はぐれ雲日記
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| 2004年08月21日(土) |
☆【声なき声語り継ぎ】戦没者遺族の50年 |
第5部(5)抗議の自殺(下) [1995年06月29日 東京朝刊] 昭和二十一年六月二十日の満州・新京(長春)。旧ソ連軍に留め置かれ、長春第八病院で働いていた
松岡喜身子さん(七七)ら二十数人の従軍看護婦は、絶望のどん底にいた。
その夜、ソ連軍の要請で軍の救護所へ仲間六人と“応援”に行っていた大島はなえ看護婦(二二)が、十一発もの
銃創を受けながら一人逃げ帰り、救護所の実態を伝えて息を引き取った。
「日本人看護婦の仕事はソ連将校の慰安婦。もう人を送ってはいけません」
大島さんの血みどろの姿に、喜身子さんはぼうぜんとし、涙も出なかった。
「ロシア人は日本人を人間とすら扱わないのか…」
だが、悪夢はその翌朝も待っていた。
二十一日月曜日午前九時すぎ、病院の門をくぐった喜身子さんは、病院の人事課長、張宇孝さんに
日本語でしかられた。
「患者は来ているのに、看護婦は一人も来ない。婦長のしつけが悪い」
「そんなはずはありません。見てきます」
胸騒ぎがして、看護婦の大部屋がある三階に駆け上がった。ドアをノックしても返事はない。中へ飛び込むと、
たたきには靴がきちんとそろえてあった。
線香が霧のように漂う暗い部屋に、二十二人の看護婦が二列に並んで横たわっていた。
満州赤十字の制服姿で胸に手を当て、眠っているようだった。寝乱れないよう、両太ももを包帯や
腰ひもで縛っていた。
「死んでいる…」。満州赤十字の看護婦は終戦時、軍医から致死量の青酸カリをもらい、制帽のリボン裏に隠し
持っていた。机上には、二十二人連名の遺書が残されていた。
〈私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます〉
これにはソ連側も驚き、翌日には「日本女性とソ連兵は、ジープその他の車に同乗してはいけない」など綱紀粛正
の通達を出す。
命と引き換えにした抗議の、ささやかな代償だった。
一方、病院からは小さな花束が一つ贈られただけ。葬儀資金にも困ったが、張さんが「火葬、分骨して故郷の両親
に届けてあげなさい」と、一人当たり当時の金額で千円もする火葬代を払ってくれた。
葬儀を済ませ、四十九日を迎えたころ、喜身子さんは、いまだ帰らない看護婦たちが、ダンサーをしているとうわ
さに聞き、そのダンスホールへ向かった。
名前を告げ入り口で待つと、五人が現れた。肌もあらわなイブニングドレスに濃いルージュ。いかにもダンサー然
としているが、青ざめた顔はまるで病人のよう。 「こんな所にいないで、早く帰ってきて」
喜身子さんは説得するが、五人は首を横に振るばかり。ついカッとなり、
「好きでこんなことをやっているの。そこまで堕落したの」とひっぱたいた。
すると、彼女たちは涙を浮かべ、決意を語り始めた。
「私たちはソ連の救護所で毎晩七、八人の将校に暴行され、すぐに梅毒をうつされてしまいました。どうしてこの
体で帰れましょうか。今は一人でも多くの客をとり、この性病をソ連兵にうつして苦しめたい」
喜身子さんは翌日、薬を手に再び訪ねた。が、看護婦である彼女たちは、自分の症状が治るものではないと知って
おり、受け取りも拒んだ。
二年あまり過ぎた二十三年十一月、喜身子さんらが日本へ引き揚げるとき、五人は稼いだお金を駅まで持ってきた
。「旅費にしてください」と無理やり渡し、話も交わさずに去った。そのうち三人はピストルで自殺したという。
喜身子さんは当時、三歳半だった長男、静夫さん(五二)にも看護婦たちの遺骨を入れた木箱を背負わせ、
一歳の長女、 (五〇)を背に日本に帰った。
「二人とも“残留孤児”にさせかねないほど、混乱した状況でした」
夢にまで見た母国だが、軍医だった夫を亡くした生活は厳しい。大島さんを含む二十三人の遺骨を自宅に届けよう
にも、連絡先を記した書類などはなく、記憶だけが頼り。探しあてるのは、雲をつかむような話だった。
そんなときに力になってくれたのが現在の夫、松岡寛さん(七六)だった。
浪曲師、春日井梅鶯(ばいおう)の内弟子で、若梅鶯の芸名を持っていた寛さんは二十七年ごろ、喜身子さんらの
エピソードを『ああ 従軍看護婦集団自殺』という題目にして、全国を巡業した。
実名で容ぼう、特徴も浪曲に盛り込んだ結果、十九家族が名乗り出た。
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