「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」 ヨハネ4:13〜14
サマリヤとは、北イスラエルの末裔の人々の居住区です。ある日イエス様は、そこを通られて、一人の女性と出会いました。南ユダの末裔であるイスラエルの人々(現在のイスラエル、ユダヤ人)は、サマリヤなどは通りません。彼らは互いに敬遠しあい、特にユダヤ人たちはサマリヤの人たちを軽蔑していたからです。これは旧約時代の出来事から続いていることで、話すと長くなりますので割愛しますが、いずれにしてもそういう相容れぬ関係だったわけです。ところがイエス様は、主の栄光の業を現すために、あえてサマリヤを通られました。 サマリヤの女は、渇いていました。それは肉体の渇きではなく、心の飢え渇きです。彼女は昼間、井戸の水を汲みに来ました。パレスチナは乾燥した場所で、日中にそのような行動はしません。彼女が昼間にそのようなことをした理由は、誰にも会いたくなかったからです。イエス様との会話で、5人の夫が過去にはあり、現在同棲している相手もいるということがわかります。そのように、彼女は自らの心の渇きを満たすために、快楽やこの世的な安心感を求め続けました。一時的にそれは彼女を満たしたでしょうが、すぐになくなり、また次に求めるということを繰り返してきたわけです。 これは2000年も前の話ですが、今も全く同じです。人は心を満たそうとして、富に、名声に、異性や快楽にそれを求めます。しかしそれは、すぐに乾いてしまうものなのです。しかし、イエス様が与える救いの水は、決して渇きません。そればかりか、泉となって永遠のいのちへと導くのです。その泉を得るために私たちがすべきこと、それはキリストを仰ぐということだけです。そんな都合の良い話があるのか・・・と思う必要はありません。神はそれほどに私たちを愛しているのですから。 以前私がNYに行った時、宿の主人が、「サムライっていう人から電話があって、来週泊まりたいっていうんだよ」と笑って言うのです。「え?サムライさんですか?そんな人、いるんですか?」と私が聞きなおすと、「そうなんだ、私も不信に思って何度も聞き返したけど、サムライだと言い張るんだよ」と笑うのです。でも実はその人はサムライではなく、サム村井さんという日系人でした。とんだ勘違いに、二人で大笑いしたことでした。 今日のイエス様のみことばは、勘違いなどではありません。事実であり、真実であり、唯一の救いの道なのです。もしかしたら、クリスチャンであっても、「私はダメだ」「こんなことでは救われていまい」などと自信をなくしているかも知れません。でも、心配しないでください。イエス様が「救う」と言った約束は、絶対なのです。主が与える泉は、今までも、今も、これからも、満ち満ちてあなたの心をうるおし続け、永遠へと導きます。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
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