僕らが旅に出る理由
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その日の夜、重い気持ちで携帯にかけると、由香里が出て来た。 普通に喋ろうとしているのだが、明らかに疲れて、か細い声だった。 「大丈夫か。家には、いづらいんやろう」 俺は言葉を絞り出した。正直、彼女の体を気遣う心境ではなかった。俺こそが、残業続きですぐにも眠りたかった。だが、それを言う事はできなかった。 「ちょっとね。でも、アパートで1人でおるのは、もっと嫌やから」 「俺のアパートに来たらええやないか。お前一人くらい、何とかしたる」 「そんな迷惑かけられへん」 「迷惑じゃないよ」 由香里は固辞した。それだけはどうしても、受け入れようとしなかった。 「はると暮らすんやったら、私がちゃんと独り立ちできるようになってからや。そうでないと、2人とも不幸になるよ」 いつも、そう言った。
ある日、いつものように帰省して、駅まで迎えに来てくれるはずの由香里が、いなかった。 俺は不審に思い、駅から電話した。 由香里は携帯に出た。ぼうっとして、忘れていたといい、しきりに謝った。時間や待ち合わせに正確な由香里には珍しいことだった。 「もうええから。今、どこにおるねん」 「今?・・・」 「俺がそこへ行くから。どこや」 「眼鏡橋・・・」 由香里は呆然と呟いた。
俺は駅前のタクシーに滑り込んだ。 眼鏡橋と告げる。 呑気そうなタクシーの運転手は暇つぶしにいろいろと喋って来たが、俺はバックミラー越しに目を合わせることすらしなかった。 どうしようもなく不安だった。 なぜまた、眼鏡橋へ行ったのか。彼女はなぜあそこに行きたがるのだろう。 答えはひとつしかないような気がして、たまらない気持ちだった。 眼鏡橋の真下で転がり落ちるようにタクシーを降りると、俺は頭上を見上げた。 「由香里!」 橋の上の黒い小さな影が、俺の声のほうを見た。この距離では、彼女の表情は分からない。 だけど俺は、夢中で叫んだ。 「由香里、飛ばんといてくれ!頼む」 「大丈夫よ、はる」 予想に反して、由香里の声はほがらかだった。しかし、それを信じるわけにはいかない。 「大丈夫やったらそんなとこに行くな。はよ降りてこい。降りて来てくれ。俺のためやと思って、頼むわ」 「はるは心配性やなぁ」 影が動いた。 俺は思わず息をのんだ。 由香里の腕が大きく橋の外に出された。その瞬間、何かが午後の遅い光を受けてひらめき、きらきらと舞いながら、谷底へ落ちて行った。 それは一瞬の事だったはずだが、光の放物線はやけにゆっくりと俺の脳裏に焼きついて行った。 「時計よ、はる」 妙に抑揚のない声で、由香里が言った。 「時計に、代わりに死んでもうたよ」 時計。 それはいつか、2人で一緒に見に行った腕時計だった。 由香里は文字盤がピンクの、小ぶりな時計を選んだ。お気に入りで、俺と居るときはいつも付けていた。大切にしていたもののはずだ。 俺は一気に坂道を駆け上がり、由香里のいるところへ走っていった。 由香里は橋の真ん中で、ぽつんと立ち尽くしていた。 俺の方を振り向きもしない。 彼女だけの、白い、透明な、広い広い世界の真ん中で、由香里はひとりぼっちだった。 俺は、肩で息をしながら話しかけた。 「由香里・・・」 「もういらん」 橋の下を見たまま、由香里は言った。 「もういらん。時計、いらん。時間なんて、どうでもいいわ」 由香里は泣いていた。 俺は訳が分からないまま、由香里を抱きしめた。由香里は小さな女の子のように泣いた。
*
