2006年06月08日(木) |
盗作作品騒動から思うこと |
既に皆さんもご存知のことと思いますが、数ある話題の中で洋画家の和田義彦氏が描いた作品のうち、少なくとも20数作品がイタリア人画家アルベルト・スギ氏の作品と酷似しており、盗作ではないかということが言われています。文化庁では和田氏に2005年度の芸術選奨文部科学大臣賞を(美術部門)を授与したわけですが、今回の盗作騒ぎから再度同賞の選考審査会を開き、賞の取り消しを決めました。選考審査会によれば、和田氏の描いた作品は、スギ氏の作品と構図、色彩、主題などが酷似しており、盗作と見られてもやむを得ないという判断に至ったようです。文化庁の調査に対し、和田氏は「オマージュであって、盗作ではない」とし、盗作疑惑を否定し続けているようですが、スギ氏の方は「和田氏は私の作品を無断で盗作した」と答えているようです。
僕は絵画に詳しいわけではない素人なので和田氏の作品が盗作かどうかを正式に判断することはできないのですが、僕のような素人が見ても和田氏の作品はスギ氏の作品と同じように思えてなりません。今わかっているだけで和田氏の作品中、スギ氏の作品との酷似している。しかも、全てスギ氏の作品発表年の後に和田氏の作品が作られている事実を考えると、長年にわたりスギ氏の作品と酷似する作品を作り続けた和田氏の力量には、ある意味お見事としかいいようがありません。それにしても、和田氏はどうしてここまで徹底してスギ氏の作品に酷似した作品を制作しつづけたのでしょう?
僕は歯医者ですが、僕が今行っている治療は僕がかつて師事した先輩の先生方の影響を強く受けています。歯医者になった当初何もできなかった僕が歯医者になるために必要なことは知識の追求と技術の習得でした。歯医者になった当初、僕は知識に関しては自分で専門書や論文を手にしながら学ぶ術を知っていましたが、技術に関してはどうして身につけれべきかわかりませんでした。一応、某歯科大学の学生時代には教科書に書かれている技術の話は頭では理解していたつもりですが、いざ実践となると体が動きません。そんな僕を助けてくれたのが、僕が世話になった指導教官の先生方でした。教科書に書かれている基本技術を元に自らの経験を加味した指導教官の術式は、歯医者の卵だった僕にとって新鮮で、目からうろこが落ちるようなものばかりでした。僕はこれら技術を直接目で見て、メモを取り、不明な点は指導教官に直接質問をしながら、叱咤激励を受けながらも何とか自分の物にしたいと努めたものです。そのためには、僕は理屈抜きで徹底的に先輩の先生のやり方を真似ました。技術を伴っていない僕にとって技術を習得するには真似ることが一番早く効率的な方法だったからです。
真似るというと簡単なことのように思うかもしれませんが、実際は非常に難しいことです。一筋縄で自分の物にすることができず、試行錯誤を繰り返していました。そんな苦労をしているうちにある瞬間、先輩の先生の技術のコツみたいなものを感じ取る瞬間があるのです。
”もしかしたら、これがポイントではないか?”
そのようなきっかけがあり、更に技術を追求していくうちに、指導教官の先生とほぼ同じ技術を身につけることができるようになったのではないかと思います。一度会得した指導教官の先生の技術を用いて診療をしていると、その技術のすばらしさに改めて気づかされることがあり、その技術により患者さんの症状、悩みが解決されることを経験すると、歯医者として生きていく自信がついてくるように思います。
その一方、同じ技術を繰り返していくと、欲みたいなものが僕にはでてきました。もっと他の技術がないだろうか?自分が身に着けた技術のみならず別の方法を模索したいという気持ちが出てきたのです。決して自分が身に着けた指導教官の技術が劣っているいうわけではありませんし、飽きがきたというわけでもないのですが、同じ事を繰り返していると何か違った変化を求めたくなる。そんな思いが募ってきたのです。僕は自分なりに得た知識、経験を元に指導教官の技術を更に発展させ、自分独自の方法もアイデアとして加えながら、今もなおどうすれば患者さんの症状にあった、効率のよい治療ができる技術ができるのかどうか模索しているつもりです。
興味深いことは、僕が教えを請うた指導教官自身も変化していたということです。先日、何年かぶりにこの指導教官の下を尋ねたのですが、話をしているうちに自分自身の治療法に変化があったことを話してくれました。その話に僕も驚かされました。これまで指導教官が考えていたことと正反対異なると言ってもよい発想の転換を元に生み出された技術だったのですが、話を聞いているうちにその技術が実に理にかない、実際の臨床に合っているのです。この指導教官の飽くなき技術への追及心に僕は再度敬意を表しました。
上記の話はあくまでも僕の歯医者としての経験の話ですが、芸術の分野においても同じようなところがあるのではないかと思うのです。芸術家も新人時代は自分のオリジナルを世に問うほどの技量、経験はありません。自分が師事をした師匠、または影響を受けた芸術家のまねをしながら基礎となる技量を身につけていくものだと思うのです。そういった技量を試行錯誤を重ねながら習得した時点で、変化を求めたくなる、もっと他の表現方法はないかと模索したい欲求に駆られるのが芸術家ではないかと思うのです。芸術家の芸風というものも時間の流れと共に変化するものだと思うのですが、その背景には現状に満足しない探究心が芽生えてくるからではないかと僕は思うのです。
和田氏の場合、イタリア留学をした際にスギ氏の作品に出会い、大きな影響を受けそれまでの芸風から変化したようですが、20年以上もの間スギ氏の作品に酷似した作品を作り続けていたというのはどういう意図だったのでしょう。世界的にあまり知られていないスギ氏の作品のまねをし続けていれば日本では評価が高かったことに胡坐を掻いていたのでしょうか。20年以上まねをし続けたくなるくらいスギ氏の作品にほれ込んだのかもしれませんが、向上心、探究心を持ち続ける芸術家なら、スギ氏の作風から脱皮し、自分独自の作風を追及してもよいのではないかと思いますし、それが芸術家の使命ではないかと思うのですが、和田氏はそんな気持ちがなかったのでしょうか?
いずれにせよこれほど見事なまでにスギ氏の作品をまねし続けるというのは尋常ではないのは確かです。スギ氏の作品にのめりこみしすぎたために起こった悲劇なのか?それとも、うぬぼれが生じ、芸術家として向上心を放棄してしまったがために起こった悲劇なのか?僕は後者のように思えてなりません。和田氏が盗作疑惑を否定すればするほど和田氏を憐れに思う、歯医者そうさんです。
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