皆さんご存知だとは思いますが、歯科医院では患者さんの入れ歯や差し歯、詰め物をセットします。これら入れ歯、差し歯、詰め物のことを歯科技工物と呼びます。この歯科技工物、今では歯医者が作ることはほとんどありません。歯型を取り、模型を作り、設計をした後、歯科技工物の製作を依頼します。これら歯科技工物を専門に作る人を歯科技工士といいます。
歯科医院では自らの歯科医院に歯科技工士をスタッフとして採用しているところもあるのですが、多くの歯科医院では歯科技工士を雇うことをせず、歯科技工所と呼ばれる製作所へ依頼しています。 うちの歯科医院でもお世話になっている歯科技工所があります。かれこれ30年以上の付き合いのF歯科技工所なのですが、先代の歯科技工所の所長さんが数年前に脳梗塞で倒れてからは、先代の娘婿であるYさんが所長を引き継ぎ、仕事をしていました。 うちの歯科医院の診療日には、F歯科技工所の所員の一人である歯科技工士O君が訪問し、うちの歯科医院でお願いする患者さんの歯科技工物の製作をお願いしていたのです。
先月のことでした。O君がいつものようにうちの歯科医院にやってきました。僕はいつものようにO君に挨拶をし、患者さんの歯科技工物の製作をお願いしました。一通り説明が終わった後、O君は僕にあることを切り出したのです。
「先生、しゃれになりませんよ!」
いつも明るいO君が妙に深刻そうな顔つきになって僕に言うのです。一体何事だろうと思い、話を聞くと
「Yさんが突然行方をくらましました。」
僕はO君の言った意味がわかりませんでした。
「それどういうこと?」 「Yさんが突如いなくなったんです。失踪したんですよ。」
O君曰く、Yさんは先月末の週末の夕方、誰にも何も言わずF歯科技工所を外出したまま、帰ってこないのだとか。Yさんの奥さんや子供、先代の所長さんに行く先も告げず、突然、いなくなったのだそうです。 Yさんが突然いなくなった日を考えてみると、僕はあることを思い出しました。
「その日といえば、夕方にうちの歯科医院にYさんが来たよ。『明日セット予定の入れ歯をO君が持っていくのを忘れたからもってきました』と言ってこられたよ。僕自身、『ぎりぎり間に合ってほっとしましたよ』なんてことを言っていた記憶があるくらいだから、間違いないよ。そうすると、その時Yさんは失踪する途中だったかもしれないなあ。その後Yさんからは連絡はないの?」 「全くないんですよ。週末だったので『日曜日や週明けには何らかのコンタクトがあるんじゃないか』と、先代の所長や奥さんが言っていたんですが、全くないんです。Yさんの携帯電話に何度も連絡したんですけど音信普通です。Yさんの友人、知人にも事情を言って連絡したんですけど全く音沙汰無し。困ったのは僕らですよ。Yさんからは何の説明もなく、何の引継ぎもないまま放っておかれたんですから。おかげで、残ったスタッフでいつも世話になっている歯科医院へ行って頭を下げまくりです。ある歯科医院では『信頼関係につながる』と言われ、かなりお叱りも受けました。まったくこちらが悪いのでただただ頭を下げるだけですよ。」
O君曰く、以前からF歯科技工所での仕事中、Yさんは何かとぼやくことが多かったそうですが、別段とりたてて深刻そうなには見えなかったのだとか。 実際のところ、Yさんには人には言えない仕事面の悩み、あるいは、何らかの家庭的な問題、先代所長さんとの確執があったのかもしれません。少なくとも、Yさん自身が失踪し、行方をくらましたことは事実です。どんな問題や原因があったにせよ、Yさんの失踪は結果的に多くの人に多大の迷惑を掛けたのです。
あれからほぼ1ヶ月。Yさんからはいまだ何の連絡もないのだとか。幸い、うちの歯科医院では担当のO君がしっかりと対応してくれているので、何も問題がなく、今後もこれまでと同じように仕事を依頼したいことは伝えました。O君はお礼の言葉言った後
「僕はYさんみたいに逃げませんから!」
と力強く言ってうちの歯科医院を出て行きました。
「頼りにしているよ!」
自分の歯科技工所の所長の突然の失踪で何かと対応が大変なO君。いろいろと大変だろうとは思うけど、僕は彼の頑張りを応援してやりたいという気持ちで一杯でした。
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