ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2005年05月31日(火) 満ちる

帰り道。信号待ちをしながら眺める国道沿いの姫女苑の花。

冷房を切って。窓を全開にして走りぬける川沿いの道は。
いちにちの疲れや。憤りに似たやりきれない思いなどを。
みんな嘘だったんだよって知らせてくれているように思う。

日が長くなり。まだ夕陽に染まらぬ川は。今日も青く澄んで。
ほとばしる命の流れのように。とくとくと満ちて溢れている。

だからなのか。私も満ちる。爪先から髪の先まで流れるもの。
それをなんと名づけたらいいのか。ただ感じるのみの流れに。
逆らおうとはしないのだ。ああいってしまう。ふと漏れる声。

恍惚は糧になる。ふとそのようにそれをしるし。幕を下ろす。
あとは日常に在って。妻だとか母だとかいうものに順応する。


大橋を渡る時の風ほど心地よいものはなかった。大河を渡る。
なびくのではなく突っ切るのだ。右岸から左岸へと真っ直ぐ。
見慣れた家並み。手をあげて微笑む人。そして路地を曲がれば。
愛犬が飛び出して来て迎えてくれる。水を待っている庭の草花。


わたしの帰るべき場所がいつもそこにあった。



2005年05月30日(月) ともだち

できないことはできないとちゃんと言って。
できることはせいいっぱいしてあげてねって。
昨夜。久しぶりに話したRにそう告げたのだった。

Rに告げることは。すべて自分にあてはまることだと思う。
だからなのか。すごく真っ直ぐに向き合うことが出来る。

いちねんに一度くらいだろうか。私を頼ってくれるRというひと。
きっと友達なのだろう。決してべたべたしない関係だからながく続く。

便りのないのが元気な証拠。ずっと便りがなければそれでおっけい。
どうしても必要な時には。ちゃんと信号を送って来てくれるから。
赤信号の点滅で。一時停止した私は。はっとしてRの名を呼ぶのだ。


できないことをできないと告げることは。すごく難しいことだった。
相手を傷つけるのではないかと。すごく気が咎めたりするから。
そこで心を鬼にしようとしても。鬼は涙をいっぱいためていたりして。
どうすればいいのか。どうしてあげたらいちばんいいのか。わからない。

いいひとだって思われて慕われているのかもしれないのだ。
ならば。そうすれば裏切ることになる。落胆させてしまうのが。
怖いのだ。いいかえれば。嫌われたくないから迷い戸惑うのだろう。


ずっと前のこと。ネット間でトラブルに巻き込まれた時に。Rは言った。
「どこの馬の骨かわからない者のために、どうして辛い思いをするんだ!」

そんなふうに。私を叱咤するRだって。
私は一度も会ったことがなかった。だけど・・決して馬の骨なんかじゃない。
Rはちゃんと存在している。生身のひとだった。

声はいつも懐かしくて暖かい。そして似ている・・誰よりもわたしに。







2005年05月29日(日) うごいてみよう

ほんじつもうすぐもり。きょうは動いてみようと思い立つ。


家のすぐ近くの河川敷で。大掛かりな水防演習があった。
県知事さんも。それから自衛隊や赤十字の人達も来ていた。
サイレンが鳴り響いたり、上空をヘリが飛んだりすると。
見物のつもりではあったが。少し緊迫した気分になる。
頑丈な堤防のおかげで。これまで難を逃れられたんだなと思う。
大きな地震が起これば津波が必ず来るという。
とにかく高台に逃げなくてはいけない。考えただけで不安になる。
堤防の草の原に腰掛けて。柔かな風に吹かれて空を仰いでいると。
そんなことがあってたまるものかと思う。信じたくないと思う。


午後は。最近ちょっとお気に入りの商店街へ行ってみた。
アーケードで毎週『日曜市』をやっているのだ。
新芽の榊を買う。神棚に先日買った宝くじと、とても相性が良さそう。
それからおっきなキャベツが百円だった。スーパーよりずっと安い。
すごく所帯地味た姿で。宝石店のピアスを眺めたりするのが。
アンバランスな女の美なのだと。胸を張って歩くのが爽快なのだ。

