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■ 僕ら
大事な人を探してください。彼女はそう言った。
しょうらいのゆめ。 ぼくは、だれかのやくにたてるような人になりたいです。 こまっている人や、かなしんでる人を、たすけられるような人になれたらいいなとおもいます。
玄関の簡易ベルが鳴り、来客を告げる。予熱完了したオーブンの扉を開けたところで、僕は玄関の扉に視線だけやった。
「お客だね」
僕の言葉に奥の部屋から、キリヤが顔を覗かせる。 どうやらシャワーを浴びていたらしい彼は、濡れた髪から雫をぽとぽとと落とした。
「誰って?」 「さあね、知らない」 「出ろよ」
キリヤが目を細めて、僕を睨んだ。 溜息を吐く。何て面倒な。今から焼かなければならないバナナケーキを後回しにしろと言うのか。 ふわふわの長い毛足のついたスリッパを履いたまま、鍵の掛かっていない扉を開ける。 この部屋を借りてすぐ、キリヤが暴れて壊してから、この部屋に鍵は掛からない。
大きく開けた扉を避けるようにして後ろに下がった人影を見て、僕は先程のキリヤのように目を細める。
「こんにちは」
綺麗なソプラノが、僕に向かって挨拶をした。
「…こんにちは」
鸚鵡返しにそう言ってから、相手を頭から爪先まで眺める。 緩やかな巻き毛に、ふわりとした白いスカート、それに薄水色のニット。顔は可愛らしい。年上に可愛がられ、年下に疎まれる、そんなタイプ。年は二十歳になるかならないか。それから、おそらく――。
一秒くらいの間にそれだけの事を頭に浮かべ、思い出したように僕は「何か用ですか?」と笑みを彼女に向けた。
「会いたい人がいるの」
寂しげに笑って、彼女が唐突にそんなことを言った。
「とても、大事な人なの。それなのに、いつのまにかはぐれてしまって」
穏やかに見える薄桃色の紅を引いた唇が、ぱくぱくと開閉する。 それから茶色の瞳が、僕をじっと見つめる。
こういったことは珍しくはなく、かと言って慣れるわけでもなく、僕はどう答えようかと戸惑い立っていた。
僕と彼女の間に、風が吹く。 ぽってりと柔らかそうな唇が、少しだけ震えていることに気が付いた。
「いいよ。会わせてやっても」
答えたのはキリヤだった。 背後からもたれるようにして、僕と顔を並べる。 キリヤからは、空の匂いがした。 予想したとおり、彼女は僕らを見て少し驚いた顔をした。 それは、ほんの一瞬だったけれど。
「双子、なんですね」
そう、僕たちは一卵性双生児だ。 寸分違わない容貌と華奢な体躯と、それから声を有する。僕が兄で、キリヤが弟。 性格は随分違うけれど、小さい時から他人は僕らを見分けられない。 そうなるように、僕らは互いに演技をする。
「そーだよ。珍しい?」
キリヤが笑って、僕の頬を撫でる。 触れた指は冷たく、顔にあたる伸びた前髪はまだ湿りを帯びていた。
「ええ。こんなに不思議なのは」
彼女がこくりと頷いた。少し翳りのある笑みだった。
「それが俺たちさ。遇わせてやってもいいけど、タダじゃヤだな。何かくれないと。そうだ、あんたの大事なものがいい。嘘は駄目だ、すぐに分かるからね。命と同じくらい大事なものをくれれば、それでいい」
「キリヤ」
彼はすぐに交換条件を持ち出したがる、悪い癖だ。
「そんな話よりお前は何か着たほうがいいよ」
僕は彼を見てそう言う。 グレイのスウェットパンツを履いただけで、上半身は素肌のまま。 家とは言え、客の前じゃないか。それに、そのままでは風邪を引いてしまうだろう。
「うるさい、黙れ。さて――どうする?」
余計な口を挟むなとばかりに僕を一睨みしてから、彼は彼女へと視線をやった。
「大事な、もの」
独り言のように繰り返してから、彼女は宙に視線を彷徨わせる。 無いのではなくて、迷っているように見えた。 それでも決心がついたのか、手にしたバッグから封筒を取り出した。
「今の私には、これくらいしか用意できないわ。これで、お願いできる?」
厚みを帯びた封筒を差し出し、お願い、と彼女はもう一度呟いた。
「OK。それでいい、契約完了。あんたの望みもすぐに叶うよ」
とだけ言ってキリヤが僕から離れる。 するり、と僕の背を撫でていくことも忘れない。 彼が奥へ引っ込むと、縋るような目をした彼女を見て、僕はいつものように手を伸ばす。
「はぐれてしまった人は、あなたの何?」 「婚約者なの」
花が開いたような微笑に、僕も釣られて微笑む。大事な人なのだ、と言った言葉に嘘はないようだった。
「ずっと手を繋いでいたはずなのに、目を開けると彼がいなくて」
「……会えますよ」
それが、僕からの最後の言葉だった。
開け放ったままの扉から流れ込む光は、刃の煌きのように見えた。 それは僕の手から発せられる光より、ずっと純粋で清浄なものだ。
彼女に向けてかざした左手は、不自然な歪みを空間に生んだ。 その歪みを見て、彼女は「ああ、やっぱり」と言ったように聞こえた。
左の掌をだらりと下げる頃には、彼女の姿はもうどこにもなかった。
「向こうで、会えるといいんだけど」
やっぱりいつものように、僕はそう呟く。 キリヤは嘘をついた。 必ず会える保証なんて、ありもしないくせに。
僕らは誰かの望みを叶える。 困っていたり、苦しんでいたり。そうした理由の根源を取り除いてあげる、セラピーみたいなものだ。 だけど救えるとは、限らない。 僕に出来るのは、向こうに送ってやることぐらいで。
右手に残った封筒は、綺麗に封をなされている。 ペーパーナイフで開けた中から、指輪が一つ僕の掌に落ちた。 けっして高価ではないはずの、けれどどこかぬくもりを感じる小さなダイヤリング。
彼女は知らなかったのだろうか。 手を繋いで一緒に命を落としても、同じ場所には向かえないことを。 知らずに、自嘲する。 そんなことは愚問だ。 知っていればここに来ることなど、なかったに違いないのだから。
「バナナケーキは?」
見計らったように、服に着替えたキリヤが僕の前に現れる。
「今から焼くところだよ」 「今から? 何やってんだよ、早く作れよ」
用意は済んでいたのだ。それを邪魔したのは先程の彼女であり、キリヤなのに僕が文句を言われる理由がわからない。 僕はそれらの悪態を口の中で呟きながら、オーブンにトレイをセットした。
そっとリングを左手に包み込む。 これはあなたに返しておこう。
2008年02月19日(火)
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