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2018年01月19日(金) 熊本地震とゲイの暖かさ(1)

 よく知られる通り、2016年4月14日午後9時26分と、16日午前1時25分に熊本は大きな地震に襲われた。

 最初の地震があったとき、私は熊本市内の居酒屋で飲んでいた。その晩は出張から帰ったばかりで、田んぼの中のアパートまで帰るのが面倒だったから、熊本市内のホテルに泊まることにしていた。

 また、その翌日は有給休暇を取り、実家の親を老人ホームに入れる算段をすることになっていた。

 居酒屋で飲んでいると、上下動が来た。それはぐんぐん大きくなり、棚のグラスや器がバラバラ落ちて割れ始めた。私はカウンターに手をかけて立ち上がったが、立っているのがやっとなほどの大きな揺れが続いた。

 しばらくして揺れが収まったとき、壁にかかった絵は傾き、トイレの給水器は壊れ、酒瓶は落ちて割れて芳香を放っていた。

 しかし不思議に電気は止まらず、これで私たちはだいぶ助かった。御見舞に二千円だけ置いて帰ろうとするのを店主は断り、エレベーターが動かなかったので私は非常階段で外に出た。

 街路にはガラスが散乱していたが、市電は無事に動いていた。

 私はホテルまで行った。エレベータは使えない、明日の朝食サービスはない、と申し訳なさそうに言われた。それでも泊まることは出来た。

 翌朝私は熊本駅に行ったが、何も動いていなかった。しばらく待っていたら動くかなと思ったが、その気配もなく、そもそも駅が開いていなかった。数人の観光客が不安げに立っていた。

 私はタクシーを拾い、とにかく電車が動いているところまで行った。それから何とか郷里に駆けつけ、弟と二人で親の移送を頼んだ。その晩にまた地震があった。

 博多までは無事に戻れた。その先はダメだった。

 私はただ人々の列について歩いていった。それは大きなリュックを背負った人たちで、ボランテイアなのだった。「もう来てくれたんだ」と思った。ボタンテイアのために臨時バスがあったので、私はそれに潜り込んで、どうやら熊本市内までは帰った。

 原が減ったが市内はどの店も開いていなかった。電話しても出ない。

 緊急車両が走り回っていた。それは全国から来ていた。「和歌山県」と書いた救急車が走り、「長野県」の腕章をした人が地図を広げてハンディカムで何か協議し、「高知県」と書いたジープが「災害支援」という白い布をはためかせて走った。

 中でも私が驚いたのは「福島県」の救急車や、「宮城県」のトラックが走っていたことだった。

 ああ、あの地域は東北大震災で大変だろうに。こちらから支援に出かけて行かなければならないところだのに、反対に向こうから駆けつけてきてくれた。

 涙が出た。

 高級用菓子店が一軒だけ開いており、私はそれから3日ほどそのお菓子を食べて暮らした。


aqua |MAIL

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