蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 アクアリウム1

BLUEMOONでは「水槽」というタイトルで掲載。

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「由理は今年幾つになるんだっけ」
「え?」

ふと漏らした澤村の呟きに、新しい缶を開けようとしていた手を止めた。

「年だよ、年」

彼の手には開けたばかりのビール缶が、握り締められている。見てるだけで、体温で温くなりそうだった。

澤村は男のくせに――本人に言ったら偏見だと笑われた――体温が高い。
温くなったアルコールに不満を言わない男を初めて知った。

「二十になるの――」

「まだそんなか、若い筈だよな」

遮るように、澤村が笑った。実際、遮ったのかもしれない。

「……まだって。澤村さんはおじさんみたいなこと言うのね」

明日が誕生日だと言うつもりだったのに、相手に知りたい素振りがなさそうだと知って、言わないことにした。僅かにした落胆は、自分の中から追い出す。

「どうした?」
「なんでもない」

ごまかすように笑って見せて、缶の中身を一息で半分飲み干した。苦い。でも妙な息苦しさを潰すには、ちょうど良い苦みだった。

「三十七は、二十歳の女の子からすれば、充分過ぎるくらいおじさんだろう?」

まるで他人事みたいな呑気さで話し続ける。少し眺める。浅黒い肌。高い鷲鼻。どこをとっても、男を感じさせる横顔。
澤村はとても自信家だった。自分が当て嵌まらないと知っていて、あくまで客観的な視点として口にする。

精悍さを失わない容姿は、その内面から滲みだしているのかもしれない。

お金が欲しくて働いていた店の、常連客だった澤村一志と付き合ってもう一年近くなる。

彼には、家庭がある。小さい子供もいるらしい。典型的な浮気相手。それがあたしだった。

『この後、会えるだろう?』

二人きりで初めてかけられた言葉は、強引だけど嫌悪はなかった。
当たり前みたいにホテルに行って、それからずるずると付き合い、あたしは夜を澤村に渡したくて店を辞めた。

澤村は気紛れにやって来る。連絡があったりもするし、唐突な時もある。外で会う事はほとんどない。この部屋で食事をしてお酒を飲んで、それから――…。

「由理」

あたしの名前を呼ぶその声が、とても好きだ。三十代後半の澤村は精力的で、とてもアグレッシヴで。だから若い女が好きなんだと平気で豪語するような、自我の持ち主だった。

友達からは呆れられた。いいように遊ばれてるだけじゃないのって。それでも、遊びも女も知り尽くした澤村のような男に執心されるのは、女として悪い気はしないし、寧ろ快感を覚える。

他の女とも関係を持っている、といつか聞いた。誰かから聞いたのかは忘れたけれど、まだ店に勤めている頃の常連達の誰かだろう。だけどあたしは素知らぬふりをする。あたしは多分、とても都合が良い。でも終わりにしようとは思わない。終わりにしたいとも思わない。

「お前といると、息が出来るようだ。俺の年代になるとさ、何でも責任、責任だろう? 息が詰まるよ正直。職場でも、家庭でも」

とって付けた言葉に、あたしは微笑する。真意を探る必要はない。
そんな事をすれば、息の根を止められるのは、あたしの方だ。

毎日が息苦しくて、水の中でもがいているような気がした。泳げない人魚。最後まで選ばれることのなく、終わる。水泡に帰すかもしれない想い。でも引き替えせないところまで、とうに踏み込んでいた。

「由理」

使い分ける猫撫で声が耳を擽る。そうわかってるのに、嬉しくなる。

「…ん」

「可愛いなお前は。素直で、綺麗で、愛しい。出来るなら外に連れ歩きたいぐらいだ。どうして先に、お前に会えなかったんだろうな…」

粘り着くようなキス。
あたしが吸っている銘柄とは違う、煙草の味。ビールとは違う苦さに眉根が寄った。力強い雄の匂い。理性を崩すような、偽物の愛。

熱くなった舌があたしの咥内を隈なく滑っていき、肌に触れるごつごつした指が堪えようもなく気持ちを昂ぶらせてくれる。

「……つ」

「どの女よりお前がいい。お前じゃないと俺は駄目だ」

所詮は女は割れないイレモノ。どれだけ淫らに男を誘って締め上げられるのか。澤村はその程度の認識しか持っていない。どれだけ愛を囁いても、それらは全てニセモノ。それでもいい。それでも良かった。
極上のイレモノでさえいれば、澤村はあたしに会いに来てくれるのだ。

「さ、わ」

「愛してるよ。由理」

のしかかる重く逞しい身体。女の快楽をまるで無視した乱暴な所作に、あたしの体は悦だけを見せた。

彼の妻は淡泊で子供にかかりきりなのだと言う。

『妻としては愛してるけど、女としては愛せないんだ』

不倫をする男は、皆同じようなことを言う。いつか寝た男も同じような言い訳をしていた。それが理由として成立するか否かではなく、彼等は一様に女に甘受して欲しいのだ。

あたし達が今だけの存在であることを、自ら口にすることなく受け入れさせたいだけ。

女はイレモノ。

「…何を笑ってるんだ?」

揺さ振りながら、澤村が尋ねた。

「は…っ、なに――も」

曖昧に笑って「そうか」とだけ告げる男に、あなたの卑怯さとあたしの馬鹿さ加減を嗤ったのだと言えば、どんな顔をするだろうか。歪めたままの唇が、きつく、吸われる。

「集中してくれよ」

少しだけ苛立ちを含んだ囁きを最後に、あたしは笑うことをやめた。

男の性欲は理性とは全くベツモノなんて、わかってる。その場限りの愛をどれだけ囁けるのかも。澤村が、全部あたしに教えた。

「っ…、あたしのこと、好き…?」

「あぁ、当たり前だろう?何度言えばわかる?」

澤村はあたしを愛していない。何度『愛してる』と聞いても、それだけは変わらない真実だった。

「……つ」

お前はただの、綺麗なイレモノ。薄く目を開いた先に見える澤村の目は、いつもそう告げているように見える。そこから目を逸らすようにして、閉じた。彼の目は彼の言葉より饒舌で、正直だった。だから、怖かった。

強い雄と汗の匂い。優しく頬を撫でる大きな掌が、瞼に触れる。息を何度も吸い込んだ。上下する胸の動悸は、目を閉じていても激しいことがわかる。唇に感じる息と――煙草の香り。いつからか、この匂いに安心するようになった。
まだ彼はあたしの傍にいる。手の届く傍に。


澤村は、あたしを愛してない。そして、見てもいない。

2009年03月08日(日)
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