月に舞う桜
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2019年03月28日(木) |
卒業式の思い出 その2 |
あっと言う間に卒業シーズンが過ぎてしまったけれど、書いておく。
私が通っていた中学校(普通校の通常級)の卒業式での、今でも忘れられない衝撃的な出来事。 卒業式では、卒業生が一人ずつ名前を呼ばれた。 私以外の生徒のときはしんと厳かに見守られていたのだが、私の名前が呼ばれたときだけ、保護者席から大きな拍手が起こった。一人や二人ではなく、多くの保護者が拍手していた。
私は、その大きな拍手に愕然とした。その拍手は、私にとって誇らしいものであるどころか、むしろ侮辱だった。 私は卒業生代表やクラス代表という立場でもなければ、保護者に知れ渡るような何か大きな実績を残したわけでもない。 280名ほどいた卒業生の中で、私だけが唐突に、不自然に拍手を受けたのは、私が(見えやすい形での)障害者だからだろう。それ以外の理由が考えられない。
今でもときどき考える。 あのとき、なぜあの人たちは私に向かってだけ拍手したのだろう。 なぜ私はたった一人、拍手を浴びなければならなかったのだろう。
健常児であれ、障害児であれ、学校生活を送る上では様々な困難に見舞われることがある。とは言え、義務教育を卒業することは、特別なことではない(特別ではない社会であるべきだ)。卒業式において、卒業生はみな等しく祝われているはずで、そこに相対的な優劣の差はない。 あの拍手は、祝意というより称賛の意味だったのではないか。そして、卒業生の名前が呼ばれても拍手しないことが暗黙の了解になっていた場で、私のときだけ拍手した人たちは、無意識に選別し、私を異質なものとみなしていたのではないか。 健常児が義務教育を卒業するのは特別なことではないが、普通校で健常児に混じって “ 立派に ” 卒業した障害児は称賛に値する、と。
それはちょうど、ステラ・ヤングさんが、ごく普通に生活しているだけなのに地元コミュニティの役員から「コミュニティの功労賞にノミネートしたい」と言われたのと似ている。
あの拍手によって、私は隔てられ、遠くに追いやられたように感じた。 私は、あの人たちに悪意があったとは思わない。むしろ、あの人たちは善意の塊だっただろう。 それが、この世の中の恐ろしいところだ。 私はあのとき、ときとして拍手が侮蔑や侮辱になることを知った。 そして、善意に潜む差別、善意に潜む排除、善意に潜む暴力の存在を知った。 もちろん、社会構造上、制度上の差別や、悪意による排除もたくさん知っている。 けれども、私がこれまで体験した中で最も忘れられない差別は、悪意によるものではなく、あの、善意の拍手だ。
◆ステラ・ヤングさんのスピーチ「私は皆さんの感動の対象ではありません、どうぞよろしく」(日本語字幕あり) https://www.ted.com/talks/stella_young_i_m_not_your_inspiration_thank_you_very_much/transcript?language=ja
◆「卒業式の思い出 その1」はこちら↓ http://www.enpitu.ne.jp/usr10/bin/day?id=105384&pg=20190312
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