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■ 無題(8)
ハルちゃんから聞いていたらしく、あたしが部屋にいたことにシュウスケは驚かなかった。少しだけこちらを見てから、鞄を置く。何が入っているんだろう、と思うくらいにそれは薄っぺらい。
「あ…」
お帰り、と言う前にシュウスケが遮った。
「疲れた」 「ずっと練習してたの?」 「ああ」
シュウスケは普段そういうことを言わない。だから本当に疲れているんだろう。クラリネットの入ったケースを大事そうに床に置いてから、「お前、今日こっちで飯食うの?」制服の上着を脱ぎ、服を着替え始める。
「うん。ハルちゃんがね、こっちで食べればいーって言ってくれたから。…着替えるの?」 「あ? ああ、そうだけど」
何となく言った自分の台詞に赤くなった。一度だけでもしたことは事実。だからってそんなことと結びつけるのは、おかしいと思うけど。シュウスケは変な顔してあたしを見てから、
「馬鹿じゃねえの」
きっと、呆れた顔しているに違いない。
「だって」 「着替えてるだけだろ、何気にしてんだよ」 「そーだけど」
たいした時間がかかっているわけでもないのに、やけに長く感じて俯いたり天井を見上げたりと、挙動不審なことこの上ない。だいたいこういう気恥ずかしさって、女の子が感じるものなんだろうか。男が思うならともかく、あたしがこういう態度を取る必要はないような気がする。
そうだ、普通にしてればいいんだ、普通に。できるだけ今まで通りに。ああ、でも駄目だ。今まで通り過ぎても困る。
「マヒロ」
そんなことを考えていれば、不意にすぐ近くで名を呼ばれ、ぴくんと反応してしまった。「シュウ――」振り返ろうとしたのに、背中から暖かな腕が体に巻きつき、動けなくなった。
「どーしたの…」
夏の日の記憶が蘇る。 初めて、手を繋いだ日。 初めて、肌を重ねた日。
返される言葉はなくて、ただ強く抱き締められる。唐突のことに、どうしようもないくらい心臓が煩く跳ねる。何か、言って。
「あ、あのね」
何か言わなきゃいけない、と思った。開いた唇は結局何も言葉を生み出せないまま、俯いてしまう。下を向いた視線の先には、シュウスケの腕が見えた。勿論嫌なはずはない。でも、何故だか居心地は良くなくて。
シュウスケの胸があたしの背中にあたる。でもシュウスケは、きっとどきどきなんてしてない。それはわかった。こんなに近いのに、二人とも黙ったまま、時間だけが過ぎる。
何か、言って。
「――ごめんな」 「え?」
長く感じた沈黙の後、ぽつり、と零された言葉。
「ごめん」
そんなことを。言って欲しいと思ったわけじゃなかった。
2007年12月13日(木)
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