夕陽に向かってひたすらてくてくと歩いてみたいなと思うだけ思って。 ものぐさな猫のように窓辺に居場所を確保している。ここはとても静かだ。
窓から見えるのは暮れなずむ空と。少しばかり老いてしまったチガヤの綿色。 そしてかたわらに清楚なのは若き姫女苑の花。刻々と迫るものに動じもせず。 それらはゆっくりとその映像に幕を下ろし始めている。息をしてはいけないと。
誰もそうとは言わないけれど。思わず息を止めて静止画像にしてしまいたいほどだ。
そしてとうとう逆らえずに幕が下りきってしまう。その瞬間がとてもせつない。
おわったっていつもおもう。
このところサチコは。仕事がお休みのたびにアウトドアばかりに励んでいる。 地元のタウン誌の取材とかで。先日はサーフィン初体験。そしてカヌーも初体験。 今日は『木登り』だったらしい。いったいどんな木に登ったのだろう?キニナル。
そして明日は。これも初めてのダイビングだそうだ。大丈夫なのかほんまにそれは。 サチコもちょっと緊張している。母も実のところ心配でならないのだけれど。
サチコはやるだろう。いざとなれば好奇心と度胸で挑戦してくれるだろう。 さすが私の娘である。もしかしたら病みつきになってハマってしまうかもしれない。
『柏島』の海は。なんというか不思議とエメラルドグリーンなのがとてもいい。
海と。川と。山と。空と。風と。サチコ。私には好きなものがいっぱいある。
2007年05月30日(水) |
オヤスミナサイあなた |
紫陽花が咲き始めた。まだその花の絵の輪郭をなぞり始めたばかりのようで。 お好きな色にどうぞと微笑みながら。実はもう自分自身の色を決めているらしい。
それは日に日に。今日よりも明日だから。わくわくとしながら色づくのを待つ。 そのくせ私は純白の紫陽花を好む。無垢な姿に憬れてしまう。彼女というひとは。 穢れも知り汚濁も知り。痛みも辛さも儚さも。もうすでに知っているかのようだ。
だからあえて白く咲く。その白さは言葉では言い表せやしないほどせつない白だ。
もうなにも求めてはいないと彼女は言う。出来ることならば私も真っ白く咲きたい。
今夜はすごくすごく汗をかいた。そのことはやはり発散というのが正しい。 ぷちぷちと何かが粒になって空中に逃げるのを見た。見失うくらいに散って。
私はとても軽くなった。だからいまはとてもご機嫌がうるわしいのだ。 ビールをごくごくすぐに缶は空っぽになって。焼酎のお湯割のおかわりをした。
だから。かなりへろへろとしている。なんかこの世は素晴らしく天国のようだ。 このぶんだと。天国の階段を踏み外してしまうかもしれない。でもそれも愉快。
朝になればタンコブだらけっていうのも笑える。骨折してたらもっと笑ってやろう。
正直言って。へろへろだから。なに書いてるのか自分でもわからん。
わからんけど。これがいまだから。どうか一緒に笑ってくださいませんか。
笑いながら眠って。どうか一緒に天国へいきましょう!オヤスミナサイあなた。
2007年05月29日(火) |
わたしがわたしを疑うときに |
ひさしぶりに雨にあう。しばらく渇いていたものだからすこしだけ。 しゃんとする。いろんなことが濡れた。たとえば深く考え過ぎていたこと。
いちど濡れてしまえば滲んでしまう。何て書いてあるのか解らない言葉みたいに。 それはこのさき乾いたとしても。もう読めはしないだろう。私は忘れてしまえる。
あんがいとそれは心地よいことだ。濡れた思考回路に火は点かない。
また日常がひとつひとつ重なっている。
穏やかさを見失わないでいてほしい。と誰かにそう願ってみたりしながら。 山はたくさんあるけれど空はひとつだからと。誰かにそう伝えたりしながら。
いつもわたしは誰かといっしょに歩きたがっているようだ。
さきへ先へとひとり進むことが。ほんとうはこわい。私は臆病者に違いない。 かといって手を繋ぐのを好まず。ただたんに強がってみせているだけではないか。
だからときおりものすごく自信がなくなる。 この道でいいのか。このままでいいのか。あれでよかったのかと過去さえも思う。
穏やかさを見失ってしまうと。なにもかもが喧騒に聞こえる。 ざわざわとヒトが動く。犬が無駄吠えを繰り返し。近所の幼女がピアノを連打する。
