2008年04月18日(金) |
御棺に入った総入れ歯 |
歯科医院に来院する患者さんの中には、治療途中でありながら何らかの事情により来院しなくなる患者さんがいます。家庭の事情、仕事の都合、体調の関係、経済的な理由等々、歯科医院に来院しなくなる理由には諸事情あるわけですが、何らかの詰め物、被せ歯、差し歯、ブリッジ、入れ歯といった補綴物(ほてつぶつ)などを作っている最中に来院しなくなるケースが往々にしてあります。中にはこれら補綴物をセットする直前に来院しなくなることもあるものです。こういった場合、補綴物を患者さんにセットしたわけではありませんから、通常通り保険請求できるわけではありません。それではどうするか?
今の保険診療制度では、患者さんが任意に診療を中止した場合、装着予定日より1カ月待って請求を行うことが認められています。これを未来院請求といいます。未来院請求は、せっかくセットしようとした補綴物が各歯科医院の持ち出しにならないようにするための制度です。患者さんにセットしたことと同じような保険請求はできませんが、材料費を中心にした費用は保険請求できるようになっているのです。
僕もこれまで何度か未来院請求をしたことがありますが、正直言って、せっかく一生懸命作製した補綴物がセットできないまま未来院請求することは、非常に心残りであり、残念な気がしてなりません。せめて補綴物をセットするまで来院して欲しかったなあと思うことが何度もあったものです。
ただし、これは来院できないのも無理は無い、仕方がない理由もあります。今から数年前のことです。僕は近所に住んでいたYさんの総入れ歯を作っていました。総入れ歯作りは何かと苦労があるものですが、Yさんの場合は極めて順調に治療が進み、次回の来院時にセットというところまで来ていたのです。ところが、セット予定日、Yさんは来院しませんでした。“どうしてだろう?”と思っていたところ、その日の夜、我が家にある連絡が入りました。その連絡とはYさんが突然亡くなったという訃報でした。何でも総入れ歯セット予定日の朝、いつも早起きだったYさんがいつまで経っても起きてこないことを不審に感じた家族の人たちがYさんの寝室に様子を見に行ったところ、Yさんは冷たくなっていたそうなのです。前日まで何の具合の悪い所もなく元気に過ごしていたYさん。寝ている間に突然息を引き取られたそうで、突然死としかいいようがなかったのだとか。
Yさんが来院しなかったのはYさんが亡くなったからだったのです。その後、Yさんの家ではYさんの葬儀がしめやかに行われましたが、近所に住んでいる者の一人として僕は御通夜と告別式に出席してきました。その際、遺族の方に手渡したのがセットを待っていたYさんの総入れ歯でした。家族の方は総入れ歯に驚きながらも、今は亡きYさんの形見の一つとして丁重に受け取られました。
後日聞いた話では、Yさんの総入れ歯はYさんの亡骸とともに御棺の中に入れられたそうです。食べることを何よりの楽しみにしていたYさんがあの世でも美味しく食べられるようにして欲しいという家族の方の願いからだったそうです。未来院補綴物の一つであったYさんの総入れ歯ですが、きっとあの世では未来院補綴物ではなくきちんとセットした状態であったことでしょう。あの世でもどこでも作った総入れ歯が無駄にならずに済んだのであれば、それでいいかもしれない。同じ未来院補綴物でも時にはむなしく感じなくても良いものがあるものだと感じた、歯医者そうさんでした。
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