプライズはあるものではない。 そのぶん嬉しさが増すのが世の常だろう。
仕事は少し多忙だったけれど、手を休めて。 職場の裏庭に咲くコスモスをしばし愛でる。 青空を羽織ったように咲くコスモスのなんと可憐なことか。
いちばん好きな花は?と訊かれたら迷わず答えるだろう。 秋桜と書くその名の通り秋を彩る桜のような花が好きだ。
すこし昔のこと。その種をあるひとに送ったことがある。 あの種はどうなったのだろう。もしかしたら咲いているかも。 そう信じたくてならない。そうでなければなんだかかなしい。
音信不通のそのひとを想うことも忘れてしまいそうなこの頃。
あれからいくつめの秋だろうか。それさえも数え切れなくなった。
2011年10月05日(水) |
お遍路さん(その5) |
今にも雨が降り出しそうな空模様。 こころがしゅんとしぼみそうなのを。 ぷうっと息を吹き込むようにして出掛ける。
いつもの山道。今日はひとつの予感があった。 先日会えずじまいになっていたお遍路さんに。 なんとなく会えそうな気がしてならなかったのだ。
山里へと続く峠道は遍路道になっている。 毎朝かならず見かけるお遍路さんの姿に。 そのひとを重ねる。とにかく声をかけてみよう。 そう決めていつもよりゆっくりとクルマを走らせた。
一人目のお遍路さんを発見。勇気を出して声をかけてみる。 そうしたらなんとまさにその人が会いたかったお遍路さんであった。
縁がなかったのだと一時は諦めていたけれど。 この山道があったからこその縁なのだとあらためて思う。 どこかで繋がっていてくれたのだなと感謝せずにはいられなかった。
ネットの実況を毎日見ていて、はらはらと心配になる時も多かった。 けれども実際に会うそのひとはとても元気でたくましい青年であった。
苦難に立ち向かおうとする勇気。それをそのまま授かったように思う。 なんとありがたい出会いだろう。感動で胸がいっぱいになった。
立ち話をしているうちに雨がぽつぽつと降り始める。 おせっかいを承知でクルマに乗ることをすすめたら。 快くうなずいてくれて一緒に山里へと向かうことになる。
その間いろんなことを語り合う。なんとも親近感がわいてきた。 もっともっと語り合いたい気持ちでいっぱいになった。
お別れはとても名残惜しかったけれど。これも一期一会。
巡り会えたことをかけがえのない宝物のように思って。
これからの旅の無事を祈り続けたいと思う。
苦しい日もあるけれど嬉しい日もきっとあります。
負けないでがんばって下さいね!
この秋いちばんの冷え込みだということ。 きりりっとした肌寒さもまた心地よいものだ。
夜が明けるのを待ちかねるようにして。 早朝から川仕事に出掛ける。 これから海苔網の準備が少しずつ始まる。 網が緑に染まれば順調に進むことだろう。
山里の職場を休ませてもらったおかげで。 ゆっくりと買物に行ったりのんびりと過ごす。
娘のサチコが勤める雑貨屋さんにも行ってみたけれど。 今日は遅番だということでまだ出勤していなかった。 電話をしてみれば少し不機嫌でしんどそうな声だった。 朝は特に悪阻がひどいようでとても心配でならない。 かといって代ってあげることも出来ず励ますしかなかった。
帰宅すると夜勤明けの息子が来ていてこれもしんどそう。 ソファーに埋もれるように寝ている姿におろおろとする。
ふたりのこども達はそうして日々を乗り越えている。 どうか元気にどうか無事にと祈ることだけが母の役目のように思う。
嬉しかったのは息子が妹の事をとても気遣ってくれたこと。 仕事で重い物を持ったりしていないか、悪阻は大丈夫か。 絶対に無理をさせてはいけないぞ。大事な身体なんだから。
幼い頃からケンカひとつしたことのない兄と妹だった。 おとなになってもお互いをいたわる気持ちを大切にしてくれる。
そんなふたりに育ってくれたことが父と母の幸せにほかならない。
おにいちゃんありがとうね。母さんとても嬉しかったよ。
すっきりとしない空模様。一日中肌寒さが続いた。
