歯医者さんの一服
歯医者さんの一服日記

2006年11月07日(火) 更なるいじめ問題考

僕の10月23日の日記でも学校におけるいじめ問題のことを書いたばかりなのですが、更に書き足りないことがありました。今日はそのことを書いていこうと思います。最初に断っておきますが、今回は思いつくまま書いたためまとまりを欠く文章になりますが、何卒ご容赦して欲しいと思います。

今回の一連のいじめ問題ですが、いじめから生徒を守らなければならない教師の何気ない言葉がいじめのきっかけとなり、生徒が自殺したことが発端だったように思います。そのことからいじめに対する教師や学校、教育委員会、文部科学省の取り組みに対する批判が集中しています。また、いじめられた生徒が自らの命を絶ったことも相まって、いじめられた生徒やその家族が如何に悲惨な状況であったか、追い詰められているかということにも報道の主眼が置かれているように思えます。
これら報道の姿勢ですが、何か根本的な視点が欠けているように思えてならないのです。その一つが教師の本音に迫ったものが少ないことは10月23日の日記に書きましたが、さらに足りないものがあると思います。

その一つはいじめを起す張本人たちのことです。今回の一連の報道を見る限り、いじめられた生徒を自殺に追い込んだ生徒たちのことはほとんど報じられておりません。
世の中で起こる事件や犯罪の場合、犯人に関心がいくものですが、今回のいじめ報道を見ていて、極端に直接の加害者であるいじめた生徒のことを報道しないことに僕は非常に疑問に感じていました。このような疑問を感じている人は僕だけではなかったようで、こちらの日記の11月2日11月3日にそのことを指摘されていました。この日記に書かれていることは全くの正論であり、僕自身全く同感するものでした。

僕の個人的な意見ではありますが、いじめ問題は基本的にいじめた側が悪いと思います。
異論反論はあるかとは思います。“いじめられるにはいじめられるだけの理由がある”と反論される方もあるでしょう。確かにそのようなことはあるでしょう。周囲よりも何か特殊な雰囲気がある人、目立つ人、特異な人を仲間はずれにし、阻害してしまいたくなる気持ちは誰もが一度はもった感情ではないかとは思います。けれども、この感情をそのまま行動に移していいかどうかは全く別問題です。自分たちとは異質なものに対し、違和感をむき出しにし、いじめに走ることは決して許されることではありません。
いじめた側は“いじめる側にも問題がある”と主張するかもしれません。もっともな意見のように思えますが、いじめる側に何か個人的な事情や問題があったとしても、その不満やストレスのはけ口に他人をいじめるということは言語道断ではないでしょうか。自分に問題があれば他人に迷惑をかけず自分で解決するのが筋です。それをできずして他人に当たるというのは単に自分の悩みから逃げているとしかいいようがありません。


いじめは自分で解決するしかないという意見があります。僕はそのことについて否定はしませんが、その一方で、このようなことを言う人には、“実際にいじめを受けた人の気持ちを理解しているか?”と問いたくなります。僕自身、これまで何度もいじめを受けてきたことがあるのですが、その経験からいいますと、いじめは執拗に受ければ受けるほどいじめを自分で解決しようとする気力を失っていくものです。これは幼児虐待、DV問題でも指摘されていることですが、周囲から暴力を受け続けると、最初は抵抗をしていても徐々にそれに反抗することさえ体力、気力を失い、次第に何もできなくなってしまうのです。そして、心の傷が深くなっていくものなのです。こうなると自分では解決できなくなるのです。世の中にあるいじめのうち、自分自身で解決できないケースが多いのは、こういったケースが多いからではないでしょうか。
いじめられた側が自分自身で解決できないような場合、やはり周囲が助け、サポートする必要があります。いじめを解決するために学校や家庭のサポートが期待できないなら、ある程度公権力も行使する必要があるのではないかと思います。いじめを一種の犯罪だと解釈してもいいのではないか?それくらいいじめ問題は深刻なのです。

このことで思い出すのが、僕の中学生時代の時のことです。僕が中学生時代、いじめを繰り返している輩がいました。そいつがいつも口にしていたことに

「いじめられている奴は自分が強くなればいいんだ。そうすればいじめられない!」

というのがありました。
それに対し、僕の恩師である担任の教師は真っ向からそれを否定しました。

「もし、お前が言うようにいじめられている奴が強くなればお前はどうするんだ?いじめられている奴よりも次に弱い奴をいじめるんだろう?そいつが強くなったらどうするんだ?その次に弱い奴をいじめるんだろう?お前の理屈は単にいじめを正当化しているだけの屁理屈だ!いじめないということをしないお前が一番悪い!」

こいつは何も言い返せず黙り込んでしまいました。
僕は恩師の先生の言葉を未だに忘れることができません。
僕が中学生時代ということは、今から20数年前のことです。今のいじめ問題を考えると、当時と全く何も進展がないのは悲しむべきことです。


僕の恩師はこんなことも言っていました。

「子供の世界にいじめがなくならないのはどうしてだと思う?それは大人の世界にいじめがあるからだよ。大人の世界にいじめがなくならない限り、子供の世界でもいじめはあり続ける。」

今のマスコミ報道で最も欠けているのはこの点だと僕は思います。いじめ問題を単なる学校の問題とばかり報道していますが、大人の社会でも様々な差別、いじめがはびこっています。いじめ問題で子供の自殺が取り上げられていますが、日本では年間3万人の自殺者がいます。その多くは大人なのです。自殺をするには自殺に追い込まれてしまう事情があるのです。特に、最近の格差社会ではさらにこの傾向が助長されているように思えます。いじめ問題は学校だけの問題のように見えるのですが、大人社会の縮図が子供社会なのです。大人の世界で解決されていないことが子供社会で解決できるわけがないのです。もし、学校のいじめ問題を真剣に解決しようとするなら、何よりも大人が見本を示せばいいのです。いじめをしないという見本をです。大人は自ら襟を正して子供にいじめをしないことを示さない限り、学校のいじめ問題の解決はできない。このことを大人は肝に銘じるべきではないでしょうか。


 < 前日  表紙  翌日 >







そうさん メールはこちらから 掲示板

My追加