空はたしかにひとつだ。青くても広くても灰色でも雨でも嵐でも。ひとつきりだ。
あるひとが言った。きょうわたしはそれをいただくことが出来た。
「自信たっぷりのことこそ信じられない」
それはヒトであったり文章であったり。そして目に見えないカタチであったり。
道に迷い不安がるからこそ。すすめる道があるのかもしれないと思う。
穏やかさを見失ってもかまわない。そのことに気づく事ができればそれでいい。
山は幾つでも越えよう。見上げればいつも空がある。決して独りきりではない。
ぽっかりと。静かな時間が贈りものみたいに届けられて。 たいらにたいらにしながら。横たわってばかりいたのだ。
誰も背中を押さない。誰もうるさく話し掛けてもこない。 ふとこれは間違いなのではないかと思うほど不自然なことを。
受けとめるにはすこしばかり時がひつよう。 なんだかカラダは催眠術にかかってしまったかのようで。 あなたはねむくなるどんどんねむくなると声ばかりきこえる。
村上春樹の『海辺のカフカ』を読みながらすいこまれるようにソコにいく。 猫と。とてもたいせつなことを話す。明日はもう話せないかもしれないこと。 記憶を積み重ねようとしながら。その記憶が薄れていくのがコワイなと思う。
ココハドコダロウと不安がる。ここにいてもいいのかとギモンが生じてくる。
そうして夢をみた。ながいながい坂道をひたすら空に向かって歩いていた。 背中になぜか彼を背負っている。彼はすこしも重くない。肩に手が温かい。
すれ違う見知らぬ人たちがみな微笑んで会釈をするので。私もにっこりと。 微笑返しをしながら。もうすこしでどこかに辿り着きそうな予感がしてくる。
空がとてつもなく広い。もしや鳥になろうとしているのかもしれないとも思う。
そしてそこでふと立ち止まってしまったのがいけなかった。見てはいけないものが。 そこらじゅうに灰色のかたまりになってそびえていたから。私は硬直してしまう。
踵を返す。この道は間違っていると初めて気付く。彼は眠っているのだろうか。 どうしていけないと教えてくれないのだろうか。いつもの彼らしくないではないか。
坂道を転げるように走った。とにかくもとの場所に帰らなくてはいけないのだ。
「ごめんね・・ごめんね・・」と涙が泉のように溢れ出てくる。
夢からかえる。今日はこんなにも清々しい風だとレースのカーテンがいう。
わたしはふたたび猫をさがしにいった。
2007年05月24日(木) |
それがかれのやさしさ |
先日ななつの子たちが無事巣立ったばかりのツバメの巣に。 また仲良く二羽が戻って来て。今朝から卵を抱いている様子。
ほのぼのとこころ和む朝だった。私よりも彼の方が嬉しそうで。 微笑みあっていると。このひとはほんとうにお釈迦様のようなひとだと思う。
歳のせいかもしれないけれど。このひとはいつのまにかすごく穏やかになった。 苛立っている顔をこのところずっと見たことがない。いつもにこにことしていて。 誰かを憎むわけでもなく。何かに憤慨するでもなく。すべてを赦しているかのようだ。
でもちょっとだけ『朝青龍』に怒っている。今日は負けたので手を叩いて喜んだ。 私も同じキモチで「つけ〜やれ〜もっと押せ〜!!」と千代大海の応援をした。 そして夕食が盛り上がる。晩酌もグイグイやる。彼が嬉しそうだと私も嬉しい。
不思議だなっていつも思う。それはこうして今みたいに独り部屋にこもっている時。 いつから彼はそれを認めてくれるようになったのだろう。嫌味のひとつも言わずに。 詮索もせず。そしてここを私のお城であるかのようにそっと守ってくれている。
一歩たりとも踏み込む事もしない。ひたすら無関心を装ってくれているようだ。 どんな本を読んでいるのか。誰にメールをしているのか。なにを書いているのか。 興味がないと言ってしまえばそれまでだけど。私にはそれが本当にありがたい事だ。
むかし。これはもうとっくに忘れてしまえばいいことのひとつだけれど。 まだ私に部屋というものがなかった頃。家事を終えたつかの間の時間に。 ノートに詩のような日記のようなものをずっと書き綴っていたことがあった。