山里は今日も金木犀の香りが漂う。 息をするのがこんなに心地よいことはない。
散り急ぐかもしれない花をとても愛しく感じた。 いちめんに敷かれたオレンジ色が目に浮かぶとせつない。
仕事は来客多し。世間話をするのも仕事のうちで。 手を動かしながらではなく顔を見ながら話すように心がけている。 高齢者のお客さんが多いけれど、聞き流すことは決してしない。
昔話も聞いているとすごく心を動かされることがる。 苦労話もしかり。その人の人生を垣間見るような気持ちになる。
これも一期一会なのだなとつくづく思ったりする。 縁があってこそのお客様なのだと感謝せずにはいられない。
笑顔と笑顔で語り合って。クルマを見送る時には深々と頭を下げる。 そのたびにまた来てくれたら良いなってつくづく思うのだ。
そんないちにちはとても清々しいきもち。 仕事が嫌でたまらなかった頃もあったけれど。 いまはそれがすごく遠い昔の事のように思える。
きっとこのままで良いのだろう。この先もそうでありたい。
人生良いことばかりでは決してないけれど。
笑顔でいられたいちにちを宝物のように思って頑張っていこう!
2011年10月02日(日) |
お遍路さん(その4) |
北の地ではもう初冠雪があったという。 なんとつかの間の秋なのだろう。 忍び寄る冬の足音が聞こえたような気がした。
南国高知も今日は肌寒い一日となる。 日に日に秋が深まっていくことだろう。 背中を押されるように日々が流れていく。
今日は朝からずっとひとりのお遍路さんを待っていた。 けれどもよほど縁がなかったのだろう。 とうとうその姿を見ることも出来ず日が暮れる。 ネットの実況は今後も続くことだろう。 ひたすらエールを送り続けたいと思う。
あえない人には会えずあえる人には会えるのが縁。
お大師堂でお経を唱えていると鈴の音が聞こえた。 そうして後ろを振り向くと顔見知りのお遍路さんが微笑んでいた。
前回会ったのは八月の末。残暑の厳しい日だったと記憶している。 何か事情がありそうで名を聞くこともせずにいたけれど。 今日は納め札を頂き、そのひとが山梨の人だと初めて知った。
奥様を交通事故で亡くされたのだと言う。 ある日突然のこと。どんなにか辛い思いをしたことだろう。 そうして供養の旅。もう17回目の巡礼だと言う。
その間一度も山梨には帰ることなくひたすら歩き続けているとのこと。 嫁がれた娘さんが二人いて時々は電話しているんですよと笑っていた。
その微笑のかげに背負っている痛みの大きさを感じずにいられない。 供養の旅であるとともに癒しの旅であってほしいと願っている。
旅をしながらこんな物を作っているんですよ。 それを私にあげたかったのだと言ってビース細工の花をもらった。
今日も会えそうな気がしていたからって言ってくれて。 私には思いがけない再会だったけれどとても嬉しかった。
またきっと会いましょう!それが合言葉のようになる。
身体に気をつけて元気でいてくださいね。
天国の奥様もずっとずっと見守っていてくれますから。
とうとう10月。秋晴れの穏やかな一日となる。
どこに出掛けるわけでもなく家の中にこもりっぱなし。 なんとも無意味な時間を。それでも愛しく感じたりする。
平凡と平穏は似ている。つまらないようでいてそれがありがたい。
散歩道を行けば川沿いにたくさんの白い彼岸花。 それは自然に群生しているのではなく。 あるひとが何年かかけて植えたものだった。
ご主人が亡くなりどんなにか辛かったことだろう。 そのご主人が川船を繋いでいたあたりの河川敷に。 少しずつ白い彼岸花が咲き出し数年が過ぎた秋だった。
亡き人を想うきもち。それがそのまま花になったように思う。
その花が咲くたびに胸が熱くなる。亡き人を私も思い出す。
お大師堂で手を合わす。平穏な一日をありがとうございましたと。 そうしてみなが無事に明日を迎えられますようにと祈る。
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