うごいた日は。心身ともに活き活きとする。
生きたいから。こうしてずっと生き生きしていようと思う。




2005年05月28日(土) うすぐもり

うす曇の朝もいいもんだなあと。窓の外を眺めていた。
目の前を横切って飛ぶツバメ達。動いているのはただ。
それだけのように思える。そして自分の息と心臓の音。


土曜日にお休みをもらうのは。ほんとうに久しぶりだった。
縁側から庭におりて草花を眺めたりしていると。なんだか。
ご隠居さんみたいな気分になる。いいないいな。まったり。


そしてお昼前から。伯母の四十九日の法事があり出掛ける。
お経をじっくり聞いていると。ああそうなのかそうなんだ。
と、冥土を旅する魂の様子がよくわかる。とても厳しそう。
途中で身包み剥がれたりもするらしい。でも身内が持たせて
くれた内掛けが助けてくれるのだそうだ。ほっと安堵する。

ワタシハ。クリスマスニアノヒトガオクッテクレタコート。
オカンノナカニイレテネッテ。サチコニオネガイシテオコウ。


そしてうす曇のまま。今日も平穏無事に暮れていった。


       
          我が家の庭の『初雪かずら』




2005年05月26日(木) おそうしき

昨夜みたゆめは『お葬式に行けない』ゆめだった。
何度も時計ばかり見ていて。落ち着かない時間で。
喪服を出したりしているのだけど。どうしてだか。
黒いストッキングと黒い靴が見当たらないのだった。

すごく焦ってしまって。急いで買いに行かなくちゃって。
でも時計を見たら。もう告別式の時間ぎりぎりだった。
もう間に合わないよ。どうしよう。どうしてこんなことに。
もがくような思いでいっぱいになって。ひどく憔悴してしまう。

そしたら亡くなった同級生の顔がいっぱい見えてきて。
ごめんよ。ごめんよ。行けないよって泣きそうになった。

でもそれはゆめ。どうしてそんなゆめを見たのだろうと思う。


今日。ちゃんとお見送りに行った。
子供の頃仲良しだった友達とふたり寄り添って手を合わす。
彼女はずっと泣いていた。私はくちびるをぎゅっと噛み締めていた。

不安でならないのだと言う。私もそう。死ぬことはとても怖い。
病気しなくて元気にしてても。明日死ぬかもしれないって思う。
たとえばずごく嬉しいことがあった時。ああ明日死ぬかもなんて。
思うよ。私もいつも不安なんだよ。生きたいよね。もっともっと。

そう言うと。彼女は肩をふるわせて泣きじゃくりながら。
「時々は声をかけてね」と言った。こんな場所じゃないところで。
また会おうよねと言ってくれたのだ。うんうん、そうしようねきっと。