それは書き終えると押入れの中に隠しておいたのだけど。ある日偶然彼が。 それを見つけたらしかった。だけどすぐにはそのことを言わずにいて夜になり。 「ちょっとここへ座れ」と日本間のその座敷に。私は正座をさせられたのだった。
彼は私のノートを手に持っていた。そして私の目の前でそれを無惨に引き裂いた。 「こんなもの!こんなもの!」と叫びながらものすごい剣幕でそれは憎そうな顔で。
そうして「書くなら金になるものを書いてみろ!」と言った。 「そしたらゆるしてやる・・・」と最後はか細くてとても辛そうに言った。
それはほんとうにむかしのことだ。 私は・・書けないのなら死んでしまいたいとさえ思った。
でも死ねない。それはかつて死ねなかったのとおなじ理由かもしれない。 『逃げる』とはそういうことではないだろうか。逃げたらそこでお終いだもの。
その後の私はどうしていたのだろう。なんだかそこだけ記憶が欠落している。 気がついた時には。就職した息子がパソコンを買ってくれると言ってくれて。 ちょうどその頃。賞金50万円の文学賞の応募が迫っていたことを憶えている。
わたしはひたすら書いた。今思えば頭のなかには「お金・・お金・・」だった。 これで彼に認めてもらえる。これさえ上手くいけばもうこわいものなんかない。
コレナラヤブレナイ。私は思っていた。PCの操作も知らない彼に何が出来よう。 これで思い知らせてやるとさえ思った。彼の事をひどく憎んでいたのかもしれない。
なんて浅はかなことだろう。それなのに家族はみなそっと見守ってくれたというのに。
感謝の気持ちなどこれっぽっちもなかった。それが私の『驕り』というものだろう。
そして当然のことのように50万円は5百円の図書カードになった。 だけど誰もそれを咎めはしないのだ。母さんおつかれっと言ってえらかったねって。
そしてゆるしてくれたのだ。わたしが私の部屋をもつこと。私が書くということ。
わたしはそれっきり小説を書かない。 そうして詩らしきものからも少しずつ遠ざかっていった。
家族からいただいた部屋と。こうしてさずけてもらった時間を。 ただひたすらありがたく思う。このうえなにを望むというのだろう。
彼は何もいわない。それが彼の優しさであることを。いまはもう知っている。
2007年05月22日(火) |
きもちよくながれていく |
からりっときもちよく晴れる。空のようにいつもありたい。 そうしてどんな風も受けとめられるように寛大でありたい。
『今日も素敵な日でありますように』と毎日願ってくださるかたがいる。 わたしのこの拙い日々の詩記にそっとリンクを貼って下さっているのだ。
ほんとうにありがたいことだといつも感謝している。 きもちよく流れていきたいといつも思う。どんな日もあるけれど。 いちにちの終わりには。ああいい日だったって心からそう思えるように。
日々はこころのアルバムのようなものだ。 やがてセピア色に変わってしまう時もくるけれど。 どうしてそれを破り捨てることができようか。
気に入らないじぶん。背伸びして無理してるじぶん。 ちょっと汚れていたり。欲ばかりが目立っていたり。 いちばんひどいのは。じぶんに同情している姿だったりもする。
だからといって目をそらしてはいけない。忘れてはいけないのだ。 そんなじぶんさえ愛しいと思える日がきっとかならずくるのだから。
ひとはどうしてか。辛いこと嫌なことばかり憶えていてしまうから。 すごく嬉しかったことや。とても感謝したことをすぐに忘れてしまうから。
こうして書き残す事が出来るのが。幸せなことだなとつくづく思う。
そうそう。今日は『毒痛み』(どくだみ)の花を見つけたのだった。 緑の葉はハートのかたち。花は白い十字架のようで好きだなって思った。
あしたもきっとおだやかに。きもちよくながれていけそう。
いまは夕暮間近。空は茜色に染まってはくれずに。獣みたいな雲が三匹もいる。 どんな日もある。こんな日もきちんといちにちが。もう少しで夜が降ってくる。
サチコの帰りを待っている。トンカツにラップをかけて待っている。 なんだか今日は無性に親子漫才をしたい。ふざけあってどついたりして。 けらけらとおなかを抱えて笑いたい。そうして笑いすぎて泣いてしまいたい。
