「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。」 ヨハネ21:4
「岸辺に立つ」
やりきれない夜、悲しみの夜、いつまでたっても明けないように思える夜・・・そんなつらい夜を過ごした経験は、誰にでもあるでしょう。ペテロもそんな夜を過ごしていました。彼はイエス様の一番弟子でしたが、十字架を前にしてイエス様を「知らない」と言って三度も裏切ってしまいました。イエス様は三日目に復活されましたが、だからといってペテロの後ろめたさが消えるわけではありません。彼は復活の主を素直に喜べず、心に暗闇を持ったまま、明けない夜を過ごしていたのだと思うのです。 そんな彼は、ある日漁に出ます。ペテロは元漁師ですが、漁師に戻ろうとしたわけではないでしょう。モヤモヤした気持ちを紛らわすため、あるいはイエス様と出合ったあのガリラヤ湖に戻って原点を見つめ直すため、漁に出たのかも知れません。そんなペテロでしたが、一晩漁をしても、何も網にはかかりませんでした。やりきれない夜が、またしても彼を疲れさせたのです。 しかし夜が明けた頃、復活の主イエス様は岸に立っておられました。やりきれない、暗闇だけが支配するように思えた夜は、いつの間にか明けていたのです。そしてそこには、イエス様の愛がありました。こうしてイエス様を見出した彼は、救いの主を心に受け止め、主の愛に生きることを再確認し、その後は命をかけてキリストを宣べ伝える者とされたのでした。 私は若い頃、ちょうど思春期の時代ですが、親不孝を散々重ねたことがありました。今は自分が二人の子を持つ親になりましたので、自分がしたことの罪深さを痛切に感じます。しかしその頃は、ただ反抗するだけの青春時代でした。しばらく家出をしたこともあります。長い家出に疲れ、お金も底をつき、家に帰ってみると、母が家の前に立っているではありませんか。「今から帰る」と電話したわけでもないのに、立っているのです。そうです、母は毎日私の帰りを家の前で待っていたのです。これが親の愛なのだと、今では心から感謝しています。 私がすぐに良い人間にならなくても、家に戻っただけで母は充分でした。イエス様にとって私たちもまた、同じようなことだと思います。裏切り、罪深い私たちを、それでも「そこにいるだけでいいのだ」と言って愛し、赦し、受け入れてくださるという、これが主の愛であり、赦しの恵みなのでしょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 牧師 榊原宣行
|