すごく仲良しだったのに。どうしてこんなにも会わずにいたのだろう。
亡くなった同級生が病気だったことさえ。私は知らないでいた・・・。

残された私たちには。あとどれくらいの時間が残されているのか。
なにもわからない。わからないからこそ。

もっと。もっと。惜しみなく生きなければいけない。





2005年05月25日(水) ちくたく

たまにこんな夜もあるものだ。

まったりとしたいのに。できなくて。
なにがげんいんなのか。わからない。

気分が散らかっているように思うから。
ほらほらこっちだよって呼んでみても。
しらんかおして勝手なことばかりする。

しまいには時計が壊れているのではと。
うたぐってみたり。いやだなこんなの。

はやく眠くなるといいな。眠りたいなあ。

ちくたくちくたく。秒針ばかりが動いている。



2005年05月24日(火) きれいさっぱり

夕方。いつもの川沿いの道を帰ってくると。
今日は堤防の草刈作業があったらしくて。
なんだかとてもさっぱりとしすぎていた。

あの夕風に揺れる真綿のような草の花も。
あのけなげに思えた野あざみの綿帽子も。
咲き始めていた姫女苑の白く可愛いのも。
みんなみんな。あとかたもなく刈られて。

あんまりだよって。息がつまるくらいに。
寂しい気持ちでいっぱいになったのだが。

きれいさっぱりっていうのは。きっとこんな。
ありさまを言うのだろうと。すぐに思い直す。

そのままにしておけないこととかあるのだし。
そのままじゃいけないこととかあるのだろう。

まっ・・こんなもんだろう。

これがいいのだろうと思った。







2005年05月23日(月) ほっと。もっとほっと。

きのうの雨のことを忘れてしまうほど。
今日はすっきりと爽やかな青空だった。


トラブルにも慣れたこの頃。
不安がってみては。開き直り。
なるようになることはなって。
ならないことはなりはしない。


平穏無事が何よりもありがたいと思う。
ほっと。もっとほっとしようではないか。


       ことしも『ゆきのした』がいっぱいさいてくれた。











2005年05月22日(日) あやふやがよろしい

しなやかな雨が。夜になってもやまずにいて。しっとりと潤っている気配が。
なんともいえず。こころ落ち着き。しんみりと雨だれの音に耳を傾けている。

『独り』のスイッチがさっき。とてもさりげなくそうなったせいで。
なにものにも支配されずに。ぽつんとまた在る時をありがたく思う。


昼間は人達と過ごした。語り合いもしたし。頷きもし。笑い合うことも。
輪の中に入るのは苦手だと常日頃から思うけれど。入ってみればそれも。
それなりに楽しく思えるから不思議だ。実のところ人が好きなのであろう。

今日は。地区の行事のひとつ『虫供養』というのがあった。
この地に暮し始めて26年になるが、お当番になったのは初めてだった。
田の害虫を駆除したための供養とか。昔は子供達が太鼓を叩きながら。
畦道を練り歩いたそうだが。今はもうなく、お寺で供養するだけとなった。

それが。今日初めて知ったのだが。どうやら虫の供養だけではなさそうだ。
なんと斎藤何がしとかいう平家一族の武将の『法要』なのだと言う。
和尚さんのお経の中にもその人物の名が出て来て。とても真実味があった。

とても興味があり。帰宅してネットで調べたりしてみたが。
その武将と『虫供養』との関連については。何ひとつ情報がなかった。
夫君にそのことを話すと。ちょっと不機嫌になる。
「夢をこわすなよ」と言われた。うん・・そうやね。今日はその方の法要。

つきつめてつきつめたいのがわたし。
あやふやでもそれがいいのがおっと。

そして。何事もなかったように。ふたりで『義経』を見た。


追記。
その後また『虫送り』で検索してみたら。ちゃんとあった。
明日の朝。いちばんに教えてあげたい。



2005年05月21日(土) けなげなわたげ

野のアザミが咲き終ると綿毛になる。
それはタンポポみたいに可愛らしくもなくて。
むしろ醜く見えてしまうのだけれど。

群れているものも。ぽつんとあるものも。
なんともいえずもの哀しくて。憐れに見えるのだった。

だけど決して不憫だとは思えない。
それはとても健気な姿だと思える。

鮮やかな紅紫が枯れて茶色くなってしまい。
そこからどうやって白い綿毛に変るのだろう。
葉の刺々しさも過去となり、朽ちて朽ちて綿になる。

そっと触れてみると。はっとするほど柔かだった。
やがて風を知るのだろう。ふんわりと野に落ちて。
また生きてはまた咲く頃。ともに生きていたいものだ。




今日の嬉しいニュース。

子ツバメ達が空を飛べるようになった。

今夜のいけないニュース。

サチコに土下座して煙草一本貰う。







2005年05月19日(木) ばってんじゃん

朝は。とても清々しい青空が嬉しく思う。

例の。手折られた白い紫陽花には。仲間がたくさんいたのだ。
妹かもしれない紫陽花が。またぽつんと白くて。その場所に在った。
昨日の朝のことも一昨日の朝のことも。あまり憶えていない自分に。
少しだけ穏やかな朝が返って来たように思う。ほっとする瞬間が愛しかった。


ありがたいことに。日中もそれが継続されていて。
特に苛立つこともなく。のほほんと仕事をこなしていた。
時々は窓の外の美味しい空気を吸いながら。ああいい感じだと思い。
これが順調でなくてなんだろうなどと。良いほうに良いほうに丸をつける。


ばってんは。やはりどうしてもあふたーないん。
自室に入るやいなや。スイッチが切り替わったように異変が起こる。
どこか壊れているなと感じるが。その箇所がよく判らず戸惑うばかり。
許してあげたくてたまらないけれど。もう一人の自分が厳しすぎるし。

