月に舞う桜
前日|目次|翌日
信頼している(いた)友人や、テレビやネットで「この人の姿勢とか考え方とか言葉とか、好きだな」と感銘を受けていた人が、ある物事に関してものすごく差別的で排他的なことをものすごく無自覚に言っているのを見聞きすると、ものすごくがっかりする。
そして、テレビやネットの向こうの人なら「信用できない枠」に移動させれば済むけれど、それがリアル知り合いだった場合、差別的で排他的な言葉が私に向けられたものではなくても、ショックを受けるし傷つく。
差別というのは悪人が悪意を持ってするものではなく、むしろ善意に潜む差別のほうがはるかに多い、ということは重々わかっているけれど、あっけらかんと吐き出されるその差別的な言葉がたとえ私とは別の属性に向けられたものだとしても、「この人、心の中では私のこともどう思ってるか分かったもんじゃないな」と感じて、精神的に距離を置く。
あっけらかんとした差別(無)意識や排他感情を隠し持っている善人は、おそらくいたるところに――お店にも電車の中にもライブ会場にも――いて、油断ならない社会だ。
自分をフェミニストだと思っていて、フェミニストっぽいことを言っているつもりの人はたくさんいるけれど、トランスジェンダーの権利擁護や障害者の性の問題について何か言わせたら、馬脚を現すことも多い。 労働問題や在日外国人へのヘイトの問題では高い人権意識を持っているのに、性犯罪の話になると女性蔑視の発言をする人だって多い。
すべての人の権利擁護を目指しているのか、自分と異なる属性の人に対しては実は差別的で排他的なのかのリトマス紙は、あちこちに散らばっている。
|