歯医者さんの一服
歯医者さんの一服日記

2007年08月09日(木) 学徒動員なんていい加減なものだった

ここ数日、親父は自宅の居間の机の上で何やらこそこそと書き物をしておりました。暑い最中、外へ出かけるのも汗をかくだけですし、76歳という年齢を考えると家の中でデスクワークにいそしむのも悪くはないだろうと思いながら、横目で見ていた歯医者そうさん。昨日のことでした。

「書けたぞ!」
と言うや否や
「一度読んでくれないか?」
と僕に言ってきたのです。

僕は早速親父の書いたものを読んでみました。タイトルは、“K鉄道電鉄の社員だった私”(仮題)

K電鉄とは今の関西の私鉄であるH電鉄の前身の会社です。H電鉄は今年創業100年を迎えるそうですが、会社創業100年を記念し、広く市民からH電鉄に関する思いを記したエッセーを募集していたのだそうで、親父はそのエッセーコンテストに応募するために自らのH電鉄に関する思いをしたためていたのです。

実際に親父から差し出された文章を読んでみると、そこには僕が生まれて初めて知った親父の青春時代のことが書かれていたのです。

親父は、昭和6年生まれなのですが、今の小学生時代から中学生、すなわち当時の国民学校時代に太平洋戦争を経験しました。戦争体験者だったわけです。太平洋戦争が始まった当初、日本軍は連戦連勝で国中が湧き上がるような雰囲気があったそうですが、太平洋戦争の終盤になると、戦争が明らかに不利になってきた状況が子供ながらにもわかってきたといいます。いつの間にかアメリカ軍による空襲も始まり、いつ何時空から焼夷弾が落ちてくるかわからない不安に駆られたのだとか。
国民学校の様子も一変したといいます。学校の授業がなくなり、運動場には食料不足解消のため、サツマイモが植えられたとのこと。親父を含めた同世代の生徒も、授業を受ける代わりに近くの工場で動員されることになったのです。所謂、学徒動員です。親父も学徒動員のためにある工場で動員されたというのです。その工場とは、K鉄道会社。今の関西のH電鉄会社の前身の会社の工場だったのです。

親父を含めた同級生たちは学校を離れ、毎日近くのK鉄道会社の電車工場へ働きに出かけていたのだとか。身分もK鉄道会社の社員となり、社員証をもらったとのこと。そのため、K電鉄は無料で乗れたそうなのです。

朝早くから夜遅くまでK電鉄会社では所定の部署で働いたそうですが、その部署の上司であったK電鉄会社の社員が実に紳士的だったとのこと。当時の先生は今とは異なり、実に厳しい先生が多かったそうですが、学校から離れたK電鉄の工場で親父たちを指導し、監督していた上司は実に親切で思いやりのある男性だったそうです。物腰が柔らかく、丁寧に工場での仕事ぶりを教えていた姿に親父は感心したのだとか。

「今から思えば、当時のわしらが任されていた仕事というのは、小学生がしても差し支えないような仕事ばかりだったと思うよ。そらそうだろう。鉄道のように多くの人を乗せて走る車両の工場で仕事をするには、長年の知識と技術を会得しないできないもの。それは我々の歯医者の仕事も同じだよな。それを学徒動員とはいえ素人同然の小学生にさせるわけにはいけないんだよな。K鉄道会社の人たちの本音としては、いくらお国のためだとはいえ、学徒動員の生徒たちを受け入れるということは大変な苦労があったと思うよ。そんなことをおくびに出さず、丁寧に仕事を教えてくれた当時の上司というのはよっぽど人ができていたと思うんだよ。おそらくその上司はもう亡くなっているとは思うんだけど、太平洋戦争時代に青春を過ごしてきたわしには、そんな大人に巡り合えて幸運だったと思う。」

太平洋戦争当時、生徒や学生だった者も戦争のために駆り出された話はよく耳にしていましたが、親父もそんな学徒動員に駆り出されたとは初めて知りました。学徒動員というと非常につらい話を聞いたりしたものですが、親父にとっては一人の上司の存在が非常に励みになり、目標になったようです。殺伐とした時代であったはずなのですが、そんな時代に希望を持てた親父は幸運だったのだなあと感じざるをえませんでした。

「それにしても、学徒動員とは聞こえはよかったかもしれないけど、いい加減なものだったよ。こんなことをする国は戦争に勝てなかったはずだよ。」


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