「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』」 ヨハネ9:3
「主の栄光を現わすために」
イエス様と弟子たちが歩いていると、生まれつき目が見えない人を見かけられました。そこで弟子たちは、目が見えない理由は、彼自身の罪か、もしくは親の罪が原因なのかと質問します。旧約聖書の「ヨブ記」を読んでも、同じようなことが書かれています。友人たちは、ヨブの病は因果応報だと攻め立てるのです。しかしイエス様の回答は、この聖句の通りでした。 星野富弘さんの「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」という有名な詩があります。首から下が全部麻痺した状態で、富弘さんはイエス・キリストを知りました。そして、命よりも大事なもの、すなわちキリストに在る人生の豊かさを知ったのです。そのような生き方をする富弘さんの生涯を通して、主の栄光の業は現され、その姿に多くの人が感動しています。「神のわざがこの人に現れる」とは、このようなことを言うのでしょう。 今も昔も日本では、占い師と言われる人がテレビや何かで、「あなたが不運なのは、先祖のタタリです」とか、「バチが当たったのです」というようなことを、まことしやかにしゃべっています。そして多くの人はそれに影響され、恐る恐る生きていかなければなりません。しかし私たちの主は、人生に恐怖を与えるお方ではありません。それとは全く逆で、その人の人生に栄光の業を現してくださるのです。苦難の理由は、結局この人生では回答を得ることが出来ないかも知れません。でも、主は必ずその人の人生に光を与えてくださるのです。聖書はそれを語っているのですから、私たちお互いはそれを信じ、受け止め、十字架と復活を仰いで参りましょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 牧師 榊原宣行
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