My life as a cat
My life as a cat
DiaryINDEXpastwill


2020年12月26日(土) 出産の記録

朝リュカが産院まで迎えに来てくれて、ロクちゃんと三人で帰宅した。5日前、慌てふためいて飛び出した夫婦二人と猫一匹で暮らしていた家の景色がすっかり変わって見えた。この5日の間、何年分もの新しい経験や気持ちを味わったみたいだ。きっと忘れることはないが、出産の記録として残しておこう。


12月21日 月曜日

朝ニースの産院に定期検診へ。出産はノエル近くになるだろうと言われていたのに、今日の検診では子宮口が閉まったままで、胎児がまだ降りてきていないからもうちょっとかかるかな、と言われる。妊娠後期の体がキツくて、年内にはこの体から逃れられると思っていたのでがっかりする。と、同時に既に3.2kgになっている胎児がこのままお腹の中で成長して巨大になったら出産に耐えられるのかと恐れおののく。

帰宅して妹とこんな会話をしてから床につく。

「わたしはねぇ、38週で破水から始まって、でも胎児が降りてきてなくて、陣痛促進剤を打って産んだんだぁ」

「そうなんだ。その陣痛促進剤とかいうの嫌だなぁ。」


12月22日 火曜日

2時間後、夜中の3時。ふと目が覚めて脚の間が濡れているような気がする。トイレへ行って確認してみる。ピンク色の水が下着を染めていた。もしや?とも思い匂いを確認したが無臭。尿ではなかった。トイレで叫ぶ。リュカが飛び起きてきた。助産師のレクチャーでとったノートを開き確認する。"ピンク色の水なら2時間以内に病院へ"。リュカがポンピエに電話をする。来るまで準備する時間があるだろうと思ったが、思いの他たった5分で3人のポンピエがやってきた。血圧などを確認する。わたしは痛みも何もないから歩けたが、念の為なのだろう、車椅子で運ばれ産院に向けて出発した。

車内ではリュカとポンピエとわたしが普通に世間話をしていた。3人のポンピエは全員男性だったが、うちの奥さんもこのパターンだったとかそんな話をしていた。あまりにもドラマなどで見て想像してた出産シーン(ポンピエの車内ではぁはぁいいながら苦しみ悶てる)の出だしと違った。

産院に到着すると、深夜勤務の助産師達が控室でノエルのパーティーの途中だったのだろう、サンタの帽子を被って出迎えられ、リュカもいつの間にか同じのをもらって被せられていた。その格好で心配そうに真顔でわたしの手を握っていた。これまた想像と違った。

1時間ほど胎児のモニタリングをしてから病室に案内され、朝食が出された。子宮口が開いてないと言われたばかりなのだ。もちろん陣痛も始まらなかった。まさに38週で夜中の3時に破水で陣痛促進剤投与という妹と同じパターンになってしまったのだった。

朝食を平らげる。2時間おきに助産師が胎児のモニタリングとわたしの血圧をチェックし、陣痛はないかと聞く。何も起こる様子もなかった。やることもなく病室でふたりでまったりと待ちぼうけして、夜、リュカは近くのホテルをとり、わたしはそのまま病室で夕飯を食べた。


12月23日 水曜日

夜中の1時に陣痛促進剤が投与された。自分の病室のベッドに戻る。そして3時くらいに陣痛がくる。もう3分おきくらいに波のように痛みに襲われる。胎児の心臓とわたしの陣痛の波のモニタを眺めながら、痛みの波が来ると深呼吸を繰り返す。泣き叫ぶほどの痛みではないが、これが延々続くので体力を消耗していく。痛みの波が去ると眠気で意識が遠のく。そして3分後にまた痛みの波で飛び上がる。8時にリュカがやってきたが話すこともままならなかった。9時。6時間の間やっと水を飲んだだけで食べることはできず、体力を消耗しきっていた。助産師に麻酔をするかと聞かれたので、お願いすることにした。車椅子に乗せられ、病室から階下の分娩室に移された。後でリュカがその時のわたしの様子はもう肩をがっくり落として死んでしまいそうにしてて本当に見ているのが辛かったと言った。10時、予め面談していた麻酔科医がやってきた。背中の血管の中に小魚が侵入して泳ぎはじめたような感覚がして、10分するとすっと痛みが遠のいていった。無痛分娩といっても痛いと聞いていたが、わたしにはよく効いたのか本当に無痛になり、6時間ぶりにやっと体を休めることができた。その後16時まではうとうと眠っては起きてリュカに口を湿らせてもらうということを繰り返した。たまにスパルタ体育教師のような女性の助産師がやってきて、子宮口を確認した。窓の外は地中海でジョギングやウォーキングをする人々が行き交っていた。17時半分娩台に足を乗せられた。ここからは目まぐるしくジェットコースターのように出産に突っ走った。突然見知らぬ医師が現れて、わたしの主治医は渋滞に巻き込まれて間に合わないんで自分が担当すると告げられた。

「じゃぁ行きましょう。息を大きく吸って、はい、止めます。そして・・・プッシュ!!!!!」

無痛分娩は下半身に感覚がないので陣痛の波はこうして教えてもらわないとわからないのだった。わたしは毎日ヨガをやってきた癖でプッシュと言われた瞬間息を空中に吐いてしまったのだった。スパルタ体育教師に怒られる。

「あんた!何やってるの?息を空中にプッシュしたってしょうがないじゃない!!お腹をプッシュするのよ!!」

一同笑う。本当、わたし何やってるんだろう。

プッシュ!と言われたらお腹に力を込めてをたった5回くらい。

「はい、頭がでましたよ」

えっ?もう?

