萬葉集覚書

2006年12月18日(月) 11 吾背子は 仮廬作らす

吾背子は 仮廬(かりほ)作らす 草(かや)なくば 小松が下の 草を刈らさね


今あなたは仮屋を立てていらっしゃるけれど、屋根に葺く草が足りないのなら、私が立っているこの松の木の根元の草をお刈りなさいな。



これも10の歌に引き続いて牟婁行幸の際の歌です。
旅の行程が幾日にも及ぶ時、食料はある程度持って行けますが、泊まるところを運ぶことはできません。
現在のようにテントや遊牧民の天幕があったわけではありませんし、ましてや宿泊施設があったわけでもありません。
どこかに寝る場所を確保しなければなりませんが、人が多く住む場所以外はおそらく原生林が広がっていたこの当時は、道といっても獣道程度の人の足が踏みしめたわずかな痕跡があるだけで、確かな道幅が確保されていたわけでも、駅宿の制度が完備していたわけでもありませんでした。
旅の一日は、日が暮れる前にその日一夜を明かす仮屋を建て終わってからでないと、終了しませんでした。
今日、アスファルトの道路の上で一夜を明かしたとしても、それほど濡れることはありませんが、国土の大半が手付かずの自然だった当時、草に結ぶ夜露は雨に降られたほど着るものを濡らしたと想像できます。
そんなことを続けていたら、健康に害があるばかりでなく、野生動物の被害だって考えられたでしょう。
そのための仮屋だったわけです。
屋根に草を葺くのは、製材した板があったわけではないので、柱に渡した横木に小枝を並べて屋根としただけでは十分に風や夜露を防げなかったからでしょう。

この背子というのは、おそらく中大兄皇子を指しています。
皇子本人が仮屋を立てたとは思えませんが、斉明女帝が我が子を案じて作ったと仮託して詠まれているので、こういう呼びかけになっています。


 < 過去  INDEX  未来 >


セレーネのためいき

My追加