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■ アクアリウム3
いつ出て来たのか、と思う間もなく、店員はカゴの中の物をレジに通していった。慣れた手つき。繊細そうな指先。顔を見なくても、若い男だと思った。どうでも良い事だけれど。
「あ」
少しだけ驚いたような声に、僅かに目線を上げた。 目の前に立つのは、やっぱり若い男で、白色の安っぽいライトが作り出す光に、髪が金に透けて見えて。
あまり高くない位置からの視線が、あたしを真っ直ぐに捉えた。見返した相手の顔は、全く見覚えがなかった。
色見の薄い相手の目が、不躾な視線を遣してくる。見ず知らずの他人にじろじろと見られて、不愉快だった。何よ。そう思ったけれど、それを口にする前に、自分が今どういう状態なのかを漸く思い出した。「…っ、」慌てて俯き頬を拭う。冷えた肌が、かさつく。最悪。急いだせいで、目まで擦ってしまった。
妙な気まずさに、溜め息が漏れそうになった。けれど俯いたあたしをよそに、店員は何事もなかったかのようにレジを動かした。
一度止まってしまった無機質な機械音が再び鳴り出す。濡れて擦った目はきっと酷い事になっているに違いなかった。手の甲を見れば、べたりと付いたマスカラとシャドウが滑稽だった。
早く帰りたかった。顔を洗って、全部落としてしまいたかった。
店員は何も言わなかった。そりゃあそうだ。あたしだって深夜に一人泣いてる人間なんか、関わりたいとは思わない。
有線は小さく音量を絞られていて、やけに遠く感じた。胸を占めた感傷が甦る。あたしは、一体何を寂しがっているのだろうか。 無関心は心地良くて、時に優しい。それなのに、涙は曖昧なルールを破ってしまったような気がした。
一度も顔を上げる事無く、支払いを済ませる。差し出された袋を半ばもぎ取るようにして、背を向けた。早く帰りたかった。
「ありがとうございましたー、またお越し下さいませ」
もう何事もなかったような声音に、何故だかほっとした。決まりきったおざなりな台詞に押し出されるようにして開いた自動扉の向こうに出てしまえば、また薄闇があたしの身体を包みこんだ。
高々数十分しか空けていなかった部屋は、妙に冷え切って静かだった。リモコンを手にして、適当な曲をかける。それから缶を一つ手にして、残りは冷蔵庫に放り込む。冷蔵庫を閉じる音が、軽々しい。吐く息はやけに重く、けれど白々しかった。
化粧を落として、冷たい水で顔を洗った。何度も何度も、そうした。
テーブルに置きっぱなしになっていた鏡を見下ろせば、鎖骨に朱く薄っすらと付いた痕が目に入った。澤村が戯れに付けた物だろう。愛してもいない女への独占欲のような行為は、虚しくないのだろうか。そう考えて、はたと気付く。違う。虚しいのは澤村ではなくて、あたしのほうなのだ、と。
そう思えば急にその朱が嫌らしいものに思えて、爪先で強く引っ掻いた。 こんなことされるのは、好きじゃない。ビールも好きじゃない。独りも好きじゃない。
煙草を呑むのも、酒を飲むのも、澤村に教えてもらった。
元々そんなに強いわけでもなかった。店で働いている時でも、アルコールはほとんど軽く口づけるだけで、飲み干した回数なんて数える程でしかない。けれど、この夜は不思議と次々と喉を通っていきそれを良いことに体に流し込んでゆく。
三本目の缶を持つ指に、力が篭もった。一人で飲むなんて、滅多にしない。くだらないテレビをBGMに、琥珀色の液体を嚥下していく。半ば強制的に。酔えば忘れてしまえる。
『今日あいつの誕生日なんだ』
その言葉と、澤村の鞄の中に入っていた、小さな包み。苛々する。キスマークにも、今のこの状況にも。独りになりたくない。なのにあたしはそれを選ぶ。矛盾した気持ちが、まぜこぜの絵の具みたいに胸の中を占拠する。
じめついた思考。くだらない。全部吹き飛ぶくらい、わからなくなってしまうくらい、酔ってしまいたかった。
空になった空き缶をゴミ入れに入れようとしたところで止まった。溢れかけた缶。
ああ、そうだ。空き缶を出しておかなきゃならなかったんだ。明日――正確に言えば今日だ――は、缶の日だった。前回は忘れて出せず仕舞いで、その分も未だキッチン脇を占拠している。今月はさすがにそれは困る。澤村は、だらしのない女は嫌いだから――。
朝になったって、きっとあたしは起きないだろう。それだけは酔っ払った頭でもわかりきったことだった。出しておかなきゃ。出さなきゃ。こんな状態でも澤村の嫌う女になりたくないと思うあたしは、どうしようもないくらい彼に溺れてるのだろうか。
収集所はマンション玄関の横にある。こんな時間に出すのも規約違反らしいのだけど、今までそんな規約守った事なんてなかった。
少し足元がふらつく。
幾分肌寒さを感じる夜風も、酔いを醒ますにはいたらない。良い気分にも程遠い。
幾ら飲んでも今日は嫌な日。缶を入れた袋を置いて、フェンスを閉じた。きぃ、という軋みが、今はやけに響く。ああ、うるさい。
たったそれだけのことなのに、何だか凄い重労働なことをした気がする。酔いが回ったせいだろうか。とにかく、元々あたしは、強くないのだ。
足元がおぼついていないことにも、漸く気付いて立ち止まる。重心がとれてない。
少し休みたくて、玄関口に座った。コンクリートの階段の冷気が、薄い衣服越しに這い上がる。
煙草、と思ったけれど、生憎ジャケットのポケットは膨らんではいなかった。そこまでの常習性はないらしい。
澤村の妻は煙草を呑まない。『家では大っぴらに吸えないんだ。だから由理といると楽なんだよな、俺』
そう言われた時は、舞い上がっていた。嬉しいと思う自分がいた。あたしとの居場所は安楽なんだと、思っていた。専用の灰皿。専用のスリッパ。 『楽なんだよ』 その言葉の本当の意味に気付いたのは、随分と後だった。 薄く笑う。安楽なんじゃない。気楽なのだ。軽く付き合っていられるって、ただそれだけのことなのに、一年前のあたしは馬鹿みたいに浮かれて。 でも、気付いてしまっても、あたしの部屋も、あたしの心も澤村に占拠されていた。 紺色の空には、星は一つも見えなかった。
2009年03月15日(日)
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