「次は肩出しますからね。もう一度プッシュ!」

お腹に力を入れたら怒涛のごとく胎児がでてきて、胸の上に乗せられた。

「はい、あなたの子よ!!」

プッシュ!とやりはじめてたった5分くらいで出てくるとは思いもせず、驚いた。17時51分、ロクちゃん誕生!胸に乗せられた子は掘りたてのじゃがいものように汚れていて、わたしの胸に頭をぺっとりと置いて泣いていた。リュカがへその緒をカットした。胎盤も5分くらいででてきた。裂けたのか切られたのか、脚の向こうでドクターが会陰を縫合しているのが見えた。わたしはこの会陰切開とかいうのに恐れおののき、オイルマッサージなどに勤しんできたのだった。主治医は会陰切開は体に負担をかけるのでしない方針だというので、裂けないようにとプッシュのしかたを勉強した(ただ欧米人は母体が大きく、それに加えて胎児の頭が小さい傾向にあるのであまり切れない人が多いと聞き、胎児の頭のサイズがリュカに似ることを願った)。ところが当日主治医が到着できないというオチだった(しかし、結局2針縫っただけで、妹が言うにはそんなのかなり軽症だということで、オイルマッサージ効果があったのかもしれなかった。ただこのマッサージ自体がわたしには結構痛くて苦痛だったのだが)。

出産から30分くらいして、助産師がおっぱいをあげてみるかと聞くので挑戦した。ロクちゃんは乳首を吸いはじめた。これも痛くて飛び上がる人もいるというんで胸もオイルマッサージを続けてきたのだった。その甲斐あったのか、痛いということは全く無くて、むしろくすぐったいという感覚だった。こんなに小さな生き物が本能的におっぱいを飲めることに感動した。

わたしもロクちゃんも体をクリーンにしてもらい、一緒に病室に戻った。夜の9時。26時間ぶりに食事にありついた。ひどくお腹が空いていた。リュカは近くのホテルにチェックインだけしてまた戻ってきた。彼は酷く感動していて、多分ロクちゃんとずっと一緒に過ごしたかったんだろう。わたしはもう疲れていて頭もぼんやりしていたので、ロクちゃんは助産師さんに預けて眠ることにした。


12月24日 木曜日

朝6時半。助産師さんが、ロクちゃんを連れてきてくれた。

「大きなウンチしましたよ〜」

胎児は羊水を汚さないようにお腹の中ではウンチをしないで、生まれるまで待っているんだそうだ。だから生まれたての赤ちゃんはすごく大きくて黒いウンチをする。

ひたすら眠っているロクちゃんを眺めながらベッドの上で朝食をとっていたらリュカがやってきた。産後の体は交通事故にあったような状態というが、確かにトイレまでの数メートル歩くにもちょっとよろめいた。お腹もなんだか片付いていないおもちゃ箱のような感覚で違和感があるし、会陰切開の傷が痛くてお尻をつけて座れないし、用を足すとしみる。昨日一日中点滴を指し続けた腕は腫れて熱を帯びて痛んだ。出産を終えたらもう少し萎むと思っていたお腹は、ほんのひと廻り小さくなっただけで依然妊娠しているように膨らんでいる。臨月に入る少し前くらいから痺れだした手もまだ痺れたままだ。出産直後の妹を訪ねた時、足が象のように浮腫んでいたから、自分もそうなるものかと思っていたが、足はいつも通りだった。妊娠中ずっとリュカの職場へ通い、足の浮腫をとる機械にかけてもらっていたおかげかもしれない。それにしても、と昨日を振り返る。無痛分娩にもかかわらずかなりキツい体験だった。これを自然分娩で乗り切る日本の母親というのはどんなに強い人々なのか。同じ女でも同じ日本人でもこればかりはどうなってるのか本当に解らない。

10時半。ロクちゃんがまた大きなウンチをしたので、初めてオムツ交換に挑戦する。リュカと二人がかりだったのにかなり悪戦苦闘した。11時に助産師さんに沐浴の仕方を習う。さっき替えたばかりのオムツを取ると今度はおしっこをしてあった。台の上に寝かせて石鹸で体を洗っている時は大泣きしてたのに、温かいお湯に体を入れたら突然泣き止んで、天に昇るような顔で気持ちよさそうにしていた。

