「この度初めて自分の名刺を作ってもらったんですよ!」
うれしそうに笑顔を浮かべながら話をしていたのは、N君。N君はうちの歯科医院に出入りしている歯科技工所の歯科技工士です。
歯科医院では患者さんの治療のために被せ歯や詰め物、入れ歯といった補綴物をセットしますが、通常これら補綴物を歯医者は作りません。もちろん、補綴物を作る歯医者もいるにはいるのですが、歯医者は補綴物をセットするために歯を削ったり歯型を取ることだけを専念し、実際の補綴物は歯科技工士に依頼し作ってもらうことがほとんどです。しかも、歯科医院では自院で歯科技工士を雇っているところは少なく、多くの歯科医院が外部の歯科技工所へ依頼して補綴物を作ってもらうのが現状です。うちの歯科医院もそんな歯科医院の一つで、長年世話になっている歯科技工所に補綴物の作製を依頼しています。診療日には特定の時間帯に必ず歯科技工所の担当者が来院し、補綴物をつくるための石膏模型などを持ち帰ってくれます。N君はそんな歯科技工所で働く歯科技工士で、長年うちの歯科医院を担当してくれているのです。
N君が勤務している歯科技工所は数年前に経営者が交代しました。前任の経営者が体調を崩したため、前任の経営者の息子さんが後を継いだのですが、その息子さんがこの度、N君に名刺を作ってくれたのだとか。
「『外回りをしている君が名刺を持っていないというのはおかしな話だから』ということで、この度名刺を持つことになったんですよ。会社や役所勤めの人なら名刺って必需品でしょうけど、僕ら歯科技工所に勤務する歯科技工士は補綴物を作るのが第一の仕事でしょ。こうやって先生やその他の数人の先生と顔を会わせる以外は、ずっと歯科技工所の中で補綴物を作っていますから、名刺って必要性がなかったんですよ。ところが、今回初めて名刺を作ってもらったんですよね。自分の名前が書いてある名刺って何だか恥ずかしい気がしましたけど、実際に手に取って見ると思わず頬が緩むというか、何となくうれしくなってしまうんですよ。」
N君の言うことは僕もよく理解できます。僕自身、初めて自分の名刺を作ったのは大学の最終学年で臨床実習を行っていた時でした。自分が治療を担当する患者さんに自己紹介をしたり、今後の連絡を取るために名刺を作ったのですが、名刺を作った当初は、自分の名前が書いてある名刺を見るにつけ、何だか社会人の一員になったような気持ちがして、うれしくなったものです。大学を卒業後、僕は職場が変わるごとに名刺を作ってきたわけですが、必ずどの職場の名刺も自分用に取って置きました。これら名刺を並べてみると自分のこれまで辿ってきたことが思い出され、感慨深く感じます。たかが名刺、されど名刺とでも言ったところでしょうか。
僕は、名刺を初めて持ったN君に名刺の保管方法や渡す時のマナーについて簡単に話してあげました。
「名刺を手渡すのもまだ慣れていないもので、先生の言われるようなマナーがあるということも初めて知りましたよ。これから注意して渡すようにしますよ。」
僕がN君から名刺を直ちにもらったのは言うまでもありません。
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