ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2007年09月09日(日) 聖書礼拝

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 ヨハネ12:24

「一粒の麦」

 麦は、日本人にとっても欠かせない食材ですね。麦茶、麦飯、麦そば、麦パン、麦チョコなどなど、これらは日系スーパーに出かければどこででも目に入るものです。そんな食卓を豊かにする麦製品ですが、もともとは小さな一粒の麦が畑に蒔かれるところから全てが始まっています。
 この聖句は、イエス様が十字架を前にして言われたものです。生き返ったラザロの兄弟マリアは、葬りの準備としてイエス様の足に香油を塗りました。そして日曜日、イエス様はエルサレムに入城し、人々は「ホザナ」と叫びながらイエス様をお迎えしました。この金曜日に、イエス様は十字架にかかられました。イエス様は、神様が人となって地上に来られたお方です。そのお方が地上に蒔かれ、十字架で死んだことによって、永遠の救いという大きな実が結ばれました。こうして私たちは、天国への希望に入れられたのです。お方が死んだからこそ、救いの出来事は完成したのです。
 イエス様は私たちのために、一粒の麦になってくださいました。ですから私たちもまた、一粒の麦となろうではありませんか。私たちは、家族の中に、親戚の中に、会社に、友人知人の中に、そしてこのベイエリアに、日本人社会の中に蒔かれた種です。その種が種としての役割を果たす、つまり蒔かれた場所において芽を出す役割を果たしたならば、それは必ず豊かな実を結びます。それは個人個人の役割であり、地域の中での教会が持つ役割でもあるでしょう。
 種は、蒔かれなければ、そして芽を出さなければ、役立ちません。役立たないどころか、いつか腐ってしまいます。信仰とは、それと同じようなものです。自分の中にだけ主の恵みを溜め込んでいたら、それは主の御旨にかなった生き方とは言えません。あなたが遣わされた場所、蒔かれたそのところで目を出し、役目を果たす時、その芽はやがて豊かな実を結ぶことでしょう。もちろん、育ててくださるのは神様ですから、力んで疲れることはありません。主にゆだねることが大切です。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行



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