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2011年11月18日(金) |
Never let me go |
痛く、切なく、美しい映画だった。一見普通の寄宿学校でのびのびと育っているかのように見える主人公のキャシー、ルースとトミー。良い仲のキャシーとトミーに嫉妬して必死でトミーを奪おうとするルース。そんな他愛ない子供の世界を映しているが、実はこの寄宿学校の生徒は、何らかの形で捨てられた、または売られた孤児達で、生まれながらに臓器提供のために生きる運命を背負わされていた。語り手のキャシーは、"大抵は3度目の"Donation(提供)"で"Complete(終了)"を迎えるというが、一度目でCompleteしてしまう人もいる"と説明している。寄宿学校でそう教え込まれたのだろう。死がCompleteなどとさらりとした言葉で表現されているのがおぞましいと思いながら最初は見ていた。18歳になるとこの寄宿学校を出て、農場のコテージに移り、Donationの通知がくるまではそこそこの自由を与えられ、日帰りなら旅行なども許可される。逃げようと思えば出来てしまいそうだが、子供の頃からそういう運命だと洗脳されて育ったのだろう、誰も運命に抗おうとはしない。しかし、病的にそれが正しいと信じているわけでもなく、彼らの中には人を愛したり、痛みを感じたりする感情がしっかりと息づいているから余計切ない。
やがてルースを失い、愛するトミーを失ったキャシーの心ににわかに形作られた思想にこのストーリーの結論が集約されているようだ。
What I'm not sure about, is if our lives have been so different from the lives of the people we save. We all complete. Maybe none of us really understand what we've lived through, or feel we've had enough time.
わたし達が救った人と、わたし達に救われた人はどう違うのだろう。誰もが生の意味を理解しないまま死んでいく。
さて、人間だととても異常に映るが、動物の世界にはすでにこんなことはどこにでもある。実験用の動物は工場のようなところで、同じ健康状態で育つように生み出され管理されているし、食用の動物も然り。ある海外のドキュメンタリー番組で見たものでは、ペットの犬や猫のための臓器を処分される寸前の犬や猫から取り出して移植するというものだった。友人は、どうせ処分される命なら他の命の役にたてたほうがいいのではないかという意見だったが、わたしは納得できなかった。わたしのペットの命と処分される命どう違うのだろうかと。他の猫の体を切り刻んででも自分の猫を生かしたいとは思わない。生には必ず終わりがあるのだ。それを受け入れて静かに終わりを迎えるほうが安らかに眠りにつくことができるのではないか。