歯医者さんの一服
歯医者さんの一服日記

2008年01月17日(木) 13年目の朝 阪神淡路大震災を伝える義務

今から13年前の1月17日午前5時46分。
当時、まだ独身で、某大学大学院の院生だった僕は地震が起こる直前、目を覚ましました。普段、この時間帯は熟睡しているはずの時間帯だったのですが、この日はなぜか目が覚めてしまっていました。時刻を確認し、まだ起床時間まで間があると思いながら、部屋の天井を何気なく眺めていると、突然、“ゴー”という低音の地響きが聞こえました。

“一体この地鳴りは何だろう?”
と思うや否や、突然家全体が激しく揺れ出したのです。最初は上に突き上げるような衝撃があり、直ぐに大きく横に揺れ出しました。僕の家は木造なのですが、自分の部屋の柱が左右に振動しているのが見えた大きな揺れ。こんな揺れは体験したことが無く、“このままでは家が崩壊してしまう!”と感じざるをえませんでした。

“少しでも早く動かないと!”
と思いながらも、体が言うことを聞きません。不意をついた大きな揺れで何か金縛りにあったようになってしまっていたのです。数十秒程の揺れがそれ以上の時間に感じました。

揺れが収まってから直ちに家族の無事を確認し、家の周囲を急いで点検。途中、何度も大きな余震が起こり、余震に怯えながらも何とか家が持ちこたえていることを確認し、ほっと安堵したものです。
幸い、我が家は何とか持ちこたえましたが、周囲には倒壊、半倒壊の家が数え切れず。電気や水道、ガスといったライフラインは途絶えてしまいました。部屋の片隅に置いてあった電池式のラジオを聴いてみると、大きな揺れの震源は淡路島付近であることがわかり、神戸方面が大変なことになっていることがわかりました。多くの建物、道路、鉄道等に被害が及び、6400人余りの人が犠牲になりました。場所によっては壊滅している地区もあることがわかりました。

これからどうすればいいのだ?

怖い物の例えに地震、雷、火事、親父という言葉がありますが、大きな地震に人間はこれほど無力なのかということを思い知った、阪神淡路大震災。その後の復興は多くの人やマスコミが伝えているところですが、あの大きな揺れだけは経験した人でないとその恐ろしさはわからないと思います。いくら人間が進化したとしても、阪神淡路大震災のような巨大なエネルギーの発散には太刀打ちできない。自然の恐ろしさを感じざるをえませんでした。

阪神淡路大震災では、多くの歯科医院も被災し、何軒もの歯科医院が倒壊しました。今ではこれら歯科医院のほとんどが復活していますが、未だに借入金の返済に苦しんでいます。ある先輩の先生などは、
「この年になってまだ借金を返済し続けなければいけないとは夢にも思わなかったよ」とため息をつかれています。

まだ、借入金を返済できるのならましな方かもしれません。マスコミの報道によれば災害援護資金1300億円のうち、まだ260億円が未償還で、多くが返済の見込みがないのだとか。

大地震は大地が揺れるだけでなく、多くの人の人生をも揺さぶられるものであることを嫌というほど学んだ阪神淡路大震災。
あれから13年。阪神淡路大震災に被害にあった地域では阪神淡路大震災そのものを知らない世代が出てきています。阪神淡路大震災以降に生まれた人たちです。我が家の9歳と6歳のチビたちもそんな世代の一人です。彼らをみていると、阪神淡路大震災が確実に過去のものになっていると思わざるをえませんが、最近、僕のような直に阪神淡路大震災を経験した者としては、何とか大地震の恐怖、悲惨さ、そして復興について語っている義務があるように感じます。第二次世界大戦、太平洋戦争を体験した僕の祖父や祖母たちが戦争を知らない世代に戦争の悲惨さを語り、二度と戦争を起してはいけないと伝えてきたように、大地震の恐ろしさ、大変さ、その後の復興を伝えることが僕のような世代の使命ではないかと思うのです。
大地震では多くの物を失ったのではない。修羅場を生き抜いてきた貴重な経験を得ているはず。そのことを後世に伝えることは決して無駄ではない。阪神淡路大震災から13年の今朝、僕はそのように感じています。


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