歯医者さんの一服
歯医者さんの一服日記

2007年05月30日(水) 癌を告知しなかった理由

僕の歯医者としてのモットーの一つに、患者さんに病名を伝えた時には、その病気が治るまで世話をすることがあります。

例えば、ある患者さんの前歯にむし歯があったとしましょう。僕はその患者さんに対し、むし歯であることを伝えます。患者さんには実際に鏡やデジタル写真、レントゲン写真で確認してもらいます。そして、治療することの意義、放置することのリスクなどを手短に説明します。患者さんの承諾が得られれば、僕はむし歯の治療を行います。そして、治療が完了したことを伝え、今後むし歯にならないためのアドバイスを行います。
歯医者として、僕がむし歯という病名を伝える時は、患者さんに対し、むし歯を治療するだけでなく、その後の予防に関しても責任を持つことを宣言するようなものなのです。

何だか堅苦しい話のように思われるかもしれませんが、歯や口の中の病気を治療する専門家である歯医者として、患者さんに病名を伝えるということは非常に重みのあることだと考えます。単に病名を伝えるなら素人でもできるかもしれません。歯科医師免許を持ち、患者さんの治療をするということは、単に病名を言うだけでは済まされない。プロとして治療をし、今後の予防にいたるところまで責任を持つことが大切ではないかと、僕は思うのです。

そんな歯医者の僕ですが、患者さんに対し、病名を素直に伝えられないこともあります。

先日のことです。

“舌の端に口内炎ができた”
ということで来院された患者さんがいました。僕が実際に診たところ、

“これは厄介だなあ”
と感じたのです。そして、患者さんにこう言いました。

「この口内炎は僕にはよくわからない口内炎のように思えます。一度、歯科口腔外科の専門医の先生に詳しく診てもらった方がよいでしょう。」

そのように患者さんに伝えた僕は、懇意にしている某病院の歯科口腔外科医に紹介状を書き、精査してもらうよう依頼したのです。

実は、その患者さんが口内炎という病状は詳細を書くことはできませんが、歯科口腔外科の教科書に紹介されているような典型的な舌癌の特徴を持っていた状態だったのです。少なからず舌癌の患者さんを診た経験からすれば、十中八九舌癌だろうと感じた僕でしたが、僕は患者さんに自分が思ったことを伝えることはできませんでした。

実際に確定診断を下すには詳しい検査が必要でした。中でも組織の一部を採取し、顕微鏡検査する病理検査が最低限必要なところ。ただ、病理検査をするだけなら、僕も行うことは可能です。自分の歯科医院には病理検査を担当する病理医はいませんが、外部の検査機関に委託することにより病理検査を行うことができるからです。
けれども、僕はそれをしませんでした。その理由は先に書いたとおりです。すなわち、患者さんに確定診断を伝える責任を持てなかったからです。確定診断を伝えるということは、患者さんの病気に対し、治療、手術を行い、その後のケアにいたるまで責任を持たなければいけないからです。

今回の患者さんのような舌癌の可能性が高いような場合、基本的な治療法は手術ということになります。一言で手術と言いますが、症状に応じていろいろです。

舌を含めた口の中の癌の手術ですが、病巣が小さい場合は、病巣だけを摘出するだけで済みます。

厄介なのは病巣が大きい場合、他の部位のガンと同様、転移の可能性が高いのです。このような場合、単に癌組織を摘出するだけでなく、転移の可能性を考え、首にある頸部リンパ節を全て取り除かないといけません。これは専門的には頸部リンパ節郭清と言います。頭と体をつなぐ頸部には大きな動脈、静脈、神経、リンパが通っています。これらを少しでも傷つけるようなことになると、手術後に後遺症が残る確率が非常に高くなります。そのため、頸部リンパ節郭清は慎重に丁寧に行わないといけません。口の中のガン手術は非常に時間と手間がかかる手術の一つで、頸部郭清が必要な場合、総合病院の一年間の手術の中で最も時間を要する手術の一つとされているくらいです。

また、手術だけでなく、放射線治療や抗がん剤治療を併用するような場合もあります。

口の中の癌の場合、手術をすることにより顔の形が変わる可能性があります。顔の臓器の一つである口の中の組織をガンとともに取り除くわけですから。手術後、命は助かったものの、顔の形が変形し、目立ってしまうことが考えられます。これは手術後の患者さんにとっては非常に酷なことです。そのため、手術後なるべく顔の形が変わらないようにするため、腕や胸の組織の一部を使用して、ガンでなくなった部分を補う再建手術が必要となります。これら手術はガンの摘出と同時に行われます。

以上のようなことを想定すれば、僕のような一個人開業歯科医が口の中の癌の治療をすることができないのは自明のことです。

また、癌の告知に関しては直接患者さんに伝えるべきかどうかという問題もあります。最近は、直接伝えるような傾向にあるようですが、患者さんの精神状態や環境によっては家族や親族のみ伝え、患者さんに伝えないこともあるようです。いずれにせよ、癌告知に関しては非常にデリケートなことであり、むやみに口に出して言える代物ではありません。

結局、僕は舌癌の可能性が極めて高い患者さんに対して、病院の歯科口腔外科へ受診することを勧めることしかできませんでした。患者さんにとっては腑に落ちないところがあったかもしれませんが、歯医者として責任を考えると、自分が責任を負えないような病気の場合は、専門家に治療を委ねることが患者さんのためになります。何もかも抱え込むことは、結局のところ、患者さんに益するところは何もありませんから。


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