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2018年05月26日(土) |
地球の歴史の中の一瞬の午後 |
図書館のクリスティーヌがランチに招いてくれた。
「特別何か用意したりしない気軽な招待だからね」
と庭の野菜とハーブとBIOの飼料で育てた鶏の卵なんかをテラスの鉄板でちゃっちゃっと炒めて出してくれる。新鮮そのもの。最高ではないか。美味しい料理を頂きながら、日頃図書館では話さない色んな話をした。宗教のことや人生のこと。彼女は厳格なカトリックの家で育てられた。自ずと周囲はみんなカトリックだ。洗礼を受けないと天国に行けないと教え込まれた。
「神様はもっと気前がよくて、ちゃんと生きた人は天国に行かせてくれると思うわ」
家族や友人には言えないが、宗教を持たないわたしだから打ち明けられるのだろう。
「なぜみんな死や死後のことを恐れるのかしら。どんな生命も地球の歴史の中をたった一瞬通り過ぎるだけなのに」
うんうん、わかる。わたしには死のことすら自然の中のたった一コマみたいに感じる。まして死後のことなんて想像しようとも思わない。どうして人は孤独死することや酷い姿で死ぬことを恐れるのか。どうやって死ぬかよりどうやって生きるかということのほうが余程重要なのに。わたしは死んでしまうその時までどうやって楽しく生きていくかだけを考えていたい。
あれこれあれこれと喋りながらゆっくりゆっくりチーズ、デザート、カフェ・・・とフルコースをやっていて、気付いたらもう夕飯の時間。実に6時間かけてランチを食べていたことになる。クリスティーヌとは生まれも育ちもまったく違うが、とても似たフィーリングを持っていると思うことがよくある。わたし達の共通点は多感な若い時に悩み抜いたことではないか。他人の目に映る"苦労人"というわけではない。でも世界のあらゆることに納得できず、どうしてそうなるのか、と自分なりの答えを探して悩んで彷徨い歩いたことだ。そしてある日を境にぱっと世界が明るくなって、何が起きても自分なりの答えをすぐに見つけられるようになる。"地球の歴史の中をたった一瞬通り過ぎるだけ"なのにどうしてそんなに悩んだのか。いや、真剣に悩み抜いたからこそ、そんなあまりにも素朴な生死観に行きつくのだろう。