ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2008年02月24日(日) 聖日家族礼拝

「「それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお『主の山に備えあり」と言う。』」 創世記22:14 


メッセージ題 「主の山に備えあり」 

先週からユダヤ民族の話に移ってきたわけですが、救いの源流であるユダヤ民族の父祖アブラハムに待望の子、イサクが与えられたというところまでお話しをいたしましたね。
ところが驚いたことに神様は、イサクが少年になった頃、そのイサクを動物犠牲の代わりとして捧げよとアブラハムに告げたのです。神様が与えたものなのに、それを自ら奪い去るという残酷な命令でした。アブラハムがどれだけ戸惑ったのか、想像もできないほどです。しかしアブラハムは、神様に従う道を選択します。そして実際にモリヤの山に行き、その子イサクを祭壇に置き、手をかけようとしたその瞬間、神様はストップの声を発せられました。自らの命よりも大切なものさえも捧げようとするアブラハムの思いを神様は受け取り、身代わりの雄羊を備えてくださったのでした。
 私は先週、とても高い熱が続き、5日間寝込んでしまいました。それで寝込んでいる時間を無駄にしたくないと思い、前々から読みたかった三浦綾子さんの『千利休とその妻たち』の上下巻を一気に読んでしまいました。そこには、千利休の後妻がキリシタンであったこと、そして利休の茶の湯にはその妻が大きく影響していたということが書いてありました。例えば利休は小さな二畳ほどの茶室に、本当に小さな戸口から入るような仕組みを考案したのですが、それは天国にはへりくだる者しか入れないということを念頭に置いたからだというのです。なるほど、刀などを腰につけたままでは、小さな戸口を通って茶室に入ることは出来ません。同じように、神の国には色々なものを持ったままでは入れないのです。
 私たちは、自分の価値観を第一として、その範囲の中に神様を収めようとします。しかしそれはとんでもない見当違いで、神様を第一とすること、そしてその中に自分という存在があるのです。神様は、神様を第一として生きる者を必ず祝福してくださいます。神様を第一としたアブラハムに、神様は結局イサクを戻してくださいました。それどころか、ユダヤ民族の父祖としてくださり、さらには全人類の救いの源流としてくださったのです。
 神様を第一としながら、お互いの日々の歩みを進めて参りましょう。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行



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