月に舞う桜
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2017年07月26日(水) |
Life is beautiful |
相模原市の障害者施設「やまゆり園」の殺傷事件から丸一年。 何を語るべきか整理がつかないまま、それでも、何かを書き残しておかなければならない気がしている。
7月14日、X JAPANのライブに向かう電車内で、私と向かい合う形で知的障害があるらしき女性が立っていた。 そのとき、私はToshlとマイメロがコラボした「Toshl My Melody」のTシャツを着ていた。 目の前に立っていた見ず知らずの女性は、私のTシャツを見て「マイメロ、かわいい♪」と言ってくれた。
それから、その女性は近くにいた知り合いの男性とおしゃべりを始めた。 海の日を含む三連休は何も予定がないので家にいるつもりだ、と男性が言うと、彼女は「家にいるの、いいね! 家族と一緒にいるのがいいよね」と明るい声で返した。 それを聞いて、私は「何てポジティブなんだろう!」と感心したのだ。 ともすると、私たちは「せっかくの連休に何も予定がないのは、寂しく、つまらないこと」と考えがちだけれど、「家族と家にいられるのは、いいこと」と思えるのはとても素敵なことだ。きっと彼女は、人生を明るくポジティブにとらえることができているのだろう。それに、家族を愛し、愛されているのだろうとも思う。そんな声だった。
「障害者は不幸しか生み出さないから、いない方がいい」と考える人は、残念ながら一定数いるのが現実だろう。そのことに対して、私は特段驚かない。
そして、「○○はいない方がいい」という考えは、おそらく社会のいたるところに存在する。 ○○に入るのは、ときには「女」かもしれない。「子供」かもしれないし、「年寄り」かもしれない。「外国人」の場合もあるだろうし、「同性愛者」であることも。 「○○はいない方がいい」の対象となるのは、私かもしれないし、あなたかもしれない。「そんな可能性はない」などと、どうして言えるだろう?
障害者を取り巻く様々な問題は、当然、社会の中で取り上げられなければならない。 でも、この事件が障害者差別や障害者の人権といった側面だけで語られることには、以前から疑問を感じている。
この事件は、「障害者の話」なの? 本当に?
相模原の事件は、たまたま障害者が標的にされた。 障害者は、施設職員だった加害者の身近な存在だった。身近だからこそ、憎悪と排除の対象になったのだろう。 数年前まで、私は「互いを理解するためには、接して、知ることが大事」と思っていた。けれど、人の心はそれほど単純でも善良でもなくて、「接したからこそ、知ったからこそ、湧き起る負の感情」というものもある。
けれど、「○○はいない方がいい」という信念を持っているからと言って、人はそう簡単に「殺人」という行動にはいたらないものだ。 「殺したい」とか「殺した方がいい」と思うことと、本当に殺してしまうことの間には、普通はとても分厚くて高い壁がそびえているものではないか? 加害者が、なぜその壁をいとも簡単に乗り越えてしまったのか、私には分からない。 ただ、壁をいとも簡単に乗り越えさせてしまった社会が、かなしく、残念でたまらない。
例えば、衆議院議長宛てに手紙を出していたのに。 例えば、施設内で、「この人たちを殺した方がいいんじゃないか」と呟いていたのに。
なぜ。
19人もの死者を出した事件のわりには、報道が少ないようにも感じている。 例えば、地下鉄サリン事件。あの事件では、13人の死者が出た。 もちろん、事件の重大性を死者の数で比べることはできない。死者が1人であれ100人であれ、被害は痛ましい。どちらが大きくて、どちらが小さいということはない。 それでも、地下鉄サリン事件当時の報道量を思い起こすと、それ以上の死者を出したこの事件は、あまりにも「語られていない」のではないかと思う。
なぜ?
何か、後ろめたいことでもあるの? 直視したくないことでもあるの?
この事件は、「障害者の話」なのでしょうか?
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