なんとか毎日

2007年03月21日(水) 兄弟で、、

私には、6つ違いの弟が居る。
もう30代前半であるが、市民病院に内科医として勤務しながら
再度、某国立大学医学部の大学院を受験し、院生として研究しながら
付属病院で内科医の勤務もしている。
なんやかんやでいそがしかったのだが、4年もつきあっている彼女も
おり、この5月で結婚する。
で、その関係で、母とうちあわせやなんやかやで電話で話することが多く
なってきている。
そのときの話、、、
以前、大学院の研究発表で(教授のおともで)アメリカに出張したと
聞いていた。
そのとき、大学院を代表して、論文をアメリカの学会に提出してたらしい。
所属する大学院からは2名が提出していたらしいが、弟だけが、えらばれ、
5月中旬にアメリカ学会で発表することになったらしい、、
よく、映画やニュースでやっているのをイメージすればいいのか、

”すごいなあ、、おめでとう、、ってつたえておいてね”

聞いたあとから、祝福する気持ちと、また落ち込む気持ち。

”兄弟でこうもちゃうかあ、、”

まあ、専業主婦と内科医ではスタート地点で違うのだけれども。
そのうち、その世界で有名な人になったら、、、
なんだか複雑、、

弟は両親とは関係がとても良好であった。と本人もいっているし
私のようなわだかまりも持っていると聞いたこともない。
父が手をあげたことはあったろうが、本心で尊敬し、愛し、自分が長男で
家のあととりだ、ということを自覚し、本来文系であったのを
理数系に高校でかえた人だ。
天才はだではないが、とても努力家だし、今の立場がその成果をなにより
あらわしている。
そのかわり、わたしとの関係は、ひどかった。
というか、わたしがいじめていた、、とても陰湿だった、
”姉貴は厳しいひとだったよなあ、、”
さきごろ、母との冗談ででたらしい。
”車のなかで僕がねむくてよりかかると”さわらないでよ〜”って
つきかえされたし、”いっしょにあそびにつれてってといっても
”だれがおまえなんか、、、”といって拒否されたし、、、

それをきいたとき、こたえた。
普通の子供の、あどけない意地悪といえば聞こえがいいが、、
弟が憎かったわけでも、嫌いであったのでもなかったとおもう。
ただ、自分が精神的に孤立して壁をつくっていたため(家族にたいして
弱い立場の弟に仕返し、はけ口をみていたのかもしれない。
両親ももともと、私をあきらめていたのではなく
小学校から中学にあがるとき有名私立にいれようとして、強制的な
勉強をやらせようとした。
けれど、心理的によわかった私は、自由時間がないことでおいつめられ
”自殺”しようとしたのだ。。
”自殺したい”という手紙をなぜか当時の小学校の校長先生に書いて
読んでもらったのだ。
どんな話をしたのかはわすれたが、そんな事件があって、両親は私を
あきらめた。社会的対面もあっただろうし、精神的タフさがないとみきった
のだろう。
中学にはいっても何をやっても平均的、高校もなんとか当時平均的れべるの
公立高校にはいったが、成績はクラスのびりから2番目、、
”こいつはなんとかどこでもいから短大でもでてくれたらいいが”
だったのだろう。。

自分でも自分にいやけがさしていたころだ。
しかも死ぬ勇気もないいくじなし。
体育系のクラブにはいったものの、体力が続かずやめてしまった。
かといって中途から文科系にいまさらはいれない、みんなにおいつけれない
、、中途半端。

そんなころ、はじめて両想いになってつたない付き合いをはじめた
相手がいて、彼と競争する意味ではじめた教科がのびた。

で、なんとか4年生大学にいけた。
純粋にその大学には、その教科の有名な教授がおり、ちゃんと勉強したい
とおもったからだった。
でも、せけんからみれば、単なる女子大の国文科、しかもつぶしが
きかない4年制、、
普通に卒業し、見合いし、嫁にいけ、、とおもっていたのだろう。

しかし、、、

26,7才ころから見合いはした。
恋愛できない私をみて、母は、いわゆるお見合いセンターに入会させ
紹介されもした。
一般に仲人さんをさがして紹介をたのんだりした。
育った環境がにていれば、、ということで、みな、医者であった。
けれど、そのときの私からみれば、みな、プライドが高すぎたり、年齢が
離れすぎ(相手が年上すぎたり)容姿がこのみでなかったり(これは若気の
いたりだった、、申し訳ないとつくずく今おもう)

そして、なにより、自分には、ひそかに実は恋愛している相手が
いた。
それはひとにはいえない恋愛であった。
そして、その人がなにより、心を大きく占めていたからであった。

結婚したのは39歳
相手は、勿論そのひとではない。
しかし、主人は8歳も年下で、高卒の建築関係の職人、、故郷は
奄美大島というところでご両親の職業も学歴もまったくわたしの家とは
違った、、

猛反対であった、弟もである。
今は行き来しているが、心底でこの結婚をいまだ許してはいない。
それは、親が子の逝く末を心配するあまりだということはわかっている。

しかし、弟にも母にも勿論父にも、私がなぜ、彼を選んだかは
永遠にわからないだろう。
私の苦しんだことがわからないからだ。勿論その人の心のそこの
苦しみはそのひとにしかわからない。
けれど、それが存在し、認めてくれることで、当人は安らぎを得る。

夫とは、趣味もちがうし、いっていることがすれちがったり、いらいら
することもある。育った環境がちがいすぎることが、ことなる価値観が存在する
ということさえ”わからない”ということもありうるという現実にも
直面する。
けれども、私の心の苦しみを話してみて、心療内科やカウンセリングの希望を
話したとき、彼は静かにこういった。

”その人の苦しみはそのひとにしかわからない。ママがそれで、気が落ち着いたり
納得するならばいっておいで”

彼を選んでよかったのだ。

私はエリートではない。
何も誇れることはない。
が、
最終的に家族にいつも救われている自分がいる。
素直に感謝したい。


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