壊れた玩具は。だから真っ直ぐに進めない。
壁にぶち当たっては。右じゃなくて左に行ったりしながら。
泣くことも喚くことも出来ずに。電池が切れるまで動き続けているのだ。

はぁ・・・・しんど。









2005年05月18日(水) 他人ごと

五月雨の頃に似て。どうしようもないふうに。雨が降る。
なにもかもが潤っているのだけど。他人事のように思えるのは。
なぜだろうか。自分だって濡れたのに。それはとても些細なことだった。

順調と思えば順調。深く思い詰めなければすべて順調に事が運ぶらしい。
だからほら。かるぅく流しとけばいいものを。手にとるから重くなるのだ。
だけどほら。そのかたちとか。その汚れ具合とか見て見ぬふりをするのが。
むずかしい。なんでもないことなのに。なぜかなにかあることになるから。

ようするに。ただたんに。「まっ・・いいか」が苦手なのだろうと思う。
こ難しいことほざいてないで。もっともっとあっけらかんとしていたいものだ。


禁煙もしかり。禁ずるからそれは苦しい。
我慢しているという思いがある限り。いつまでも解放されないのだ。
自由になりたい。なろうとしているのだからと自分を宥めてばかりいる。

明日は今日より楽かなって思う。
こだわらずに忘れていられたら。きっとだいじょうぶだと思う。


どうしても穏やかになれない夜です。どうか読み流して下さい。







2005年05月16日(月) 変化

秋はすすき。今の頃はなめらかな真綿のような草の花が咲く。
夕暮れ時は。風に揺れるものを眺めては心を和ますのがいい。
そうして暮れていく現実を。夢だったかのように見送るのが。

家に帰るとほっとする。自室の窓から眺める夕陽がとても好きだ。
堤防の高さと同じ窓は。まるで映像のような風景を見せてくれる。
ここに自分もいるのだなと思う。向き合っていることが嬉しく思う。


月曜日の仕事は。なんだかすごく理不尽に思えることなどあり。
手のひらを返すようにあれこれが変化しているのをまともに感じた。
すでにそうなってしまったことは。どうしようも出来ないのであるが。
そのように変るということが。とても悲しく思えるのだった。

だけど変らないこともある。今まで築いてきた信頼というものが。
今日ほどありがたく思えたことはなかった。
とにかく希望を捨てないことだ。いつもの笑顔を忘れずにいれば。
きっと光射す時が来ると信じていたい。誠心誠意。精一杯でいよう。


今夜。煙草は。とうとう最後の一本となった。
さっさと吸い終えて。潔く別れたいものだ。



2005年05月15日(日) あふたーないん

このところ少し肌寒さを感じていたのだが。今日はまた初夏の陽気となる。
家中の窓を開け広げて。ふと北側の窓の外を眺めると。お隣りの柿の木が。
こんなに大きかったかしらと思うほど。若き葉がきらめいていてウツクシイ。
実のなる頃を知らなかった。そこは夏が終わるとずっと閉ざしてある窓なのだ。

それから。縁側でツバメ達を観察。ちちちちちっと子ツバメ達が鳴き始めた。
確かに三羽が元気そうなのを見てほっとする。あの末っ子もしっかりとして。
母さんから餌を貰っていた。玄関の扉のあたりは糞でいっぱいだけど。それが。
何よりも順調な証拠のように思え、いくらでも汚していいよと思えるのだった。

それから。自室の掃除をする。今日ついに灰皿を捨ててみる。
5度目の禁煙を。今度こそきっとと決意し、『禁煙セラピー』を読む。
その本には「さあ、最後の一本を吸いましょう」と書いてあるので。
そのようにして。なんだか疑心暗鬼ながら。ついにやったぞと思ったりした。

それからは。とても清々しい気持ちが続く。葛藤もなく。不安もなく。
愚かな自分とおさらば出来たんだと。とても嬉しく思えたのだった。

いつものように茶の間で『義経』を見て。ビール片手に自室に帰って来た。
するとどうしたことだろう。なんだか頭の中が真っ白で。すごく虚しくなる。
第一波の禁断症状かと冷静に受け止めて。頑張れよ、これを乗り切れよと。
必死で自分にエールを送るのだった。お父ちゃん助けて・・と遺影を見れば。
その遺影の前には。買って殆ど吸っていない煙草の箱がちょこんと在るのだ。
灰皿と一緒に捨てるべきだった。もったいないなと思ったばかりに在り続ける。