午後は3人病室でゆっくりと過ごす。おっぱいをあげることに挑戦したけど、なかなか乳首を咥えさせることが出来ず、助産師さんにも手伝ってもらってやっと一度だけ成功した。母乳がでるまでには通常3日くらいはかかるらしいので、まだ大して出ていないせいもあるのだろう。

夕方リュカは家に戻った。隣人のドミニクがノエル休暇でジェノヴァの家に帰る直前の出産で、二晩クロちゃんの面倒を見てくれたことは幸運だった。そしてコロナの影響でつい先日までは父親は産院を出たり入ったりすることが難しかったが、少し規制が甘くなって、リュカはクロちゃんのために帰宅し、翌日またわたし達に会いにくることができることになったことも。

この産院の食事は野菜たっぷりでとてもよかった。それに加えてノエルだったからちょっと良い料理だったり、ケーキが付いてたりした。アンジェリーナ・ジョリーもここで双子を出産したというが、彼女にも同じ食事が出されたのだろうか???なんて想像したりしながら頂いた。ベッドにさえまともに座れていないひとりの静かな夕飯だったけど、隣で眠るロクちゃんがたまに発する声になんとも幸せな気持ちになった。

夜、朝連れてこられてからずっと眠り続けていたロクちゃんが起きて泣き出した。どうしようか。助産師さんを呼ぶ。

「お腹空いてるんじゃない?おっぱいあげた?」

「一応。少しだけ」

「足りてないのね。ミルク持ってくるから」

慣れた手付きで彼女が抱えてミルクをあげるとすぐに泣き止んで、突然電源が落ちたかのようにまた眠ってしまった。へぇ、そんなものなのか。

夜中にもう一度泣いたので、オムツを替えて、残っていたミルクをあげた。夜中に起こされて赤ん坊のオムツを替えてゲップを拭くような生活なんて何が楽しいのか?と思ってたのに、大して苦になっていない自分がいた。すやすやと眠る顔を眺めて幸せすら感じながらまた眠りについた。この子はつい数時間前まで羊水の中で体をギュッと丸めて暮らしていたんだ、と思ったら健気で愛らしくて、胸がいっぱいになった。この世にでてきてくれたからには美しいものを沢山見せてあげよう。


12月25日 金曜日

7時半に朝食をベッドまで運んでもらえる。今日はカフェ・オレとブリオッシュ。思えば入院なんてしたのは人生で初めてで、朝食をベッドの上で食べたことなんてなかったな。今日は昨日より少し気持ちに余裕ができた。

オムツを替えたり、おっぱいを飲ませるのに挑戦したりしてるとリュカが来た。助産師さんが沐浴の時間だと呼びにきた。今日はリュカが挑戦した。慣れない手つきでちょっと手間がかかり、ロクちゃんは震えてた。

医師がロクちゃんを診察し、パーフェクトだと言った。

ランチはわたしのランチとリュカが買ってきた食料を並べて、一緒に食べた。リュカが作ってきてくれたかつて見たことのないほど不細工な昆布のおにぎりは、味には別状はなかった。パティスリーで美味しそうなケーキも買ってきてくれたが、これはちょっとハズレで産院で出してくれたモンブランのほうが美味しかった。

夕方、雪が降り出した。家で過ごしていたなら素敵なホワイトクリスマスというところだったけど、リュカは家に帰らなければならないし、明朝退院するわたし達を迎えに来なければならず、少し心配になった。

リュカが帰る間際、打ち明けられた。

「実はね、君がロクちゃんを産んだ日、アナが死んだよ」

泣いた。泣くことしかできなかった。

この夜ずっとおとなしかったロクちゃんがずっと泣き続けた。オムツでもミルクでもないようだ。具合でも悪いのかと助産師さんを呼んだが、理由なく泣き続けるのはフツウなんだそうだ。


12月26日 土曜日

朝リュカが迎えに来た。もう一度ロクちゃんの検診。やっぱりパーフェクト。沐浴はわたしがやる。ソープを使うと教わったけど、我が家は大人も外から帰宅した時と食事前の手洗い以外は使わないので、お湯だけにしておいた。

この産院での出産、とても良かった。職員達はノエルの労働も機嫌よくこなし、みんな知識豊富で、よく教えてくれて、とても親切にしてくれた。食事も良かったし、窓から地中海が見えるのも良かった。

使い方のいまいちわからない抱っこひもをリュカに装着して階下に降りた。外出規制でカフェやレストランは開いていなくて、よく階下のベンチに座って手にしたエコグラフィーの写真を眺めながら、リュカとはしゃぎ、自動販売機のカフェを飲んだ。そして今、同じようにいつもの場所に座るわたし達の隣にロクちゃんが寝ている。病院というものは嫌いだったが、この産院だけはわたしにとって甘い思い出の場所になった。

電車で帰宅。ロクちゃんにとっては全て初めての体験。車内で黒人女性の職員がわたし達の前で立ち止まり声をあげた。

「まぁ!なんて可愛い乗客でしょ!もし電車の中に置き忘れても心配要らないわ。わたしがちゃんとお世話しますよ」


Michelina |MAIL