なんか変だ。わたしは変だ・・・。
窓の外もなんだか変だ。だって秋の虫みたいな鳴き声が聞える。 気のせいかな耳鳴りかなって。耳を澄ませているけど。どうしても秋の虫だ。
そしてどんどん暗くなる・・・。
あっ。誰だろう?口笛を吹いている。あれは犬を呼んでいる声のようだ。 逃げまわっているのかな。もう晩ご飯の時間なのにおなか空かないのかな。 ちゃんと言うこと聞かないと後で叱られてしまうのに。はやく。お帰りよ。
逃げてる。どんどん逃げている・・・。
ばかだな。逃げれば逃げるほど。自由は遠くなるのかもしれないのにさ。
でもね。時々は愚かなのがいい。
逃げてしまえたらどんなに楽だろうって。ふっと真剣に思う時が私にもある。
2007年05月19日(土) |
ほっと。そっと。ふっと。はっと。 |
午後七時。ゆっくりと暮れようとしている茜色の空を見ていた。 ひとり窓辺に佇んでいるとなんだかそこはひとつの絵のようでもある。
見知らぬ誰かが風のような絵筆で夕陽を描く。その風さえも茜色に染めて。 もうお終いとちいさく吐息をもらしながら。いちにちを暮れさせていくのだ。
そして私は。もうそんなになんどもネジを巻かなくてもよくなって。 ちょっとだけ放心をしつつ。いただいた『時』にしみじみと心地良く酔っている。
昼間。庭に出て植木蜂の花の手入れなどする。大好きなキャットテールが。 今年も可愛らしくその紅い尾をふっくらとふくらませてくれたのが嬉しい。 ほんとうに猫のしっぽのよう。そっと手で触れては心がほのぼのと和んでくる。
そして。愛犬をお風呂場まで抱いていって。久しぶりにシャンプーをする。 いつも吠えるたびに叱ってばかりで。ちっとも触れ合うことをせずにいたから。 そうしてカラダを撫でていると。不思議とか弱くて愛しさが込みあげてもくる。
あくせくと。もしかしたら苛立ってばかりいたのかもしれないと省みながら。 何か落度がありはしないか。投げ遣りではなかったか。疎かではなかったか。 自信半疑に思えばきりがないのだけれど。少しは自分を赦してもあげようと。
そのきもちにすくわれたように思った。それはほんとうにふっと。
じゅうぶんなこと。せいいっぱいなこと。だいじょうぶだからきにしないでいようね。
一昨日。つばめのななつの子供達が無事に巣立った。 もうそれはそれは上手に羽ばたいていて。一羽二羽とあたりを旋回している。 5羽までは数えることが出来た。同じコースを飛びながら何度か巣の近くまで 戻って来ては。「ほら見て見て」って得意げな様子を見せてくれたりするから。 あとの2羽はどこなのかよくわからない。路地の上空にはたくさんのつばめ達だ。
ほっとしたのと嬉しいのとで。なんだかほのぼのとして幸せだなと思う。
ちいさな生きるものたちに。今年も希望を勇気を頂いたありがたい季節である。
そんな初夏の恵みのなか。一生懸命励んできた家業の川仕事も残りわずか。 やっと今週末には終えられそうになった。長かったような疲労もあるけれど。 いまはそれよりも達成感で満たされている。おおきな山を越えたような気分。
登る坂道はほんとにしんどかった。この道が好きなのかと何度も自問自答しては。 投げ出してはいけない。辛いと思ってはいけないと。戒めながらずっと歩いて来た。
だけど今年は心から好きだと思えたのではないだろうか。しんどいけど好きだって。 そう思うと。ほんとうにながいこと葛藤ばかりを抱いていたのだとわかる。
口ではいくらでも言える。頑張ってますよって強がりも。天職ですからと生意気も。 かっこつけてるんじゃないよって。ほんとは誰かに言って欲しかったのだから。
おおきな山を越えてみると。ほんとうに清々しい風にあえる。
そんな風が愛しくてならないから。またその季節にあいたくなる。
風が薫るその草原で。まいとし咲く野の花のように生きてみたいものだ。
きらきらと眩しい。なにもかもが光のなかで息をしているように思う。 ちっぽけなことも。どうしようもないことも。お陽さまに溶けていく。