帰りの道は俺が由香里の車を運転した。 車内には、重い沈黙が流れていた。 俺は、今夜は一緒にいたほうがいいのではないかと思った。 しかし、由香里がどうしても嫌がった。 「迷惑をかけるから」 それはもう、由香里の口癖のようになっていた。 駅に着くと、いつもは車から降りない由香里が、ホームまで俺を見送ると言ってきた。 次の特急が来るまでにまだしばらく時間があった。ホームは吹きさらしで、日が陰ってくると途端に寒くなる。 俺は由香里の手を握った。 すっかり冷たくなっていたので、両手でこすってやりながら、言った。 「由香里、結婚しよう」 由香里は驚いたように目を見張った。 そうだ。俺たちは、およそ普通の恋人らしくない。2人とも傷ついて、へとへとだ。結婚にまつわるハッピーな空気なんか、どこにもない。 だけど、そんな2人が結婚したっていい。 幸せだから結婚する人もいれば、結婚してから幸せになる人だっているだろう。順番はどちらでもいいはずだ。 結婚すれば、由香里だってもっと遠慮せず、俺に寄りかかれる。 夫婦なんだ。運命共同体だ。お互いを頼って当然だと、思ってくれるだろう。 俺は、由香里に甘えてほしかった。 そして、幸せになりたかった。幸せな気持ちで、抱きしめ合いたかった。 出会ったばかりの頃みたいに。
電車がホームに入って来て、俺は乗り込んだ。 「なぁ。俺、本気やで。さっき言うたこと。考えといてくれや」 乗車口に立って、俺はそう言った。 意外にも、結婚の言葉を言ってしまうと、すっと体が軽くなった。そうだ、結婚だ。由香里と家庭を作るのだ。なんというウルトラCだ。我ながら名案じゃないか? 由香里はそんな俺を見て、ほほえんだ。 「はる、私ね」 「何?」 「はるのこと、ずっとずっと前から好きだったんよ。私、小さいころからはるを知ってたの」 「え、そうなん?」 初耳だった。 小さい田舎の事だからどこで俺を見知っていたとしても不思議ではないが、どこで知ったのだろう。 「うん。デパートに勤め始めて、たまに帰省してくるのも、とっくに知ってた。私、計画的にはるに近づいてん」 「なんや。そうやったんか。いつからや」 俺はすっかり驚いて、聞いた。 「ずっとずっと前よ。昔っからよ」 「昔って、小学校とかか。せやけど・・・」 その時ちょうど、出発のベルが鳴って、俺の言葉はかき消された。 「由香里・・・」 「好きやったよ、はる。昔も、今も」 由香里が言った。 目を細め、彼女らしい、透明でなつかしい笑顔だった。
*
由香里が眼鏡橋から身を投げたのは、それから1ヶ月くらい後だった。 俺たちの田舎には初雪が降り、もう冬が訪れていた。 それを聞いた時の俺の気持ちは、どう言えばいいだろう。 なぜという気持ちと、やっぱりという気持ちが半々だった。 同情に満ちた同僚の目を避けて、俺はデパートの屋上へ上がった。 そこで、ポケットから数週間前に2人で予約した婚約指輪の引換証を取り出し、破った。 指輪を一緒に見に行った時も、由香里ははしゃいでみせながら、それを自分が指に付ける日のことなど考えていなかった。たぶん、そうだろう。それでも、俺のために、精一杯喜んで見せていたのだろう。 びりびりになった紙片は、カッコよく風に流されたりはしなかった。 俺の足元の地面に舞い落ちただけだった。 風もなく、この季節にしては暖かい。穏やかな日なんだな、とぼんやり思った。
数日後、由香里の葬式があり、俺は田舎に帰った。 葬式には、俺の知っている顔もちらほらあった。 しかし、不思議なことがあった。
誰も、由香里に俺の話や、連絡先を教えたやつはいなかった。 由香里が俺の話をしてるところを見たことさえなかったという。 俺と付き合っていたと聞いて、古い知り合いは皆驚いていた。
由香里はどこで、俺のことを知ったのだろう。
葬式の後、俺は1人で眼鏡橋へ行った。 由香里は遺書を残していなかった。 彼女らしいと思った。彼女はいつも、優しすぎて、言葉が足りなかった。 最初にここへ連れて来られた時のことを思い出した。 あのときも、彼女が言いたかったのはきっと、あんなことではなかったのだろう。 「私は死なへんよ」 なんて、きっと、考えていたのは逆の事だったのだ。
あの日由香里がしたように、手すりから乗り出して下を眺めてみた。 左右から冬枯れの枝が幾重にも重なるその下に、水しぶきを上げる急流が垣間見えた。 それは生と死を厳然と切り分ける、つめたい境界線だった。 由香里はとうとう、あの境界線を越えて行ってしまった。
俺はたぶん、由香里の言葉を、もっとちゃんと聞くべきだったのだ。 言葉だけでなく、言葉の裏側まで。 由香里と一緒に苦しみ、由香里と一緒に眼鏡橋の下を覗いてやるべきだったのだ。 そして彼女が覗いた死の淵を、一緒に見てやるべきだったのだろう。