ため息をいっぱいつく。自己嫌悪と。開き直る気持ちとが喧嘩を始めて。
私はすっかり開いてしまうのだった。在るものは始末しようと思い始める。
最後の一本まで。今はそんな気持ちでいっぱいになり。どうしても駄目だった。

何も喜びを感じていないのに。どうして火を点けようとするのか。
吸えば吸うほど虚しくなるのに違いない。これは麻薬だ。麻薬なのだと。

悲しいほどに知っているというのに。



2005年05月13日(金)

しんやのるすでんのこえをききながら。なみだぐんでいるあさだったり。
どんなにかしんどいひびを。たえてたえてがんばっていることだろうと。
まけないで。まけないでと。いのりつづけている。それがいまできること。


恋などというものではなかった。

あのひとの母になれたらどんなにいいだろうかと。思う。



2005年05月12日(木) いちにち

あの山道の白い紫陽花に。どんなにか心を惹かれていたことか。
なのに今朝は。とてもとても悲しい思いをしてしまう。

みんなに見つけてもらって。微笑んで心を和ませて欲しかったけれど。
まさか手折る人がいるなんて思ってもいなかったから。
悲しみと。怒りのようなものもあって。一気に気分が沈んだ朝だった。

しかたないことはしょうがなく。もう少しすればたくさんの紫陽花に会える。



あとは。今日もひっそりと静か。
来客の途絶えた職場には。閑古鳥じゃなくて。爽やかな鳥の声が聞こえる。
いったいどんな変化が起きているのか。まだ深刻に受け止められない。
じわじわと何かが忍び寄って来ているようだが。思い過ごしのようにも思う。

あっけらかんとしていたいものだ。じたばたと焦ることはなにもない。


帰宅したら。お休みだったサチコがぜぇぜぇしていた。
あんずのお散歩に行っていたら。リードが切れてしまって逃亡されたらしい。
一目散に走り出したあんずは。なんと川へ入って水遊びをしていたそうだ。
自由になったあんずにはいつも手をやく。とにかく絶対に言うことを聞かない。
なんだかサチコとよく似ているなって可笑しかった。

食後は。サチコが皿回しの芸をしてくれて。とても楽しい。
ほんとうに我が家の太陽みたいな娘だ。

おかげで微笑みながら眠ることが出来る。ありがとねサチコ。




2005年05月11日(水) 静寂

黄花コスモスが咲き始めた。それは日に日にたくさんになって。
ついこの前までツツジが咲いていた国道沿いに。今度はわたしよって。
そんな朝の道の嬉しさ。鮮やかな黄色がきりりっとしていて緑に映える。
通いなれた道がとても新鮮に思えるのだ。心がすぅっといい気持ちになる。


お昼休み。いつものようにクルマの中で本を読んでいると。
すぐ近くで鳥の声がした。すごく透き通った声で鳴いている。
どこどこ?って探していたらいたいた。お腹が黄色い鳥だった。
ちーいちーいって鳴く。誰かを呼んでいるような声で鳴いている。
雄かな雌かな?わからないけれど。呼んでいる。ずっと聞いていると。
なんだかせつなくてならない。早く来てあげてって願わずにはいられない。

ああ・・だけど誰も来なくて。もう風の向こう側に飛んで行った。
あとは静寂のみが残る。その心に染むほどの静けさは。淋しさに似ていた。

ため息をつくと気が遠くなる。垣間見たものは何だったろうなんて思う。
だけど不思議と満たされた思いで。そのまましばし眠りこんでしまった。


仕事は。あまりにも重大なことに直面していて。なのになんだかもう。
なるようになってくれたらそれでいいのだと思えるのだった。
昨日を境にぷっつりと電話が鳴らない。不気味なほどの静けさのなかで。
あとは野となれ山となれと思いながら。最後の決算をしようとしている。



