| 2007年08月05日(日) |
「いのちの光」 聖日家族礼拝 |
「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」 ヨハネ8:12
「いのちの光」
この聖句は、“仮庵(かりいお)の祭”の中で言われたものです。その祭りとは、収穫祭とも言われ、収穫を感謝する祭りです。それと同時に、かつてエジプトで囚われの身であったユダヤ人が神様によって救出された、そのことを記念する祭りとして大切にされているものです。エジプトを脱出した民は、荒野で仮の小屋に住み、旅を続けました。そういう苦難を思い出し、救い主である神様の恵みを忘れないように、この祭りは祝われていたのです。その最中、イエス様は「私こそがまことの光です」とおっしゃいました。出エジプトの時、神様は昼は雲の柱、夜は火の柱となって、常に彼らを導きました。そのように、イエス様こそが永遠の世界への導き手として、私たちを照らし出すのです。 この聖句の前には、姦淫の女の出来事がありました。姦淫の罪を犯した女が、公衆の面前に連れてこられました。そして宗教者たちはイエス様に向かって、この女をどうしたら良いと思うか迫ったのです。もしイエス様が許せば、ユダヤの律法を破るのか(=旧約聖書を退ける=神に背く)と責め立てるつもりでしたし、もし律法に従って殺せと言えば、「愛がない」だとか、また「ローマの規律に背いて勝手に裁くのか、反逆罪だ」と罵ろうとしたのです。どちらに転んでも責めを負うような状態の中、イエス様のおっしゃった回答は意外なものでした。それは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」というものでした。罪の無い人間などいるはずもなく、人生を長く生きて罪を多く経験したであろう老人たちから去っていき、誰もいなくなってしまいました。 人々の心には、女の醜さと汚さ、またイエス様に対する憎しみや嫉妬だけが支配していました。しかしイエス様は、その女がなぜそのようにしか生きられないのか、その悲しみや痛み、心の叫びに耳を傾けておられたのです。イエス様が女に言った「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」という言葉の「行きなさい」には、原語では「生きて行きなさい」という意味があるそうです。女の毎日は、食べて寝て生きていましたが、本当の意味で生きているとは言えない状態だったでしょう。しかしイエス様は、彼女に光を与え、生きることができるようにしてくださったのです。イエス様は私たちの汚さも、醜さも、弱さも、全て知っていてくださり、それを赦し、愛し、光を与え、永遠の命へと導いてくださるのです。主の十字架と復活を仰ぎ、生きていきましょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 牧師 榊原宣行
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