歯医者さんの一服
歯医者さんの一服日記

2007年04月27日(金) 私をおいて出て行くわけね?

僕は歯医者を生業としているのですが、仕事の合間に趣味として週1度、通っている所があります。その団体とは某アマチュアオーケストラ。
僕自身、学生時代からクラシック音楽が好きだったのですが、音楽を聴くだけでは飽き足らず、自分で楽器を弾きたいという欲求にかられました。そこで、大学時代の先輩が参加していた某アマチュアオーケストラに入団し、楽器を弾いております。既に某アマチュアオーケストラに入団して4年半。クラシック音楽が好きであることから、忙しい仕事があっても何とか続けることができています。

某アマチュアオーケストラでいつも僕の隣にいるのは、僕を誘ってくれた大学の先輩O先生でした。O先生は既に還暦を過ぎた大先輩であるのですが、楽器の腕は大したもので、いつも僕はO先生の音を聴きながら弾いていたものです。O先生の大きな豊かな音を聴いていると下手な僕の楽器の腕も少しは上手くなったように錯覚して聴こえるものです。
そんなO先生が昨年、突然練習に来なくなりました。僕には一言の声掛けもなく来られなくなったのです。

“O先生、一体どうしたんだろう?”

某アマチュアオーケストラの世話人の人に話を尋ねても、事情がわからないという返事。僕自身、世話になった先輩ですのでどうして練習に来なくなったのか気になり、連絡を取ってみたのですがO先生からの返事は要領を得ないものでした。何かを隠していることは間違いなかったのですが、家庭の中での複雑な事情があるようで、そのことをしつこく詮索するわけにもいかず、そのままにしておりました。

そのO先生が、先週になって突然、某アマチュアオーケストラの練習に久しぶりに姿を現しました。

「そうさん、長い間ご無沙汰していて悪かったねえ。」

久しぶりに姿をみて某先輩の顔つきはどこか晴れ晴れとしていた様子でした。練習が始まる前、僕はO先生に練習を休んでいた理由を尋ねてみました。

「実は、昨年、息子が結婚したんだよ。そのこと自体は親としてうれしい限りだった。親として子育ての大きな仕事が終わったことを意味するわけだからね。結婚を期に、息子は長年暮らしていた我が家を出て、某所へ引越し、新しい人生の伴侶と共に新婚生活を始めたんだよ。」

「事前に息子とは話しをしていて、結婚したら家を出ることはわかっていたことだったんだけど、いざ息子が家を出てみると、これが寂しいものなんだね。今まで息子がいることが当たり前のように思っていたんだけど、息子が独立して家をいなくなった状態というのは何か心の支えの一つがなくなったような感覚なんだな。」

「私以上に寂しく感じていたのがうちにいたんだ。それは何を隠そう、家内だったんだね。家内は息子が出て行ってからしょっちゅう“寂しい”と言っていたんだね。そのうち、週1回私がオーケストラの練習に行こうとすると、『私を放っておいてオーケストラの練習に行くとはどういうこと?私をおいて出て行くわけね?』と詰め寄るんだよ。これまで全くそんなことを言ったことがなかった妻が突然言い出したことに驚いたよ。」

「妻は昨年、足を怪我してから歩行が困難なことが多くて、そのことが余計に精神状態の余裕をなくしたみたいだったんだ。結局のところ、僕はオーケストラの練習を休み、家内の面倒を見るというべきか、近くにいざるをえなかったんだね。」

「最初、息子が出て寂しかった我々夫婦も、最近になってようやく今の生活に慣れてきたように思う。悪かった家内も足の状態も最近は経過が良好のようで落ち着いている。体が落ち着くと精神状態も落ち着いてきて、今となっては“週1回のオーケストラの練習の参加を再開してもいい”とまで言えるようになってきたんだよ。家内のことを考えて、月2回は練習に参加することにしたんだ。そんなことだから、心配かけたけどこれからも宜しく頼むよ。」

当たり前だった生活が突然変わってしまうことは身の回りにたくさんあるものです。長年、あることが当然だと思っていたことがある日を境にして変わってしまう。変わることは事前にわかっていたはずだし、仕方の無いことだと思っていても、いざ変化した現実についていけないことが多いもの。特に、年を重ねた人たちの場合、頭と体、精神が柔軟に対応できず、時に精神的に不安定な状態に陥り、夫婦間の関係さえ危ういものとなりうる。
長年、人生を共に歩いてきた人生の先輩たちのカップルには深い絆で結ばれているのかなあと考えていたのですが、その絆というものは実に微妙で、繊細で、脆いものでもある。今回のO先生のことは、そのことを僕に強く感じさせてくれました。

人生というもの、何歳になってもそれなりの悩み、苦しみがあるものなのですね。

僕の隣で以前と変わらぬ豊かな音色を出して弾いているO先生の音を聴きながら、そのようなことを強く感じた、歯医者そうさんでした。


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