2005年05月10日(火) 悲しい顔ではいられない

職場の庭のやまももの木の下に。毎年咲いてくれるのが『雪の下』
今はまだ少ししょんぼりしている。紅く細い首を伸ばせるだけ伸ばし。
うなだれるようにその先っちょが俯いている。なんだか悲しそうな姿。
何かを諦めているようなひとにも見える。風が吹けば折れてしまいそう。

それが咲き始めるとどうか。まるで蛹から蝶になったように美しいのだ。
純白の羽根をひらひらとさせて。それはそれは誇らしげに風に揺れる。
あと少しもう少し。今年も会えるのだから。悲しい顔ではいられない。



さて。よりによってこんなことを話すのもなんだが・・
月経前の情緒不安定っていうのは。なかなか面白いもんだなと思う。
血迷うというか。確かに血が迷ってしまうように思う。
とんでもないことを考えているかと思えば。ついに仕出かしてしまったり。
いつもは静かにおさまっているものが。急に暴れたりするものだ。
女性ホルモンが脳に悪影響を及ぼすのか。そこらへんがとても微妙だ。
私のような更年期の者だって。これは尋常ではないぞと自覚するくらい。
めちゃめちゃ女の本能らしいのが現れてくるし。制御できなくなる時がある。
不思議なものだ。専門家になって研究してみたいと月に一度思ったりする。

冷静になれない時などあって。あとですごく後悔したりするのだが。
今朝それを思いっきりしたとたん。そのものが始まったりしたから。
ああ、やはりそうだったかと思った。そして正常に血が流れるありがたさ。

いつだったか。あのひとにすごく迷惑をかけたとき。
あのひとが「まだまだおんななんだからよかったね」と言ってくれた。
その時の優しさを思い出しては。はらはらと涙ぐんでしまった。

少しだけうなだれている夜。
あと少し。もう少しと。咲ける日のことを思っている。わたしだった。






2005年05月09日(月) 風が薫る日

風が薫るというのはこんなのだなと思った今日。
爽やかさに吹かれていると。あれこれはみんな些細なこと。
思い悩むほどではなかったが。気がかりなことなどあると。
それさえも薫るように仕向けられていくように思うのだった。

風のように生きられたらどんなにいいだろう。
だけどひとは。そんな風に吹かれながら生きる。
立ち向かうことは出来るが。風を静めることは出来ない。
身を任せば空だって飛べるのかもしれないなと思ったりもする。

ひとらしく。ひとらしくあるのが。やはりそれがいいのだろう。



さて今夜の出来事。
残業で遅くなり帰宅した息子君と。しばし話し込んでいると。
今年中に家を出たいと言い出した。彼女と暮らすことにしたいと。
覚悟はしていたし。もっともなことだと思うのだけど。少し戸惑う。
父親に言う前に私に言ってくれたのだから。なんとかそうさせてあげたい。

巣立つのかこの子が。なんだかとてもそれは言葉に出来ないことだった。






2005年05月08日(日) 抱っこ

やわらかな陽射しとそよ風。のほほんと空を仰ぐ。
時間が止まっているように。思える時があるのが。
なによりも至福の時なのだろう。穏やかな空気が。
静止している自分のまわりで。漂っているような。

日常のほんのいちぶぶん。だからとてもありがたい。



先日生まれたらしいツバメの赤ちゃんだったが。
いっこうに姿が見えず。親ツバメの様子も変で。
もしかしたら孵化できずに。卵のまま死んでしまったのでは。
ないかと心配していた。親ツバメが巣から離れてばかりいて。
時々母ツバメらしいのが。巣の中を覗き込んでいるだけだった。
生まれているにしてはあまりにも静かな気配がするばかり。

なあにまた卵を産むさと言われても。なんだか納得出来ない。
そんなもんかなって思えない。どうして?って疑問符しちゃう。

夕方近く。洗濯物を入れ終った縁側で。またぼんやりと巣を眺めていた。
そしたらちょうど母ツバメらしのが帰って来たところだった。
餌みたいなものを咥えているのだ。あっ!っと思って目を凝らす。

ああ、なんてか弱い。それはそれは小さな生きるものが見えたのだ。
まだ首が座っていない人間の子供と同じように。支えてあげないと。
今にも折れてしまいそうだ。それなのに必死になって頭を上げている。

