2006年06月02日(金) |
今では見る事ができない患者さんの口の中 |
「先生、今日来院されたYさんのご主人亡くなられたそうですよ。」
昨日、午前中の診療が終わり、後片付けをしながらスタッフと雑談をしていた時に診療所の受付さんから発せられた言葉に僕は思わず言葉を失いました。Yさんのご主人は僕の患者でした。僕は今の診療所で仕事をし始めて今年で9年目を迎えますが、Yさんのご主人は僕が当初から担当した患者さんの一人だったのです。
歯医者家業をしている僕は、自分が担当している患者さんの名前、顔だけでなく口の中の状態も全て把握しているつもりですが、数多い患者さんの中でもYさんのご主人の口の中は特に印象に残る口の中をされていました。前歯の被せ歯の独特の白色といい、よく磨り減った奥歯のかみ合わせの面、口蓋と呼ばれる上顎の天井部には大きな瘤状の骨の隆起がありました。下顎には入れ歯を装着していたですが、どうみても適合がうまくいっているとは思えないのにYさんのご主人はその不適合さが妙に気に入っておられ、調整もせずに使用されていました。
そんなYさんのご主人の奥歯にはブリッジが装着されていたのですが、そのブリッジの支えとなる根っこの一部がむし歯になっていました。本来、このような場合はブリッジをはずし、根っこの部分を治療しなおし、再度ブリッジをやり直すか、場合によっては抜歯し、取り外しの入れ歯にする、保険診療でなければインプラントを行ってもよいようなケースでした。ところが、Yさんのご主人は今のブリッジをできるだけそのまま残したいという希望を持っておられていました。話し合った結果、ブリッジの土台になっていてだめになった奥歯の根っこの一部だけを抜歯し、そのまま経過を見ることにしたのです。当初、そのブリッジは早晩だめになるだろうと思っていたのですが、そんな僕の予想に反してこのブリッジは5年以上機能していたのです。正直言って、僕はYさんのご主人の奥歯のブリッジが気になって仕方がありませんでした。早く処置をしてあげないと思い、Yさんのご主人が来院される度にこのブリッジをチェックしていたのです。
僕がYさんのご主人を最後に診たのは今年初めのことでした。このブリッジがまだ機能していることを確認した僕は
「それにしてもこのブリッジはよくもっていますねえ。違和感はありませんか?」と尋ねたところ、Yさんのご主人は
「全く問題がないんですよ。僕もブリッジが問題あることはわかってはいますし、少しでも異常を感じれば直ぐに処置してもらおうと思うのですが、今のところ問題ないのでこのまま様子をみておきたいです。」
Yさんのご主人が亡くなったのはそれから数日後でした。昨日、うちの診療所を治療に訪れたYさんが受付さんに伝えた話しによれば、Yさんのご主人はいつもどおりに家を出て車で出勤していたそうですが、通勤途中で交通事故に巻き込まれ帰らぬ人となったのだとか。あまりにも突然のことでYさんは、放心状態に陥り何もすることができなかったそうですが、子供のことや今後の生活を考えるといつまでも落ち込んでいるわけにはいかないと思い直し、死に物狂いで立ち上がったのだそうです。今では歯の治療に何とか来ることができるくらいにまで落ちつくことができたのだそうですが、それでも、何かの拍子にYさんのご主人が家の玄関を開けて戻ってくるのではないのかと錯覚することがあるのだとか。
そのようなことがあったとは全く知らなかった僕は、Yさんのご主人宛てに定期健診のお知らせの葉書を送っていたのですが、Yさんはご主人が既に亡くなったことを連絡ができないまま今まで来たことを詫びていたそうです。
長年僕が担当させて頂いた患者さんであるYさんのご主人が既にこの世の人でない事実。今では僕が気になっていたブリッジも既に存在しません。だめになったらやり直そうと言っていたブリッジ見ることもできない現実。
今はただYさんのご主人の冥福を祈るだけです。 合掌
|