今日はスミちゃんの誕生日だったから。いちねんぶりにメールをした。 もう何年も会えないでいるけれど。いちねんはいつも大急ぎでやってくる。
スミちゃんはずっと昔。転校生だった私にとても優しく声をかけてくれた。 休み時間に廊下の窓からぼんやりと外を眺めていたら。すたすたすたっと。 真っ直ぐに歩いて来たのだ。同じクラスではなく隣りのクラスから出て来て。 にこにこっと微笑んだ。「ねえ、一緒にソフトボールしない?」て言ったのだ。
私は咄嗟に断ってしまったというのに。スミちゃんはちっとも不機嫌ではなく。 休み時間のたびに私に会いに来てくれた。そうしてすぐに私達は仲良しになった。
放課後。ソフトボールをしているスミちゃんを窓からずっと見ていた。 運動神経がとても良さそうで。逞しくてかっこいいなあって思いながら。 私はどうしても入部する気にはならなくて。見ているだけが楽しみとなった。
そして間もなく。わずか一学期のみの在学で。また転校していくことになったのだ。
家庭の事情というのは。結局は親の都合に他ならず。子供は何処へだって行くべきで。 せっかく仲良くしてくれた友達とも。やっと慣れ始めた土地ともさよならとなる。
親というものはほんとうに身勝手だと思った。そしてとうとう大切な家族が壊れた。
だけど。今思えばそのおかげだろう。私はまたスミちゃんのいる町に帰る事が出来た。 そして前よりもいっそう仲良しになることが出来たのだ。ふたりとも恋をしては。 あの逞しいスミちゃんさえも時々は涙を流すこともある。赤ちゃんはどうしたら。 出来るかを教えてあげた時のスミちゃんは。すごいショックでおろおろと泣いた。
先輩に浜辺に呼び出されたていきなりキスをされた時だ。子供みたいに泣いては。 どうしよう、赤ちゃん出来たらどうしようって。真っ先に私の家までやって来た。
だいじょうぶだよスミちゃん。キスくらいでニンシンはしないから。 だけどちっとも安心はしなかった。もっとすごいことを私が教えてしまったから。 そんなことはぜったいに嫌だと言った。どうしてそんなことするのかと泣き続けた。
そんなスミちゃんも。今は三人の子供の母親になり、もうお孫さんもふたりいる。 私達はお互いに。まるで運命のような『おとなの階段』を上り詰めてしまったらしい。
だけど少女だった頃のスミちゃんは。いつまでも私の記憶から消える事がなかった。
だからね。いつまでも忘れないでって。毎年の今日という日を大切にしている。
スミちゃんの泣き顔を知っているのは。私だけかもしれないなって思う。
初夏のようであったり。まだ春のようでもあったり。 まいにちが風まかせで。雲のように流れていくばかり。
ちちちちちっと一斉に鳴き声をあげているのは我が家の子つばめたち。 なんと今年は七羽も育っていて。小さな巣のなかで重なりあうようにしている。 親つばめはそれは忙しそうで。とにかく餌をとせっせと子育てに励んでいる様子。
やはり。だからなのだ。先日の哀れだった一羽のひなは本当に致し方なかったと。 あらためて思う。このうえ八羽となればとうてい巣には入りきれなかっただろう。
家主である私達はいちにちに何度か、こうして巣を見上げるのが日課となった。 サチコは落ちてしまったひなが死んでしまったことを知らされていなくて。 「あの子もちゃんとここにいるよね」ってとてもほっとしているのだった。
あの日、父親である彼がサチコにちいさな嘘をついた。 「お父さんがちゃんと巣に戻したから大丈夫だぞ」って。
いまはだから。その七つの子たちが無事に空へと飛立つ日を心待ちにしている。 きっときっと嬉しくてならないだろう。ちいさなのが精一杯に羽ばたくのって。
勇気みたいな希望みたいなのがいっぱいあふれてくるのだから。
2007年05月10日(木) |
そんな風にあおられて |
夜明け前まで降っていた雨がやみ。陽が昇ると突風のような風が吹き荒れる。
そんな風にあおられて。折れもせずしなやかに踊り続けるのは土手の茅花。 『つばな』と呼ぶらしい。ねこじゃらしに似ているがもっと柔かで白い穂である。
むかし子供だった頃。それを食べたことがある。 誰ともなく「これ甘いよ」ってことで。みんなそれを「甘いガム」だと言った。
