<<物憂さと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、立派な名をつけようか、わたしは迷う。 その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、わたしはそれをほとんど恥じている。ところが、悲しみはいつも高尚なもののように思われていたのだから。わたしは今まで悲しみというものを知らなかった、けれども、物憂さ、悔恨、そして希には良心の呵責も知っていた。今は、絹のように苛立たしく、柔らかい何かがわたしに被さって、他の人たちから離れさせる。>> 「悲しみよ今日は」フランソワーズ・サガン 朝吹登美子訳 再読してみたサガンはやはり天才だった。 少女の頃はただストーリーを追っていたに過ぎなかったのだと思う。 スキャンダラスなストーリーの印象しか残らなかった。深く読む能力がなかったのだと思う。 その文章には硬質でありながら、薄いクリスタルが微細に振動するようなフラジャイルな危うさが終始漂っていた。 先日、名前を忘れてしまったのだけれど、北海道出身の少女のアルトサックスプレイヤーがラジオイベントで演奏していた。…天才!夫も驚いていた。天才というふれ込みは聞いていたけれどこれほど…? まだ高校生だという。どうしてその若さで…? で、その天才の名前を忘れてしまうわたしって… 我が家に居ながらにして天才を読み、天才を聴く… この時代って幸福だ。
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