2007年02月21日(水) |
間一髪セーフと間一髪アウトの差 |
昨夜のことでした。地元歯科医師会の仕事を終え、車で帰宅している途中のことでした。とある峠の上り坂のカーブを曲がろうとすると、前方から車が照らすライトが見えました。夜間、山道を運転する時、ライトによって対向車が見えるのは大きなメリットです。こちらとしてもある程度対向車を警戒しながら運転していく余裕ができるからです。 ところが、いつもなら心の準備をもって曲がることができるカーブが、昨夜は違っていました。対向のライトは猛スピードでカーブにやってきたのです。このような場合、ほとんどが暴走族が運転している改造車です。僕はカーブを曲がる際、いつも以上に左寄り曲がるようハンドルを切りました。案の定、対向車は改造車だったのですが、その車、カーブをうまく回ることができず、センターラインをオーバーし、僕が運転する車の方へ膨らんできたのです。僕は対向車が僕の運転席の間際にまで接近している光景が見えたのです。
“これはやばい!” 僕は思わず衝突することを覚悟しました。
実際のところ、僕の車は対向の車とは接触することはありませんでした。何の衝撃もなかったからです。念のため、僕は直ちに車を止め、傷がないか確認しましたが、傷一つありませんでした。一瞬の出来事でしたが、僕は危機一髪衝突事故に遭わずに済んだのです。 もし、改造車に僕の愛車が当てられたなら、只事では済まなかったことでしょう。愛車の破損のみならず、僕も病院へ即入院になっていたのは必至。このように日記を書くことはできなかったはずです。間一髪セーフでした。
帰宅後、僕はしばらく考えました。 これまで僕は何度となく命に関わるような危機に襲われたことがあります。ほとんどの危機は予想もしないことであり、突然やって来ました。 以前にも書いた阪神大震災に被災した時などは、地震による大きな揺れに体が動くことができず、目の前で大きく振動している家の柱を見つめ、本棚から落ちてくる大量の本が顔面に当たっても何もすることができませんでした。家が潰れるとともに僕の命も終わるのかという恐怖感のみを感じたものです。 僕は幸いにも阪神大震災で命を落とすことはありませんでしたが、今から思えばよくもあの大きな揺れに耐え、生き残ることができたものだと思うのです。実際に6400人以上の人が亡くなっている阪神大震災。僕が命を落としても何ら不思議ではなかった状況下、どうして生き残ることができたのは不思議でなりません。この時も間一髪セーフだったのです。
間一髪セーフと間一髪アウトの差。この差は実に微妙な差ではありますが、実態は雲泥の差があります。誰でも何らかの予想もしないトラブル、事故、危機に瀕した時、理由を説明することができない要素というものによって、回避できる場合と回避できない場合があります。医療の世界ではこの手の話はよくあります。
例えば、体に何も異常を感じない、自覚症状がなかった人がたまたま人間ドックでレントゲンCTを撮影したところ、進行ガンがみつかったとか、動脈瘤が見つかったことがあります。これら進行癌や動脈瘤というのは生死に関わる深刻な病です。直ちに適切な治療、処置が必要なわけですが、そのような自覚が全くなく、偶然に検査した時点で見つかったというのは単なる偶然なのかと思いたくなります。その人の運命だと言われればそうなのだろうと思うのですが、少なからず命の危機に直面し、間一髪セーフであった話を耳にすると、人の運勢には何か筋書きがある台本が左右されているように思えることがあるのです。
間一髪セーフと間一髪アウトを分けるものは何か?頭の悪い僕にはよくわかりません。これらを追及しているのが宗教なのかもしれませんが、理論、理屈では表現しようのないものが間一髪セーフと間一髪アウトの違いを分けていると感じることがしばしばです。
実は、今回のカーブでの事故回避を含め、詳細は書けませんが、僕の周囲で立て続けに偶然とは思えないような命の危機に遭遇することが起きました。しかも、これらは全て命を奪われるようなことはなく、適切な処置を受けることにより快復し、健康や穏やかな日常生活を取り戻しているのです。一度や二度ならまだしも複数回続くと、さすがの疑い深い僕も、これは何かあるのではないかと思いたくなるのです。何かによって死なされていない、生かされている。そんな気持ちを持たざるをえなくなるのです。
考えれば考えるほど怖くなります。
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