月に舞う桜

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2020年01月19日(日) インクルージョンなのか、同化なのか

私は、小学校からずっと普通級で育った。
いろいろな配慮を得られたし、わりあい分け隔てなく処遇してもらえた。
それでも、いま振り返ると、私が健常者の世界に過剰適応した上でのインクルーシブだったようにも思う。野口さんの言う「異質と対話」というより、同化に近かったのではないだろうか。

同じクラスだった友人に、大人になってから障害者を取り巻く社会の現状や将来への不安を話したら、「弓月ちゃんとは何の問題もなく一緒に育ってきたから、そんなに大変だとは思わなかった」という趣旨のことを言われて愕然としたことがある。
当時から大変だったし、何の問題もないわけないのだけれど、同じ場所にいても、マジョリティの立場では見えないものがたくさんあるのだなあと感じた。

私は学校環境にとても恵まれていたと思うし、あからさまな排除というほどの目には遭わなかったけれど、友人のあの発言以来、インクルーシブっていったい何なのかと考えてしまう。
もちろん、基本的にはインクルーシブは良いことだし、目指すべき方向ではあるのだけれど。

いろいろな立場の人が同じ空間に当たり前のように存在することは、望ましい。
でも、それだけでは、その奥にある社会構造の不均衡にまでは思考が繋がりづらいのかもしれない。
当たり前のように一緒にいることで、逆に「何の問題もない」と思わせてしまうのだとしたら、その空間のあり方には何か問題があったのではと考えずにはいられない。

そう言えば、去年行った合理的配慮と障害者差別解消法の講演会で、インテグレーション(統合)とインクルージョン(包摂)の違いを教わった。
インテグレーションは、”健常者に合わせられる障害者だけ入れてあげるよ” だと。
インテグレーションって、「同化」に近いのかなあ。


◆野口晃菜さん @akinanl のツイッターより(連続ツイートの中の1ツイート)
https://twitter.com/akinaln/status/1215070930742824960?s=20
「通常学級に在籍していても、交流および共同学習の頻度を増やしたとしても、通常教育そのものに「異質と対話」できるキャパシティや志向性がないと逆に排除が進む。」


桜井弓月 |TwitterFacebook


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