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2018年01月08日(月) |
Pâtes fraîches aux épinards |
新年初のアトリエ・ガストロノミク。本日はこの辺りのローカル・パスタを作るとのこと。この辺りの名産といったらオリーブだろう、と踏んでいたのだが、予想に反してほうれん草を練りこんだエッグ・パスタらしかった。イタリアはすぐそこといえどもピッツァひとつとっても国境の向こう側とこちら側で様相が違う。うまい、まずいではなく、″違う″のだ。東京のレストランとかのイタリア帰りのシェフなんかのほうが余程忠実に写した感がある。フランス人はどこまでいっても″フランス風″を脱却できないのか。そんなことを考えながら臨んだ。
まずはほうれん草の茎と葉を分ける。葉だけを使うなんて贅沢、なかなか家ではやらないので良い機会だ。そして生のまま葉を小さく小さく刻む。あのイタリアのマンマがよく使ってるハンドルみたいな器具が登場。一度使ってみたかった。感想はわたしの菜切り包丁のほうが楽だな、というところ。大量のほうれん草をパセリみたいな大きさに刻んでいくのは骨の折れることだったが、ここでフード・プロセッサが登場しなかったことにはちゃんと理由があるのだろう。最近料理をしながら身を持って解ったこと。それは、いちばん万能な調理器具は人の手である、ということ。おにぎりは人の手につけた水と塩が体温で溶けてじわりとごはんとよく馴染むから美味しいのだ。パン生地だって手で捏ねているうちに人肌に温かくなってくるから、そのくらいの温度で発酵させるのがいちばんうまくいく。葉っぱやハーブだって手で千切ったほうがかおり高い。りんごにナイフを入れるなんてっ!と断固として丸かじりする人も見たことがあるし、桃やキウィ、トマトなどはよく熟れたものならば、その証拠に手でスルリと皮を剥ける。手でごはんを食べる文化の人々は手で食べたほうが何故か美味いと言う。これは手の温もりでごはんとカレーなんかがよく馴染むからではないのか。わたしの信頼する料理の本にはよく″手で和える″という手順が出てくる。自然の食物はハイテクな機械などなくてもちゃんとうまく口に入るようになっている。
ほうれん草のみじん切りが完成したら準強力粉と卵を混ぜる。そして驚いたことに混ぜるだけで完成。パスタはよく練らないと歯ごたえがなくなるのではないか、と思ったのだが仕方ない。これを麺棒で薄く延ばしたら小さく適当に切って終わり。ざざざっと切って、わっと打ち粉をまぶしてぐちゃぐちゃっとやって終えて横を見ると、料理がまったく出来ないというマダム・シャンパーニュが、綺麗にマニュキュアのついた指でひとつひとつ摘まみ上げ、間隔をあけて丁寧に陳列していた。みんな苦笑していたが、当人は真剣そのものだったので手伝うことにした。青々としたパスタは見た目がとっても綺麗。マダム達に何のソースで食べるのか、と聞いたらみんなトマト・ソースとパルミジャーノということだった。
いつもおしゃべりが主役だが今日はけっこう働いた。全て片付けたらおやつタイム。いつも誰かしらが手作りのお菓子を持ってくる。今日はわたしはトルコのアップル・クッキーを持参した。もう10年以上作り続けているもので、毎度作るたびに飛ぶように売れるクッキー。マダム・シャンテは嬉々としてたくさん食べて、空になったボックスをわたしに返却しながら、
「今度は日本のお菓子作ってきてね」
と無邪気に言う。彼女はもう70歳はとうに超えてるだろうな。でもいつも歌ったり、踊ったり、喋ったりと活発。バターたっぷりのお菓子なんか大好きで、ペロリと食べてしまう頑丈な胃袋も頼もしい。元ダンサーで世界中を旅したという。色白の肌と小さな顔、その中に入る全て小ぶりのパーツ、青い目、たまに可愛らしい感じでワガママ言ったりするところも絶対にモテただろうなという感じ。いつ会ってもすごく楽しそうで幸せそうなオーラを漂わせてる。憧れのマダムである。今度はどら焼きでも作っていこうか。果たしてあんことかみんな口に入れるだろうか。カステラなら無難か、でも無難過ぎる気もする。栗饅頭ならなんとかいいか・・・とあれこれ考えながら帰る。
マダム達に習ってトマト・ソースで食べることにした。ただトマト・ピューレをたっぷりのオリーブ・オイルと煮詰めて、少しクリームを入れて終わり。歯ごたえがどうかと思っていたパスタは思いのほかとびっきり美味しかった。