けど由香里、俺は幸せになりたかったんや。お前と。
お前と見るんは死や絶望じゃなく、幸せや喜びであってほしかったよ。
人気(ひとけ)の絶えた冬枯れの眼鏡橋の上で、俺は誰に言うともなく、そう呟いた。 そしてどこかにまだ残るかも知れない由香里の気配をさがして、ただ一心に耳を澄ませた。
*
俺はそれからも大阪へ戻って仕事を続けたが、その半年くらい後に両親を交通事故でなくした時、自分の中で何かの糸が切れた。 俺はもう二度と、仕事に戻れなかった。 あれほど馴染んだ職場がよそよそしいものになり、同僚や上司が、急に遠い存在に思えるようになった。 その感覚は俺の中でだんだん支配的になってゆき、俺は仕事を辞めざるを得なくなった。 俺はもうぼろぼろだった。 恋人も、両親も、仕事も失い、茫然自失として田舎に帰った。 実家にひとりで住みはじめたが、スーパーで買物をするとかつての仕事をつい思い出してしまい、心が締め付けられるように辛くなる。 それで、できるだけ自分で調達しようと心に決めた。 野菜や米などは、親が残した田んぼや畑を耕して、自分で作ることにした。
土にふれる生活が、だんだん俺を癒していった。 農業は、本気でやり始めると一日中することが山ほどあって忙しい。あっと言う間に日が暮れ、くたくたになってぐっすり眠る。そうするうちに、疲れた心が回復していくのを感じた。 実家に戻ったばかりの頃は、近所の人たちと世間話をすることすら億劫だったが、1年経つ頃には少しずつ心を開けるようになった。 2年経つと、田舎暮らしにも慣れた。有機野菜や卵を地元の人達相手に売ってわずかな収入を得るようにもなった。しかし、それ以上に大きく儲けようという気は起こらなかった。デパートにいた頃は集客が上がることが何より楽しかったのに、そういう欲はもう一切なかった。
ある日、引出しの整理をしていたら、由香里の写真が数枚出て来た。 2人で撮った写真もあった。 デートに出かけた時に撮った、ベンチで2人座っている写真だ。 俺が手前にいて、由香里は遠慮がちに俺の陰に入り、控えめに微笑んでいた。
俺はええカッコしいで、人前で彼女を抱き寄せたりキスしたりするのを極端に嫌がる性格だった。 だから、写真を撮っても彼女の肩を抱いたことさえなかった。
俺、アホやな。 何で、もっとしっかり抱きしめてやらんかったんやろう。 抱きしめられる距離に、由香里がおってくれた時に。
俺はその時、初めて泣いた。 葬式の時でさえ、涙を流さなかったのに。 写真の中の他人行儀な由香里が、あまりにも可哀想だった。 そして俺の迂闊さが、悔しくてしょうがなかった。 照れくさがるなんて。俺はなんてガキやったんやろう。
いつかまた、由香里に会えたら、俺は謝らなければならない。 たくさんの思い違いをしていたことを。 俺は写真を写真立てに入れて、仏壇の近くに置いた。 あの時のアホな俺を、忘れないために。 二度と、そんな淋しい思いを、誰にもさせないように。
*
俺はひとつ大きく、身震いをした。 今夜は一段と冷える。 短い秋が過ぎて、また冬が巡って来ようとしているのだ。 それはあれから、もうすぐ3年になることを意味していた。 あっという間だったような気もするし、もう遠い昔のような気もする。 夜更けの静寂の中で、石油ストーブのパチパチいう音だけを聞きながら、俺は久しぶりに由香里の事を思い出していた。 そろそろ、仏壇の花を取り替えてやらなければならない。 春を待たずに逝ってしまった由香里のために、できるだけ花は欠かさないようにしていた。 明日にでも、また摘んで来よう。 今の時期は花も少ないからな、どこ行ったら・・・
その時ふと、由香里の声がしたと思った。
俺はびくっとして、辺りを見回した。 空耳か?由香里の声がするはずはない。
「すみません」
また声がした。 空耳ではない。由香里の声でもないようだ。 人の声だ。女の人の。 でも、こんな夜更けに?
なんだか夢の中にいるような、ふわふわした心地だった。 俺は混乱しながら土間に通じる戸を開けた。
「・・・誰?」
<終>
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