ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2008年03月09日(日) 聖日礼拝

「主はその夜、彼に現われて仰せられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。』」 創世記26:24


メッセージ題 「イサクの井戸」 

祝福の源になったアブラハムに与えられた一人息子のイサク、そのイサクのことに関する記事は、聖書にはそれほど多くはありません。しかし少ない記事の中に、彼の人柄といいますか、信仰の姿勢がはっきりと描き出されています。
イサクはペリシテ人の住む地域で生活をしておりました。そこで神様はイサクを大いに祝福し、収穫を与え、家畜を増し、しもべも多く与えたのです。それを見たペリシテ人たちはイサクをねたみ、父アブラハムの時代からの井戸をふさいでしまいます。イサクは黙ってそこを去り、別の井戸を掘りますがそこを取られてしまい、また別の井戸を掘るのですが何とそれも取られてしまいます。そしてさらに別の場所で井戸を掘り、ようやくそれが自分のものとなるわけです。この様子を見てペリシテの王は、和解を申し出てくるのでした。
イサクは子供の頃から、柔和な性格だったようです。父アブラハムにモリヤの山で犠牲にされかかっても、抵抗した様子はありませんでした。しかし私は、イサクは単なる柔和とか、平和主義者だとか、そういうことではないと思います。彼は神様と常に共に歩み、そしてそこから流れ出る恵みによって、他者との平和を築いていった人ではないだろうかと、そのように思うのです。
私の神学生時代のお話しです。神学校は、全寮制でした。毎朝、寮や学び舎を掃除します。備え付けのゴミ箱には、きちんとゴミ袋を取り付けます。ある朝私が掃除をしていると、一人の神学生がゴミ箱にゴミを投げ入れていました。よく見ると、そのゴミ箱には、ゴミ袋が取り付けてありません。ゴミ袋が取り付けられていないなら、きちんと取り付けてからゴミを捨てなければならないわけです。しかし彼はそれを怠っていたのでした。私はその様子を見て頭にきて、つい声を荒げて注意をしてしまいました。すると彼はすぐに、「ごめんね、ボクが悪かったよ」と頭を下げたのです。私は正しいことを言ったのですが、かえって彼に教えられた思いがしました。私は正しくとも、上から下を見るような思いで彼に声をあげました。ところが彼は、へりくだって私との間に平和を築いたのです。
主にある柔和さとは、こういうことではないかと思います。神様と和解し、他者と和解して生きるイサクは、アブラハムの祝福を受け継ぐ者となりました。私たちもまた、神様の祝福を受け継ぐ者とさせていただこうではありませんか。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行



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