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2012年06月28日(木) |
The Bridges of Madison County |
邦題「マディソン郡の橋」を再び鑑賞した。最初に観たのは10代の時で、当時は勝手にストーリーの中の″大恋愛″という箇所にだけ焦点を当てていたようで、その記憶しかなかった。だいたい″大恋愛″と呼べるようなものを体験したことがなかったのだから、どちらかといえば夢物語のような印象だった。ところが今あらためて観ると、それはまったくの現実世界であった。片やアイオワの小さな田舎町の先祖代々続く小さな農場にイタリアから嫁いできて、それなりに良い家族を築いたものの、会話のないディナーとテレビと町の噂話だけが娯楽のような日常を淡々とやり過ごす主婦。そして片や、ナショナル・ジオグラフィックのカメラマンで世界を旅して"ホーム"を持たない浮雲のような男。メリル・ストリープ演じるフランチェスカがすぐにこのクリント・イーストウッド演じるロバートに熱をあげてしまったのは容易に理解できる。しかし、逆になぜロバートがフランチェスカにそこまでいれこんだのかはいまいち不可解だ。たしかに愛らしい女性ではあるけれど、絶対的な理由が見当たらない。しかし、このロバートみたいな男はわたしが好きになる男と精神のありかたがそっくりで、わたしには珍しくもなんともないと思った。フランチェスカがロバートに、
「今までいった場所で一番好きなところは?」
と尋ねた時、こんな男はそう聞くと"アフリカ"とか言うに決まってる、と思っていたら本当に、
「アフリカ」
と答えているので苦笑した。こういう男は文明人に言わせれば"コミットメントフォビア"と呼ばれて、結婚とか家族とかそういう約束や責任を恐れる都会の仕事大好き人間にありがちな人種ということになりそうだが、実際は彼らの頭の中にはアフリカの弱肉強食の自然界があり、自分がそのパートだという意識であるから、無邪気に求愛し、甘い言葉を囁き(そしてそれは恐らく本心なのだ)、しばらくしたら女はその場に置いたまま食料を求めて旅に出るなんてことは動物として極めて自然であるなどと考えている"プレイボーイ"と呼ばれる人種よりも、ある意味ではたちの悪い人種である。なんでこんなに力説してるかって?(笑) だって"ひとめぼれ君"はロバートにそっくりなのだ。彼もロバートみたいに自分の人生が他人と共にあるところなど、恐らく想像すらしていないだろう。
話は戻って、たった4日間濃密な時間を過ごして、余生をこの思い出に捧げてしまった二人なのだが、たった4日間だからこそ大いに盛り上がってお互いに悪い面を見せ合わず、美しい思い出として心の中で燃え続けるのであって、そのまま余生を一緒に過ごしていたら、フランチェスカを魅了した自由で経験豊富なロバートは、おなかを満たしたファミリーガイのようになり下がり(個人的には"下がる"とは思わないが)、ロバートを魅了した貞淑で愛らしい人妻のフランチェスカは家族を捨てて男と駆け落ちする悪妻になり下がって、生活が落ち着いた瞬間にふっと熱が冷めてしまっていたんじゃないかな。なによりも非凡はそのうち平凡に変わってしまったことでしょう。
しかし、この映画切なくてほろりと泣いてしまった。子供の頃に見た夢をときどき思い出しては"こんなはずじゃなかった"と思う人が世の中大半でしょう。そして、だからってすぐに荷物をまとめて違う世界に出かけられるほど身軽じゃない。アメリカの広大な田舎の風景の中にある人間ドラマは、その風景と裏腹な出口のないような閉鎖的な空気があって、それだけで胸にせまりくるものがある。