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キャンベラにいるわたしの猫の写真が送られてきた。そこには猫生16年目で少し老けたものの、元気な姿があった。寝てる時間がめっきり長くなったものの、食欲旺盛で、気が向くと外にでて遊んだりもする、と書かれていた。
2年前、猫にとって猛毒と言われるユリの花粉が体内に入ってしまい(風で飛んで毛に付着し、そこを毛繕いしたりして侵入する)、腎不全となり意識不明となった。酸素マスクを充てた体で横たわり続けた後に、獣医から安楽死を提案された。飼い主であるわたしのexはその提案をのまず治療を続けて欲しいと頼んだ。その後2週間血液クレンジングを続けて、結局意識も戻り家に戻ることができた。
「あの時獣医を信じて安楽死なんて選択しなくて本当によかった」
とも書かれていた。
安楽死についてしみじみ考えた。
安楽死は人間の世界のものでこれを動物に施すのは人間のエゴではないのだろうか。動物はどんな苦境でも必死で生きよう、生きようとする。その本能的なエネルギーは他者の選択によって断ち切られるべきではないと思う。苦しんでいて可哀そうだから安楽死させる、というのは人間側からの見解であって動物の意志ではない。自らの安楽死を選択する人のことは尊重したい。しかし他者の命を断ち切るのは神の領域であって、人間の領域ではないように思う。
5歳年下の従妹は4歳で小児がんを発症して、入退院を繰り返していたが、9歳で息を引き取る3日前にわたしに手紙をかいて寄こした。
「なおったらいっしょにおばあちゃんの家にいこうね」
もうダメだとあきらめるのは人間の大人だけなのではないか。無垢なものは必至で最後まで生きようとする。
あの時治療に莫大なお金を継ぎこんでしまったexはしばらく節約生活を余儀なくされ、酒をやめた。そして猫ともども健康で元気に暮らしているようだ。