ひとつ。ふたつ。みっつ見えた。まだ鳴くことも出来ない小さな命たち。
ほらほらおっきく口を開けて。見ているとはらはらするような光景だった。

やったね。きみがお兄ちゃんだ。そんなひとつがお母さんから餌を貰う。
ぼくもぼくもだよ。一生懸命口を開けたら。お母さんが餌をくれたんだ。

くにゃくにゃっとなって。ぼく駄目だよって。みっつめはまだ口を開けない。
可哀相でならないけれど。母ツバメは振り切るように。また空へ飛んだ。

母さんはね。ほんとは優しいけど。厳しいんだ。
みんな強い子になって欲しいんだよ。だってそうでないと一緒に旅が出来ない。
いっぱい食べさせてあげたいんだよ。だから一生懸命口を開けて欲しいよ。

夕暮れて。やっと母さんが巣に帰ってくると。
みんなみんな抱っこして眠るんだ。
お兄ちゃんも弟も。おなかが空いてる末っ子も。みんなみんな抱っこだよ。



2005年05月07日(土) ぽつんとある

朝は風がとても強くて肌寒く思ったが。午後はまた初夏の陽気。
いつもは気だるい土曜日なのに。今日はなんとなく活き活きと過ごす。

朝のこと。いつもの山道を通りながら。確か次のカーブを曲がったらと。
このところ気にかけている紫陽花のことを思った。もう咲き始めている。
民家のそばでもない場所に。山道の生い茂った草むらに。ぽつんとある。
見つけた時は真っ白だったから。たぶん日に日に色づくのだろうなどど。
昨日よりも今日のことを楽しみにしていたのだった。

そしてカーブを曲がったら。そこにぽつんと座っているお遍路さんが居た。
紫陽花の花に寄り添うようにして。疲れた足を撫でているようだった。
それはすごくほっとする光景で。なんだか一枚の絵のように見えた。

見つけてくれたんだと思う。あっ・・こんなところに咲いてるって。
そう思うとすごく感激してしまって。やたら目頭が熱くなったりした。

そうしていただいた穏やかな朝を大切に思う。ささやかな贈り物みたいに。


まあるいこころ。時には転がらずにいられない時もあるが。
そうして見失ってしまいそうになる時もあるのだが。
感じたことをずっと忘れずにいたいものだと思う。

ころがっていけば。また見つけることがいっぱいあるのだろう。
泥だらけでもいいじゃないか。動けなくなってそこに在り続けるのも。
それが過去というものならば。いつだっておさらばできるのだから。

感じたことはずっと生き続ける。それが未来というものかもしれない。
ひとつひとつ大切に。育てることも出来る。だから生きるのは愉しい。

          みんなみんな。ぽつんとそこにある。




2005年05月06日(金) ぴちぴちらんらん

またふつうな朝が始まって。雨だなあとつぶやきながら仕事。
たんたんたんと雨が降る。水たまりのような気持ちになって。
流されることもなく。いちにちが。ぴちぴちらんらん過ぎる。


いつも何かが足りないと。ずっと思って悩み苦しみしていたけれど。
この頃はそうでもなくて。むしろとても満たされているように思う。

限界を知ったのかもしれない。それは身の程を知るのと似ている。
雑草は雑草なのだろう。きっとそういうことなのだろうと思う。

ざっそうはじしんがなかったのだ。このままでいいのか。
ひのあたるばしょでさくはなになっても。なぜかふあんだった。
ふまれたひのいたさがわすれられなくて。おもいだしてはないた。
どうしてどうしてといつもおもいつめてはひかんばかりしていた。

だけど雨。ならばずぶ濡れになろう。そう思えるようになったから。
傘をさして欲しいとか。雑草だもんそんなこと思わないことにした。

雨あがりはとてもいい気持ち。そよよと風が吹けば恋人みたいに優しい。
だから雨が好き。ありがとうっていつも思う。雑草でよかったなあって。

野原なら仲間がたくさんいて嬉しい。だけど石垣の隙間でだって生きる。

えへんどんなもんだいって思う。だから雑草は。今日もぴちぴちらんらんと。

            生きた。




2005年05月05日(木) はるばると

立夏らしくまぶしい陽射し。今日は少し遠いところに行ってみる。
思い立つというのがよくて。行き当たりばったりというのもよい。

四万十川を上流へと進み。ずっと新緑の道を進む。
そこからは愛媛県だった。そして四国山地を抜ける。
長いトンネルが幾つもあって。暗さから抜け出しては。
目の前に広がる緑の素晴らしさ。ほんとうに爽やかな風。

