はぐれ雲日記
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2006年05月31日(水) 司馬遼太郎は

「小生は七十になって、自分は『街道をゆく』 の『台湾紀行』を書くために生まれてきたのかな、と思ったり しています」と言っていた。

下関講和条約は日清戦争の後に1895年4月17日締結。台湾が清朝から日本に割譲され、台湾省が廃止される。時の日本側全権大使は、伊藤博文と陸奥宗光。

台湾が日本に統治されていた明治〜大正にかけ祖父は警察所長として台湾に居住。
そこの地で父は出生しました。この当時の祖父のことを調べに台湾を訪問してみたい。

数年前、春まだ浅き都会より、仕事の関係で与那国島に行く機会がありました。
石垣島から飛行機で30分。台湾まで約125キロ。石垣島からは約 127キロ
の位置にある 日本最西端の島です。  
島は昔から“ドナン“と呼ばれてまして”渡難”の字を あててそう読ませるほど
厳しい自然環境にあったようです。
戦後間もない時期 には、与那国は台湾との密貿易で 大いに栄え、1947年には町へと
昇格しました。 ...最盛期には1万人以上の台湾人が与那国へ上陸。
今でも久部良の中学には台湾からの交換留学生がきていますよ。
当時、与那国の人も病院や進学は台湾へ渡っていたそうです。

台湾の見える島。与那国島へきてはるか台湾を望み(たまたま見ることができた)
「海道」を行くわたしなのでした。


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