線路で遊んではいけないといつも言われていたけれど、ついつい行ってしまう。 その当時はまだSLの時代で、私達はその勇ましい姿をすぐ間近で見る事が出来た。
終着駅だったその山村のちいさな駅のことを。今でもふっと懐かしく思い出す。
甘いガムは線路沿いにそれはたくさん群生していた。 ちろちろとかわいらしくいつもそこで揺れていたのだった。
かっぱえびせんもポテトチップスなかった頃。それがおやつ代りだったのか。 そうでもなかったはずで。たぶんそれは初夏恒例の楽しみのひとつだったようだ。
子供の頃にはほんとうにそんな楽しみがいくつもあったのだなあって思う。 春のレンゲの首飾りや。白詰草のお姫さま風の花冠や。蒲公英の綿毛の飛ばしっこ。
季節ごとに恵まれて。季節と戯れつつ。季節をどれほど愛しく思ったことだろう。
おとなになるとずいぶんと忘れてしまうことが多くなる。
季節はただ流れているとさえ思ってしまうこともある。
茅花は。ほんとうに甘いガムだったのか。ふと確かめてみたくなった。
今日はとても暑かった。真夏日で最高気温が31℃もあったそうだ。 もう夏なのかな。なんだか季節ばかりがどんどん先を急いでいるように思う。
おけげで川仕事のあとちょっとくたばってしまった。 畳にそのままごろんとなって夕方まで寝入ってしまっていた。
むしょうに冷やし中華が食べたくてならない。 三食それで3日続いてもだいじょうぶなくらい冷やし中華が好きだ。
いろんなものを載せて食べる。シーチキンのも美味しい。 今日は定番の胡瓜と卵とハムにトマトのスライスをたっぷり載せた。
野並君ちのトマトが美味しい。他のでは駄目なのだ。野並君のでないと。 甘くない。野菜だけどフルーツみたいなトマトでとても美味しいのだから。
いつも野並君のトマトを買う。生産者がちゃんと袋に印字されている。 だから買う時はいつも「のなみくん、のなみくん」って探しながら買うのだ。
野並君ちのビニールハウスも今日はすごく暑かっただろうな。
のなみくん。いっつもおいしいトマトをありがとう!
NHKの朝ドラ『どんど晴れ』をこのところ毎朝みている。 BSだと7時半からなのでその時間帯だとわりと見やすくてよいのだ。
朝ドラなんてほんとに久しぶり。『ちゅらさん』以来のように思う。 その初回の朝、ん?これは!とはっとしたのは小田和正の歌声だった。 思わず台所から茶の間に走ってしまった。そしてそこで見たものが。 岩手山を背景に凛として立つ『一本桜』のえもいえぬ美しさであった。
テレビの前に正座してしばしぽかんとしていた。 「これどこ?ねえどこなの?」見ている彼に問うたのだけど。 「うるさい!今から始まるから見てりゃわかるだろ!」と叱られる。
そうして。その朝からすっかりとりこになってしまったというわけだ。 小田和正の歌声は『ダイジョウブ』という歌だともわかる。 詞がとてもよい。よいと一言でいい尽くせないほど心にぐっとくる歌だ。
優しくてあたたかい。そこにひとがいてそのひとの笑顔が真っ直ぐに届く。 もし辛い時があったなら。もしどうしようもなく落ち込んだ時があったなら。 この歌でどんなにか救われることだろうと思う。すくっとなれる。きっとそう。
欲を言えばこんな詩を書きたいものだとも思う。 私はすごくちっぽけだけど。ひとつきりでいい。こんな詩を残してみたい。 書けばいいのにって思う。でも書けないのだ。どうしてだろうなぜだろう。
私はいったなんなのだろう?詩人なのかな?詩人になれないひとなのかな? いままでながいことなにを伝えたくて。言葉を綴っていたのだろうか? どんどん歳月ばかり積み重ねていくよ。このまま何も伝えられずに終るのかな。
早くしないと死んでしまうじゃないか・・・・。
いけない。いけない。また悪いくせ。 だから書けないんだ。焦ってばかりいるからすぐに雨が来る。ずぶ濡れになる。
ほんとうはすごく光にあいたい。
その光を抱いてこそ。誰かに伝えてあげられるのではないかな。
その光はどうやって見つければいいのかな。
生むのかな?もしかしたら自分で生めるものかもしれない。
生むにはどうすればいいのだろう。ねえどうすれば生まれるの?
