「お互いにいつ“お迎え”が来てもおかしくない年ですからな。」 「先生のおっしゃるとおりですわ。私も体力的に無理はできません。いつ“お迎え”が来るかどうかわかりませんからな。」
この会話は一緒に仕事をしている親父とある患者さんとの会話です。その患者さんの年齢は75歳。親父は76歳。お互い若いとはいえない、世間では高齢者と呼ばれている人たちです。
このようなことを書くと不謹慎なのは承知の上ですが、僕は高齢者同士が話す際の“お迎え”という言葉に何とも言えないしみじみとしたものを感じます。“お迎え”とは自分の一生が終わることを例えたもので、元来はあの世から出迎えるという仏教由来の言葉であるのは皆さんご存知のことと思います。人間というもの、誰しも寿命というものがあるわけですが、自分の一生が終わりに近づいてくると、それなりに自分の命というものを意識せざるをえなくなることをよく耳にします。人生の終わり、命が無くなることへの不安を上手にオブラートに包むがごとく表現している言葉。それが“お迎え”ではないかと思うのです。
世の中に生を受けて紆余曲折、試行錯誤の日々を過ごしてきた自分ではあるが、何とか命永らえてここまで生きてきた。そのことに感謝しながら、静かに余生を過ごす。そして、自分が気がつかないうちに、眠るがごとく一生を終える。僕は“お迎え”という言葉の中に、その人の一生に対する感謝と温かみが込められているように思えてなりません。
世の中には苦しみながら一生を終える人が数多くいます。ある人は戦争で、ある人は事故や天災で、ある人は自ら命を絶つ場合もあるでしょう。原因不明の不治の病で亡くなっていく人もいることでしょう。そんな中で自分の生涯を振り返りながらも生きていてよかった、残りの人生を全うしたいニュアンスが“お迎え”という言葉の響きの中に込められているのではないかと思うのです。 上記のある高齢の患者さんと親父との間に交わされた“お迎え”という言葉には、互いに長生きすることができてよかったですね、これからも命ある限り実りある余生を過ごしたいものですねという、励ましの意味さえ感じられます。
若輩者の今の僕には決して使うことができない“お迎え”ですが、後何十年か経過し、生きていることができるなら、自分で言ってみたい目標の言葉でもあります。“お迎え“という言葉が言えるよう、まだまだ精進しないといけない歯医者そうさんです。
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