月に舞う桜

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2018年12月28日(金) 障害児者の性暴力被害リスク

刑法の性犯罪処罰規定に、「被害者が障害児者であることに乗じた性犯罪」の創設などを盛り込むことを求める署名キャンペーンに賛同しました。

★署名キャンペーン「なぜ障がい者が性暴力を経験しているの?〜刑法に『性犯罪被害者としての障がい者』の概念を盛り込みたい〜」
http://chng.it/dWpzgvdk

どの障害種別でも、それぞれに性暴力被害リスクが高い要因があると思う。
例えば、身体接触を伴う介助が必要な障害者の場合、そもそもプライベートゾーンやパーソナルスペースが曖昧になりやすいうえに、そういった領域への侵入を受け入れなければ生きることさえままならない。
また、「恐怖で抵抗できない」といった心理的圧迫の他に、身体障害上の理由から「その場を離れる」「相手を押しのける」などの物理的な抵抗や防衛が難しいことが多い。

私自身、そういった障害者ゆえの弱みを利用されて暴力を受けたことがある。
自分の中で暴力と暴力でないものの線引きが難しい……いや、むしろ、「これは暴力ではない」と無理やり線を引いてきた経験もある。プライベートゾーンやパーソナルスペースへの侵入を受け入れなければ生きていけない以上、健常者であれば当然に拒否するであろうことも「不快だけど仕方ない」と自分に思い込ませてきた経験。

厚労省が、2017年度の障害者に対する養護者・施設従事者・使用者からの虐待状況調査結果を公表している。
https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000189859_00001.html

昨年、監護者わいせつ罪と監護者性交等罪が新設されたが、どちらも被害者を18歳未満に限定しているため、十分ではない。障害特性を鑑みるに、18歳以上でも障害者の性暴力被害リスクが下がるわけではないだろう。

(また、強制性交等罪が基本的に暴行または脅迫を要件としていることや、被害者がどの程度抵抗したかが問題視される現状、そもそも日本の刑法は性犯罪の加害性・暴力性をかなり低く見ている。)

「明らかに暴力である」とは言えないような事象でも、自分の尊厳が傷つけられ、存在が揺らぐ感覚に陥り、「なぜ自分はああいう目に遭い、それを我慢しなければならなかったのだろう」と考え続けることになる。
ましてや明らかな性暴力被害に遭えば、それはなおさらで、加えて憎悪が後々までずっと残ることになる(性的なものに限らず、暴力全般に言えることだろうが)。

署名キャンペーン発起人の進捗報告に

「『性的虐待』として報告されている事案の中には、本来刑法性犯罪で、強制性交等罪もしくは強制わいせつ罪に該当するものもあります。しかし『障がいがあることにより裁判が困難』といった理由から、そのほとんどは事件化されず、対応は『施設・従事者への指導』等にとどまっています。」

とある。
障害に起因する「防衛・抵抗の困難さ」を利用されて性犯罪に遭い、さらに、被害者の障害を理由に加害者が罰せられない現実。
これは、司法が障害者を見捨てているということだし、被害者が「加害者を罰すると、自分が生きていけなくなる」と思い込んでしまうような社会的構造の問題もあるかもしれない。

すべての障害者が尊厳を守られ、心身を脅かされずに生きていけるようになるためには、福祉や教育など様々な分野の取り組みが必須だが、司法の力も不可欠だ。
性犯罪が厳罰化されるとともに、障害者の性暴力被害リスクが社会的に認知されることを望む。

★「障がい児者への性暴力に関するアドボカシー事業」の報告書(発達障害児者へのアンケート結果や当事者インタビューなど)はこちら↓
http://disabled.shiawasenamida.org/shiawasenamida_a4.pdf

※報告書の表紙に「障がい児者への性暴力が認められるへ」とあるが、ここでの「認められる」とは、もちろん「許可」の意味ではなく「認知・認識」の意味。大変意義ある報告書なのに、言葉のチョイスがかなり残念。
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この機会に、ついでに書いておく。

健常者であれ障害者であれ、性暴力の被害者側が責められたり「落ち度」を問題視されたりする理由は微塵もない。
どんな服装をしていてようが、食事や飲酒をともにしようが、加害者の部屋へ行こうが、道端に裸で寝転んでいようが、加害者が免責されたり「性暴力に遭っても仕方ない」などと言われたりする筋合いはない。
(道端に裸で寝転ぶのは公然わいせつ罪なので罰せられる理由にはなるが、性的に加害されても仕方ない理由にはならない。)

よく「加害者が悪いのは当然だけど」と前置きしたあとに、被害者のあれこれをあげつらう人がいるが、私はそういう人を性暴力に加担する人間とみなします。
もしも加害者個人だけに責任を問うべきではないとしたら、語られるべきは権利教育や性教育の不十分さや、社会のいたるところにある権力・支配構造の問題などであって、断じて被害者がどうのこうのという話ではない。


桜井弓月 |TwitterFacebook


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