蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 アクアリウム2

ふ、と誰かが息を漏らした。それはあたしだったのかもしれないし、澤村だったのかもしれなかった。どちらにしても、それはとても疲れを感じさせる溜め息で、決して安らぎを生み出すような代物じゃあなかった。

「…帰るの?」

ぐったりとしたベッドの上で、薄っすらと目を開けた。

「ああ、悪いな」

視界の先で服に着替えた澤村が、煙草を吸ってあたしを優しい目で見ていた。澤村はたまに、こんな目をする。

「また、今度泊まりに来るよ」

きっちりとネクタイを締めて、髪を整えた姿は、今しがた女を抱いた男にはとて見えなかった。

「今日は、ゆっくりできないってことね」

「そうしたいんだけど、な。今日はあいつの誕生日なんだよ。早く帰ってやらないとさすがに体裁が悪いだろ」

僅かに顔を顰めて、澤村は煙を吐いた。シーツの端を、知らずに握り締め、あたしは「そう」とだけ答えた。妻の誕生日に他の女と寝て、今更何の体裁を気にするのよ。口の中が、苦くなる。

「どうした?」

不意にどうしようもない気持ちになって、口元を歪めたあたしを澤村が不思議そうな目で見つめた。

「ううん、何でもないわ」

小さく笑って、ベッドの上に起き上がる。そんなあたしに近寄って、澤村がキスをした。突き飛ばせる強さが、あたしにあればいいのに。出来もしない事を考えて、目を閉じる。唾液で濡れた舌が絡む。

他の女の下へ帰る男の、キスの味だった。





一人になった部屋は、慣れていても妙に静けさを強調する。

キッチンとリビングの境目のカウンターにある水槽が、こぽこぽという水を循環させる音をたてた。水草と白銀の熱帯魚が一匹、その中でゆらゆらと漂う。まるで舞っているようだ、と思った。

イキモノなんて、興味はなかった。先月、プレゼントだと言って、突然澤村が持ってくるものだから、断ることなんて出来なかった。澤村からのプレゼントなんて、初めてだった。あたしは、その日は浮かれて物凄く喜んだ。
『大事にするわ』口付けて抱きついたあたしに、『そうしてくれ』と笑ってくれた。物凄く嬉しかった。

揺らめく水の宝石箱。漂うだけのこのイキモノに、あたしは不思議と魅せられてこの部屋で一人でいる時は、よく眺めるようになった。ペットショップへ通うようにもなった。部屋に熱帯魚の為の物が増えた。

煙草に火をつけて、ベッドの傍で脱ぎ捨てた服を拾う。一人分の、散らばった服と下着。空しいなんて今更。でも息苦しいのは直しようもなさそうだった。

それらを身に着けてから、しばらく一服する。喉が乾いた。何か飲もうと思って冷蔵庫を開けたところで、水も酒もない庫内に溜息が漏れた。

「こういう時に限って」

何もないものなんだ、という言葉は飲み込んだ。最近水を買った記憶はなかった。調理は限られた時ぐらいしかしない。この部屋に一人でいる限り、補充を怠れば何もないのは、ごく当たり前のことなのだ。

財布を手にして立ち上がる。

ついでに、ビールも買い足しておかないといけなかった。明日はたぶん、澤村は来るだろう。早く家に帰った翌日は、埋め合わせのようにこの部屋に泊まる。

そして何も気にしていないふりをして、あたしは彼を迎え、また身体を重ねるのだ。…来ないかもしれないけれど。

「……っ」

思わず小さく笑った。姑息だ。自分から傷つく恋愛を選んだくせに、いざとなれば守ろうとする。気にしていない日なんて、本当は一日だってない。考えてから、また嗤う。

浮気を前提とした男。そんなものに、本当に惚れてしまえば終わりだと同じ店に勤めてた子が言ってた。それなら、とうにあたしは終わりを迎えてる。

卑怯なのは澤村。
馬鹿なのは、あたし。

扉を開ければ、紺色の空が真正面に見えた。夜の空は朝より昼より、温かなベールのようで。けれどその寒々とした色合いは、決してポジティブな思考をもたらせてくれない。夜に一人でいるのが、段々と耐えられなくなってゆく。

寂しいだとか。寒いだとか。そんなもの、必要じゃない。必要なのはあたしを温めてくれるあの男だけ。なのにそれだけじゃいけないような妙な気分に追いやってくれるのが、紺色の空だった。

マンションの廊下は、人気がなく静かなものだった。白っぽい照明が、行く先を照らす。当てられる照明は自分だけじゃないのに、それらを均等には感じられない。理不尽で虚無的。何故だかあたしは泣きたいと思った。


静かなエレベーターホールを抜けて、新しく出来たばかりのコンビニへ足を運ぶ。店内は静かで、有線の音楽だけがやけに哀愁を帯びて聞こえた。出来たばかりのくせに陰気くさい。わざとそんなジャンルを選んでかけているんじゃないか、なんて勘繰りたくなるような感傷に舌打ちが出た。

冷蔵の扉を開け水のボトルを放り込み、アイスロックも入れて。重いくらいのビールの缶を入れたカゴを持って、無人のレジカウンターで辺りを見回した。
一人として客も店員も見当たらない。どうせこの時間帯の客は少ないからと、休憩室に引っ込んでるに違いない。客がいないのはこの時間にはままあることで、何も今日に限ったことじゃない。
ただそれだけのことだ。それだけのことなのに、得体のしれない寂寥感があたしを支配した。

奥にいるんでしょう?さぼってないで、さっさと出て来てよ。感傷的になっていた気分も手伝って、急に腹立たしくなって。それから、言葉には表しようもない、どうしようもない気分になった。

別れの歌を奏でる有線。白々しいぐらいの蛍光灯。無関心を貫いた空気。誰もいない空間。あたしを必要としない、場所。

たったひとり。置いてかれてしまった、あたし。

「――つ」

涙は、不意を突いて流れ落ちた。感傷的過ぎる。馬鹿だと思った。これは夜だからだし、細く流れ聞こえる曲の効果だし、そんなものに流されるなんて馬鹿げてる。

でも意思とは無関係に頬を伝う涙は、止めようもなくて。拭うことも忘れて、カウンターの前に呆然とあたしは立ち尽くした。泣いたって何も変わりはしないのに。余計に、惨めさが増すだけじゃないか。

このままじゃ嗚咽に変わってしまうかもしれない。どこか他人事のように考えたあたしの目の前に、「いらっしゃいませ」唐突に人影が映り込んだ。

滲む視界の先にクリアさはなくても、白い壁の前に立つ青い服は、店員の制服だとすぐにわかった。

2009年03月09日(月)
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