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2012年01月20日(金) |
Desert Flower |
映画"Desert Flower"の原作であるWaris Dirieの自伝を読んだ。ソマリアの遊牧民がチャンスに恵まれとんとん拍子にスーパーモデルになった、どうせ単純明快なサクセスストーリーなんだろうと侮って見始めた映画だったのだが、映画が終わっても涙が止まらず、その夜はめそめそと泣き続けて、翌日この本を手にとったのだった。
Warisはソマリアの遊牧民の両親の元に生を受ける。日々の暮らしは水と食料の確保とらくだと山羊の世話に尽きる。食料にありつけない日も多いようだが、笑いが絶えず、歌って踊り、牧歌のような大らかさで、流れる日々をやり過ごす。"夕飯があること"が当たり前ではなく、母親が何も出さなければ、子供達はただ自然とそれを理解し、愚図るでもなく床に着く。それでも何よりも当人達が幸せだというのだからそうなのだろう。あくせく働きづめで自殺者の耐えない先進国は途上国支援だのなんだのとやる前に、まず自分達の精神衛生状態を心配するべきであろうと思わずにいられない。
そうして14歳になったWarisに大きな転機が訪れる。父親が5頭のらくだを手に入れるため、彼女を70歳の老人と結婚させようとしたのだ。結婚自体も、ましてやこんな老人と結婚することなど考えられないWarisは、家族から逃げることを決意し、方角も分からぬまま、叔母が住んでいる首都のモガディシュを目指して、砂漠の中へ走り出した。荷物も靴も水も食料もない。何日も何日もひたすら広大な砂漠を歩き続けた。途中でライオンに遭遇し、死ぬ覚悟をしたが、アラーが守ってくれたのか、骨と皮だけの少女では食欲も沸かないのかライオンは去っていったという。
奇跡的にモガディシュに辿り着き、そこからロンドンへ移り住む機会を得たWarisは、その後も何度も好機に恵まれた。そして苦労をしながらも着実に暮らしは好転していき、ついにはELLEやVogueのカヴァーを飾るようなスーパーモデルに躍り出た。好機に恵まれたのは偶然ではなく、彼女が芯の部分にしっかりとした強い意志を秘めつつも、非常に柔軟で良い性格の持ち主で、人脈に恵まれたこと、また遊牧民気質なのか、そこそこ状況が好転してもそこにずっと留まろうというような執着を示さず、流れるように次のステップに踏み出していく行動力が大きな要因だと読み取れる。水がなくても強く咲き誇る"砂漠の花"という意味の"Waris"という名前にまったく劣らない人だ。
ニューヨークに住み、スーパーモデルとして活躍し、初めて家というものを所有し、結婚して子供にも恵まれた。しかし、ストーリーはここでハッピーエンディングとはならない。ここからがハイライトなのだ。
Marie Claireの記事の取材を受けた彼女は衝撃的な告白を始める。
"FGM−female genital mutilation(女性器切除)"漠然と聞いたことはあっても、どんな手法で施されるのか、どんな弊害があるのかということまで知らなかったから、遠い遠いどこかのお話くらいに思っていた。それについて語られるとき、"女の子は性器を縫って、結婚初夜に旦那がそれを開ける"と神々しく表現される。しかし、よくよく説明を聞けば、女性の性欲を抑えさせ、結婚するまで処女でいられるようにクリトリスを切り取り、単に男性が気持ちがいいように膣口をきつく縫っておくに過ぎない。Warisの生まれ育った民族間ではFGMを施されていない女性が結婚することは難しい。先進国の親が子供を良い学校へやることを義務としているように、Warisの母親も当然のように5歳の彼女にFGMを施した。いつもより大きな夕飯をもらった5歳のWarisは母親に手をひかれ、遠く遠く人里離れた場所へ連れていかれた。そこに待っていたのはジプシーの女性。大きな石の上で、脚を開かされたまま母親に押さえつけられたWarisはジプシーの女性に剃刀のようなものでクリトリスと小陰唇を切り取られ膣口を縫い付けられた。もちろん麻酔も鎮痛剤もない。あまりにもの痛みに気を失ったWarisはそのまましばらくそこへ放置された。痛みによるショックや傷口の化膿、出血多量で死に至る少女も少なくないという。Waris自身も姉と従兄弟二人をFGMにより失っている。だが、Warisは生き延びた。しかしそれが終わりではない。そこから痛みの人生が始まる。ほんの小さな出口を残して塞がれた膣口から尿を出すのには痛みが伴い、また大変な時間がかかる。生理が来るたびにあまりにもの痛みにWarisは何度も気を失っている。
Marie Claireでの告白は人々に大きな衝撃を与え、やがてWarisはFGM廃止を訴える国連大使となる。母国と母への愛を持ち続けながらも、そこで長年繰り返されてきた習慣の廃止を訴える活動をすることは複雑な思いが伴うことだろうし、何よりも勇気がいることだろう。息子がいるから声をあげることを躊躇する、けれど息子がいるからこそ、未来の子供達を守らなければ、という使命感がWarisを動かした。
本を読み進めていくうちにあらゆることに対するWarisの考え方に共感した。ソマリアの遊牧民の彼女と日本のごく平均的な家庭で育ったわたしでも痛みや悦びや悲しみの源は同じだ。同じだからこそ余計Warisの体からはっきり女性であることを意味するものと、ある種の悦びが永遠に奪われたことに涙が止まらなかった。Warisのように他国を見なければ、自分の受けた傷の悲惨さに気付くこともなかったとも言えるけれど、それでも男性の快楽だけのために無意味に痛みの多い人生を送る女性達をただ傍観していていられるのか、あらためて先進国からの"支援"のありかたを考えてしまう。