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2011年12月30日(金) |
ブータンの暮らしから"幸せ"について考える |
朝のテレビ番組で「世界一幸せな国、ブータン」についての特集をしていた。それは本当なのか、真相を確かめるべく、番組スタッフがブータンの首都ティンプーから車で2時間の郊外の村にある一般家庭でしばらく生活を共にすることになった。土壁の400年の歴史がある三階建ての家、これが一般的なブータン家庭。一階は家畜用、二階はキッチンなどで、三階が居住スペースになっている。朝は6時起床。牛の乳搾りから始まる。それが終わると今度は餌やり。昨夜の人間が残した食料を与える。午後からは石を焼いて3時間かけて風呂を炊く。夕飯は6人家族なのに玄米を13合も炊く。ブータンの成人男性などは一人で一度に3合くらい食べるのは普通だという。原始的な暮らしぶりを見ていればそれくらい食べなければならないくらいのエネルギーを消費していそうだが。玄米の上に4種類くらいのおかずが乗っていて、なかなか美味しそうだ。みんなで床にぺったりと座り、テレビもなく、おしゃべりをしながら食べる。
日本人である番組スタッフはこういった暮らしの感想をこう率直に述べていた。
「幸せかといわれたらわからないけれど、毎日"生活をしている"という実感が持てる。そういう点が人々の幸せに繋がっているのではないか。」
わたしは深く共感した。このところ本当によく眠れる。ここ数年わたしを苦しめた不眠症は突然解消した。カフェインのせいか、疲れが足りないのか、はたまた疲れすぎているのか知らず知らずのうちにストレスを溜め込んでいるのかとあれこれ原因を探り、そしてまた今夜眠れなければ明日が辛いだろうという心配で眠れなくなったりもした。今になってその理由が解った。それはこのところ心配ごともなくとても幸せだからだ。仕事のほうも良い意味で楽する方法が身についてきたし、遠い将来を見つめた大きなものではないが、目下の目標があり(新しい勉強を始めたのだ)、毎日がそれに尽きていく。夜ベッドに入る時には、体も頭もどっと疲れていて、それがまたあぁ今日もやり遂げた、という満足感を沸かせスッと心地よく深い眠りに落ちていく。
話はブータンに戻って、これが郊外の村の一般的な暮らしのようなのだが、首都のティンプーは全く様子が違う。近代化が急速に進み、人口の60%の人が携帯電話を持ち、テレビは殆どの家庭にあり、中国から海賊版のゲームソフトや偽ブランド品もわんさか押し寄せてきている。数年前まで禁止されていたインターネットが解禁になったおかげで外の情報もどんどん入ってくる。若者はベッカムヘアをしているのだが、韓国の俳優を真似たと言う。また偽ブランド品が偽だということも知らず、無邪気にお店で売っている。新しく建設されているマンションの裏手の土手はペットボトルなどのゴミが散乱している。急激な近代化に人々の精神と知識が追いつかず、今までの暮らしではなかった"ゴミ"の処理の仕方も解らない人が多いのだという。
何を持って豊かと感じるかは人によって違うだろうけれど、便利な物質に囲まれることより時間が緩やかに流れることを豊かだと感じるわたしにはとても残念に思えた。しかしわたしが暮らしている場所はティンプーよりも遥かにゴミの多い場所だ。ゴミはきちんとゴミ箱に追いやる知識はあってもその量は比ではない。"情報のゴミ"に関してはうっかりしているとメモリを侵食されて必要なものが入らなくなってしまう。先日友人に付き合って、銀座のアップルストアに行き、製品についての説明を聞いたのだが、あそこの店員はなにせ勉強家のようでみんなプロ意識が凄い。何を聞いても機械のごとく機敏に回答をくれる。もちろんその裏に努力があるのだから尊敬する。しかし、その空間は人間がロボットのようになってしまったと小さく面食らったのはわたしだけだろうか。接客は冷ややかでもないし、かといって親切すぎるということもない。何もかもがきっちりマニュアル通りという印象を受けた。彼らの売っている製品が製品だからそれはそれで適材適所だろう。しかし生身の人間の暮らしはそうはいかない。機械のようにメモリをさっぱり消去したりもできない。このような社会の動向と人々の精神と知識が微妙にずれて隙間ができてしまったところに不幸がじわりじわりと忍び寄っているように思える。
(写真;暴力猫)