2時間半ほどで大洲市に着いた。初めて訪れた町だった。
なんだか我が町と似ているなって思う。水の匂いがする町。
ごみごみとしたところがなく。のどかで静かな町だなと思う。

山の上に公園みたいなのが見えて。とにかく行ってみることに。
すごくわくわくした。なんだか子供の頃の遠足みたいな気持ち。

展望台にはひとひとひと。そんなことはどうでもよいくらい。
そこはいちめんのツツジ。もうもうこれ以上は咲けませんって。
言ってるみたいに咲いていた。よく咲いてくれました賞をあげたい。

          
           展望台から見下ろせば。
         




          
           名残惜しくて見上げれば




2005年05月04日(水) ひとにあう

本日も晴天なり。とにかく動いてみたいなと思う。
そうしないでいると。どこか一部分がびょうきになりそう。
動けばうごくものがある。きもちよく流れるものがきっと。
あるはずなのだ。だから。動かずにはいられないのだろう。


昨日と同じ場所へ行けば。今日はフリーマーケットをしていた。
古着やら雑貨やらたくさん。そしてひと。ひとが苦手だと思ったり。
する時があるが。ひともなんだか恋しく思う時もあるのだ。
見ず知らずのひと。ぶらりっと来てみましたって感じのひと達。
わたしも『ひと』なのだから。そう思うと皆さん仲間だと思う。

それから何を思ったか。市内の観光地へ行ってみる。
ここもひとばかり。なのになんだかほっとするような思い。
関西弁の小さな子供が。はしゃいでいる声などが嬉しかった。


お昼。久しぶりに友人と待ち合わせをしていた。
年に一度会えるか会えないか。私にとってはすごく貴重なひとだった。
『ぶんがく』というか。もっぱらその話の出来る唯一のひと。
ただたんに文学少女の成りのはて。そんなふたりなのだろうけれど。
はてにあってもふたりとも。もがき続けているのだ。ともに老いながら。
咲くならば。雑草のように。踏まれても踏まれても咲くふたりでありたい。


ひとにあい。こんなにこころみたされた日はなかった。


   
       市内の観光地 『とんぼ自然公園』

                  
            




2005年05月03日(火) 藤の花咲く頃

よく晴れて爽やかな風が吹く。
八十八夜も過ぎた頃。あとは立夏を待つばかり。

ふと陽射しを浴びてみたくなり。
人ごみもおそれず。街中へ出かけてみた。

今日は『土佐一条公家行列』というのがあり。
この町に住んでいながら。初めて目にした平安絵巻であった。

まだ三歳だという姫君がとても可愛らしく。
花車に乗る時。はいはいをするように上がって。
座布団にちょこんと座ったりしたのがとてもよかった。

また来年もきっと見ようと思う。















2005年05月01日(日) いちにち

はげしくたたきつけるような雨が降る。
雷鳴も聞えたりして。落ち着けずにいたりもしたが。
これも五月の風情かと思えば。穏やかな気持になる。

時化のようだと窓の外を眺めれば。ツバメがずぶ濡れて。
飛び交うのが見えた。まるで雨を斬るように勇ましい姿。

どうやらツバメのお子達が生まれたらしい。
母ツバメらしいのが。巣の中に顔を突っ込むようにして。
餌をあげているのか。まだ生まればかりで介抱しているのか。
昨日とはまるで違うので。きっと生まれたのだろうと思う。
毎年の事ながら。記念日のように微笑ましい出来事である。
毛むくじゃらの可愛げなのが。あと少しすれば見られることだろう。


夕方ちかく。やっと雨が小降りになる。
どこからともなく。蛙の鳴き声が聞える。
「けけけけけっ」と鳴くのだ。とても愉快な声で鳴くのだ。

暮れていく空はどんより。だけど川向の山の真上が微かに光る。
なにもとくに思い煩うこともなく。ただほのぼのと暮せたいちにち。


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