わたしはだから卵を産むんだ。このさきがいつまでか知らない。
だけど。生まれるまでずっと卵をあたためていようとおもうんだ。
「どんど晴れ」そのドラマの最後には必ずこの言葉がきこえる。
よっこらしょっと私は立ち上がると。彼にいつも言う。
「今日もどんど晴れだよ」って雨の日でも言う。
「はいはい、わかりましたよ」っていつも彼が笑うのが嬉しくてならない。
サチコが彼と魚釣りに行ってキスを5匹釣って帰る。 まあまあなのが2匹とあとは赤ちゃんみたいにちっちゃいの。
「おかあたん、おちゃかなちゅった」と言って得意げな顔で。
ほんにほんに我が子ながら。この娘はお陽さまのように明るい子であった。 おかげでおかあたんの顔もほころぶ。おかあたんは幸せだなって思うのだ。
さっそくふたり台所でキスの天麩羅をすることにした。 ちっちゃいのもちゃんと食べてあげないとねと言って。
からりっと揚がったのに伯方の塩をつけながら食べる。 「おとうたん、ビール一緒に飲むでしゅね」と言って。 サチコが父親のコップに注ぐのを微笑ましく眺めながら。 おかあたんはバドの練習日であるためぐっと我慢している。
息子くんが突然に結婚するからと家を出てからもう一年が経った。 母親とはなんて身勝手なものだろう。サチコだけはと執着しつつ。 嫁ぐ日を心待ちになんかしてはいない。ずっとそばにいて欲しいと。 狂おしいほどに思う。サチコのいない我が家なんて考えたくもない。
けれどもそんな親の身勝手がいつまでもまかり通るわけもないから。 覚悟はしている。だけどそれはほんとうに淋しくてならない事だった。
親は子供に育ててもらうと言うけれど。まさにその通りだとすごく思う。 子育てに疲れて苛立つ事も多かった日々に。どれほど救ってもらったことか。 手をあげることもあった。泣き喚くのを叩き続けたこともあったというのに。
泣くだけ泣いた我が子の涙ほど愛しいものはなかったのだ。
おかあたんはおかげで母になれました。
しんちゃん。サチコ。ほんとうにありがとうね。
キスというさかなは。魚偏に喜ぶと書くのだそうです。
いまあふれているのは川辺の野ばら。 それは雑木さえも身一つにしてしまうほど咲誇っていたりする。
手折られる事を凛として拒むその姿は。野あざみのそれとよく似ていて。 やはりどうしても憬れずにはいられない。そうなりたいとふと思うばかり。
きのう。ある方に『まわたのようなひと』だと言われたことで。 それはとても思いがけず嬉しいことであったけれど。心が少し。 きりきりと痛んだ。その時わたしの心の棘を見つけたのかもしれない。
身に余ることだと受止めつつも。素直に喜べないのが。わたしの棘だとも思う。
わたしはたぶんその方に『まわた』を頂いたのだろう。 ふわふわとやわらかく純に白いそれを大切にしなければならない。
そうしてこの身をひとつ残らず千切って。ひとに与え続けたいとつよく思う。
空は清々しく爽やかに晴れ。今日もまるで初夏のようだった。
もう少しあと数日で。今年の川仕事を終えられそうになった。 ぷしゅっと今にも気が抜けてしまいそうなのを一所懸命になって。 まいにち息を吹き込んでいるような日々にある。疲れてはいない。
むしろ満たされているのだけれど。どこかがすこし壊れてもいる。 その箇所を見つけようとすればするほど。心が苛立ってしまうから。
見て見ぬふりをしていようと思う。忘れてあげなければと思う。
やがてまたゆるやかに時が流れていく。
大河のほとりに根をおろし。夏の夕陽にあえる日も近い。
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